(17)波風


その日の夜、周瑜の邸の表に馬車が止まった。

小喬は慌てて周瑜の元へとやってきた。
「だ、旦那様、大変です!孫将軍様がおいでになりました!」
小喬のあわてっぷりに苦笑した。
「なんでございましょう?こんな夜更けに…」
周瑜は小喬に、孫権を自分の部屋に通すようにと指示し、自らも着衣を改めた。

数日前、周瑜は孫権に書簡を届けていた。
その内容について、問い質しに来るであろうことは予想していたのだ。



「主公、よくおいでくださいました」
周瑜は礼をとって孫権を部屋へ迎えた。
「うむ、体はどうか?辛そうなら出直すが」
「いえ、話す程度には支障はありません」
「そうか」
二人は卓を挟んでしつらえられた牀(短い脚の椅子)に向い合わせに坐した。
卓には小喬が用意した茶と軽食が出されていた。

先に口を開いたのは孫権だった。
「書簡を読んだ。後任に魯粛をと書いてあったが、本当にそれでよいのか?」
「はい」
「魯粛についてはいろいろと城内でもあまりよろしくない噂があるようだが聞いているか?」
「はて、どのような噂でしょうか」
と、周瑜はとぼけてみせた。
「口論の末、おまえに毒を盛ったのではないかという話だ」
ついに孫権の耳にまで入ったか、と周瑜は思った。
「そのようなたわごと、一体誰が言い出したのでしょう」
「さてな」
孫権は顎髭をなでる仕草をした。
周瑜は姿勢を正した。

「私と魯粛は旧知の間柄で、意見が食い違ったとしても決してそのような愚かな真似をする男ではありません。私と彼は常に公人として孫呉に仕える身なれば、私事でこの地にいらぬ騒乱を起こすなど天下に恥ずべき所業と心得ましょう。そのような噂は本人にきっぱりと否定させるべきでしょう」
周瑜は凛として言い放った。
「うむ、俺も鵜呑みにしていたわけではない。だが事実おまえが伏せっている上、魯粛も登城してこないわで、誰も否定できなんだ。それでおまえに直接話を聞こうと思ったのだ」
「それは…誠にお手間を取らせました。そのような噂話のためにわざわざのご足労をおかけしまして」
周瑜は頭を下げた。
「その件はあくまで口実で、おまえの具合を見舞うために来たんだ。頭を下げる必要はないぞ」
「恐れ入ります」
「…だが、おまえが魯粛を指名するとは思わなかった。おまえが魯粛の人となりと才を認めていることは書いてあったが、おまえの真意はどこにある?」
「殿は、私が誰に後事を託すとお思いになりましたか?」
「…おまえの後事になど、誰も思いつかん。武勇だけで選ぶならば別だが、上に立つ者としては誰も適当と思えぬ。だが軍歴を鑑みれば程普やカン沢あたりが妥当ではないか」
「実は以前、程徳謀殿にはそのような話をしたことがあって、あっさり断られているのです」
「なんと、そうなのか」
「目上の自分に厄介事を押しつける気か、と。そして私の後はやりにくいのだと嫌味を言われましたよ」

以前、程普と周瑜はあまり仲が良くなかったが、赤壁の戦以来、その信頼は取り戻せたようで、周瑜が南郡から戻る際には程普は自ら周瑜の替わりを務めることを希望したものだ。
「ふぅむ。して、当の魯粛とは話をしているのか?」
「いいえ。なにしろこのようなことになってしまったもので。しかし彼には問答無用で受けてもらいます。そのくらいの嫌がらせはしても、罰は当たらないでしょう」
周瑜は唇を歪めながら言った。
「しかしながら、彼は武勇を誇る武官ではありません。実動の指揮は呂蒙に」
「呂蒙か。…お前の考えていることがなんとなくわかったぞ」
孫権は再び髭の生えた顎に手をやった。
「呂蒙か、そうか」
孫権はひとりで納得したように何度もそう呟いた。

「しかし、この状況で今すぐおまえの後任に魯粛を、というのはまずい。張昭とも相談したのだが、一旦魯粛を豫章へやろうと思っている」
「私もそれが良いと思います」
周瑜は素直に頷いた。
だが張昭と、というところにひっかかりを感じないわけでもなかった。
張昭は周瑜が孫策に奏じて招いた人物であったが、どうにも魯粛を気に入らないらしい。
魯粛は周瑜とそうかわらぬ年齢であったが、どうも張昭は魯粛の飄々とした態度が「不遜だ」と感じるらしい。
清廉潔白で礼儀にもとかく厳しい人なのだ。
若い連中には煙たがられている存在だが、ことに若い領主を仰ぐこの国には必要な方だ、と周瑜は思う。

「張公には魯粛に後事を任せることをご相談なさったので?」
「いや、まだだ」
「張公はおそらく反対するでしょうね」
「だろうな。あやつは魯粛を好いていないようだからな」
「魯子敬の方も何人に対しても好かれようとはしない人物ですからね」
「困ったものだ」
孫権はフン、と鼻を鳴らした。「だが、俺が決めたことだ。誰にも異論は言わせぬ」
「殿はどうお考えです?」
「魯粛のことをどう考えているか、か?変わった奴だとは思う。だが私利私欲はないあやつの忠実さを疑ったことはないぞ」
「そうですか、それは良かった」
周瑜は微笑んだ。


孫権は茶に手を伸ばすとそれを一口飲み、じっと周瑜を見つめた。
「顔色は…悪くはないようだな。安心したぞ。あんな使いを寄越すくらいだから床から出られぬほど悪いのかと思っていた」
「一時はそのくらい伏せっておりました故、余計な心配をお掛けするのもどうかと思いまして」
「うむ、皆心配しておった」
「申し訳ございません」
「謝ることではないが…あの書簡にかかれていたとおり、本当にここを出るつもりか」
「はい。お許しいただければ」
「…暇をもらいたいとも書いてあったが。あれはどういうことだ」
「療養に専念したいということです。このままではどのみち殿のお役には立てませんし」
「そんなことはない。おまえには…俺の傍にいてもらいたい。療養ならここでもできるではないか」
孫権は必死だった。
行ってほしくない。
どんな形であれ、手の届くところにいてほしい。
それが孫権の願いであった。

「殿」
周瑜は孫権の目を正面からしっかりと見つめた。
「私の病というのは女のかかる病でございます」
「何…?」
孫権は意外なことを聞いて驚いた。
「治療のためには女に戻らねばならぬのです。それを武人として過ごしたこの都でするのは辛うございます」
「公瑾…」
周瑜の言葉は真実であったが、それを具体的に説明するには言葉が足りない。
それ故、孫権には周瑜の言う、女のかかる病というものがどんなものなのか、想像もつかなかったから、治療や療養にも一体どのようなことが行われるものなのかわからず、それが辛いことなのだと周瑜が訴えるのならそれは確かなことなのだと思った。
「つまり、これからおまえは女として生きるということか」
「不本意ながら」
周瑜はそっと孫権から視線を落として俯いた。
「いつぞや、殿は私に戦を止めてほしい、とおっしゃったことがありましたね。覚えていらっしゃいますか?」
「…ああ」
「赤壁での戦の前でしたでしょうか。あのときが初めてでしたね。殿が私の正体について言及なさったのは」
「…勝手な言い草だったと思っている。今も」
孫権は首を横に振った。
「おまえが女と知っても前線に送り出し、そのくせ戦をやめて傍にいてほしいなどとも思っている。勝手な男だ」
「いいえ、殿。殿はすべてを偽りつづける私に自由と機会をお与えになりました。そして私はそれを一度も後悔したことはありません」
周瑜の目は再び孫権を捉えていた。
「殿のため、孫呉のため策を立て敵を排除しこの地を健やかにすること。それが私の使命であり生き甲斐でした」
孫権も周瑜を見つめ返す。
周瑜が過去形で話していることに気がついていた。
そして形の良い唇がそれに似つかわしくない言葉を次々と紡ぐのをじっと聞いていた。
「孫軍に従軍して以来、私は武人として過ごして参りました。これまで幾多の戦において多少なりとも孫呉のために尽したと勝手ながら自負しております」
多少なりとも、とはまた随分な謙遜もあったものだ、と孫権は密かに思った。

「ですが、女に戻れば今後殿のためにお役に立てることは何一つございません。」
周瑜はきっぱりとそう言い切った。
それは孫権の密かな想いを断ち切るものでもあった。
孫権には数人の妻がいる。愛人も入れるともう少し人数が増えるだろう。
周瑜が言うのは自分がその女達と同じ立場にはなれないということである。
だが孫権にはそんなことはとっくにわかっていることであった。
孫権にとって、周瑜はそういった女たちとは違う存在なのである。
そして、そんな説明をしたところで、なんの意味もなさないこともわかっている。
わかってはいるのだが、気持ちのやり場がなく、ただ困惑するだけであった。

「…決心は変わらぬのか」
「はい」
周瑜は目を伏せながら答えた。
「俺にできることはあるか?」
「いいえ、もう十分でございます」
「…そうか」
孫権はしばらく言葉を呑みこんで黙っていた。

「病が癒えたら、戻ってきてくれるのだろう?」
孫権の言葉に、周瑜は目を細める。
「そうしたいとは思いますが…今は、なんとも申せません」
孫権は牀から立ち上がった。
「待っている」
周瑜は孫権を座ったまま見上げた。
孫権は立ち上がろうとする周瑜を制し、そのまま傍らに立った。
「何があっても戻って来い。いいな?」
孫権の言葉は優しく、そして強かった。




孫権が帰るのを見送って部屋に戻ると、小喬が上袍を持ってきて周瑜の肩に羽織らせた。
「ああ、すまないね」
「驚きましたわ。急にお殿さまがいらっしゃるなんて」
「先ぶれを出してこなかったからね。お忍びでいらしたのだろう」
「…お子のこと、お話になりましたの?」
「いや」
「そうですの…」
「これ以上悩み事を増やしたくなくてね」
「そうですわね、きっと驚きますわね…」
「巴丘に行ってしまえば、問題はないことだがね」
そう言う周瑜が少し寂しそうに見えた小喬は、周瑜の腕をぎゅっと掴んだ。
「どうした?」
「私がお傍におりますから…何も心配しないでくださいな」
心配しているのは彼女の方だ、と周瑜は思った。
そっと彼女の手を包むように触れ、
「頼りにしているよ」
と優しく囁いた。


「女のかかる病とは何だと思う?」
孫権の唐突な問いに、張昭は驚いた。
「後宮のお妃の具合でもお悪いので?」
「いや、そうではないが…女のかかる病で女特有の治療をせねばならんものとはどんなものかと思ってな」
「はぁ…それこそ女に聞かねばわかりませんなあ」
「それもそうだな」
「女にしかできぬことといえば子を産むことくらいしか思い浮かびませんな」
「…子を…」
なにげなく言った張昭の言葉は孫権の心に波風を立てた。
「まさか…な」

周瑜が行きたいと言ったのは10年前、兄の亡くなった年に当人がいた地だったはず。
そしてまた、同じ地に自ら行こうとする理由は…。
周瑜の子は10歳だと聞いている。
本人は否定も肯定もしなかったが、あれは兄の子で、おそらくは周瑜が産んだ子に違いない。
だがその出自を明らかにする気は、孫権にはない。
明らかにしたところで誰も幸せにはなれないことを、彼は知っている。

だが今回は違う。

まさか。
孫権は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
知らぬ間に右手で小刻みに膝を叩いていた。

「殿?どうかなされましたか?」
「いや…すまぬ、少し一人で考え事をしたい」
張昭は孫権の顔を見て首をかしげながらも一礼し、部屋を出て行った。

一度考えがその方向に向いてしまうと、あれこれと考えが進んでしまうものである。
夕べの周瑜の言葉をひとつひとつ思い出し、反芻してみた。
考えれば考えるほど、孫権の予感が当たっているとしか思えなくなってきた。

南郡にいる間に何かがあったのだろうか。
もし。
もし、周瑜が身篭っているのだとすれば、相手は一体誰なのか。

つまるところ、孫権は万一の場合の、その『相手』が気にかかるのだ。
兄との間ならば許せたことでも、それが別の相手となれば、孫権の心情としては許せるものではない。
もし、それが周瑜の望む形ではなかったら?
南郡にいた頃といえば戦があったはずだ。
そんな最中にあの周瑜がそう簡単に心を許す相手がいるものだろうか。
いや、そうだ、あの戦で周瑜は怪我をした。
その寝込みを誰かが無理に…?
そんな不埒な妄想が頭を過り、孫権はカッとなった。
もしそんなことをした者がいるとしたら、その男を思いつく限りの残酷なやり方で処刑し、城壁に首を晒してやる。
ぐつぐつと今にも煮えたぎりそうな想いに囚われた自分にふと気づき、いかんいかん、と頭を振った。

孫権ははーっ、と深く嘆息をついた。

昨夜、周瑜はたしかにはっきりとは言わなかった。
それが、矜持に関わるが故のことなのだとしたら?
あるいは、事が露見した場合、孫権が必ず相手を詰問するであろうことがわかっているから、その相手を庇うためやもしれぬ。
そうなると可能性のある者は自然と限られてくる。
こんなことになるなら徐盛を留めておけばよかった。
周瑜の一番近くにいた彼なら、何か知っているはず。いや、或いは彼こそが-?。
考えれば考えるほど、苛立ってくる。
ひとつの可能性だったことが、いまや孫権にとっては動かしがたい事実のように思えていた。
誰だ。
相手は誰だ。
俺の、周瑜を、一体誰が!?

「許さぬ---」
孫権は知らず、拳を握った。



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