(22)高論
魯粛の船が江陵についた頃、ちょうど劉備たちも陣の移動を終えていた。
久しぶりに魯粛と会った諸葛亮は、彼から意外な話を聞いた。
「えっ?…周公瑾殿が洞庭湖へ?」
「ええ、おそらくは我々と行き違いに都を出ていることでしょう」
「そう…ですか。それは残念です」
周瑜の病はそれほどまでに重いのか。
そう思わざるを得ない状況である。
できれば、歓迎されなくとも見舞いに行きたかったのであるが。
こうして離れてみれば、なぜあれほどに執着したのであろうか、と不思議な心地がした。
傍にいると、どうにも惑わされてしまうほどの魅力があったのだ。
離れてみて良かったのかもしれない。
会えば、またなにやら心の隅にさざ波が立つやもしれぬ。
洞庭湖ならば、月瑛を使いにやって様子をみてきてもらおう。
場合によっては薬を処方して彼女に看病をさせてもいい、そう思い、孔明は周瑜への思いをそこで打ち切った。
「しかし、周公瑾殿が療養となると、後事はどのように?」
「意外に思われるでしょうが、その当の公瑾が私を後継に指名しましてな」
「…ほう!そうでしたか」
孔明は魯粛を少し驚いた様子で見つめた。
(周瑜殿が魯粛殿を指名したとは意外だ。魯粛殿の講和策を容れたということか)
魯粛は、諸葛亮の驚いた顔を見て少し笑った。
「そのようなわけですので今後ともよしなに」
「そうですか、こちらこそ」
孔明は口元を扇で隠し、にこりと笑った。
「ときに、仁姫様はお元気でいらっしゃいますか?」
魯粛は、孫権のために妹姫のことを聞きたがった。
「ええ、とてもお元気でいらっしゃいます」
諸葛亮は、夫婦仲はすこぶる良いこと、劉備の息子とも仲良くやっていることなど、この同盟のためのいわば切り札でもある孫権の妹のことを事細かに話した。
「そうですか、それは安心しました」
世辞でもなんでもなく、魯粛は心からそう言った。
引越しが一段落した頃、周峻は周瑜に呼ばれた。
「なにか御用でしょうか」
周峻が室に入ると、周瑜は右肘を脇机について座していた。
彼は一礼をし、周瑜の向かいに座る。
「子厳、おまえも薄々は気づいているのだろうが」
周峻は、周瑜の美しい唇がいったい何を言わんとしているのか、悟っていた。
「私は子を宿している」
周峻は驚きもせず、それを受けて口を開いた。
「…お傍についてから様子をうかがうたびにそうではないかと、思ってはおりました」
「そうか」
「ですが、私も医師ではありません。確たる証拠もないままに自分の中で否定も肯定もできませんでした。それで、いつか叔父上から話してくださるのではないかと待っておりました」
「ふむ。賢明な判断だ」
我が甥ながら聡いものだ、と周瑜は感心した。
「どのみちこの先腹も大きくなるだろうし、もう隠しおおせるものでもないかと思っていた」
「あの」
周峻は周瑜の顔を見たり視線をはずしたりして、実に言いにくそうに言葉を紡いだ。
「お相手は、いえ、あの、その子供の…父となられる方は、一体どなたなのか、伺ってもよろしいでしょうか」
周瑜は溜息をついた。
「…知りたいか?」
「はい」
「お前の知らない男だ」
「孫軍の者ではないのですか?」
「そうだ」
「…どうしてそのような…」
周峻は首を振った。
「それ以上は訊くな。私もその男が今どこでどうしているのかは知らないのだから」
周瑜の言葉を聞いて、周峻は周瑜が望まぬ相手に無理やり手篭めにされたのではないかと思い、カッとなった。
「いいえ!そのような不埒な輩とあれば余計にほってはおけませぬ」
周峻は熱り立った。
周瑜は冷静に、ふっとひとつ息をついて言った。
「ではどうするというのだね。その男を見つけ出し、罰でも与えるというのかね?」
「叔父上がそうお望みならそういたします!」
「そんなことは望んではいないよ」
「ですが…!」
「子厳、おまえが私を思ってくれることは嬉しく思う。しかし、おまえは私の言葉を信じていないのだろう?」
「えっ?」
周峻は思いもかけぬ言葉をきいて、声をあげてしまった。
「信じていないとは、どういうことですか、叔父上」
「言ったままだよ。おまえは今私が孫軍の者ではないといったとき、口の端をかすかに震わせた。私の言葉に嘘があると思ったからだろう。おまえの思っていることを言ってみよ」
周瑜に看破されて周峻はしばらく何も言えず狼狽した様子だったが、やがて覚悟をきめたのか、キッと眉間に力を込めた。
「では私の考えを申し上げます」
周峻は姿勢を正して言った。
「私の思いますところ、相手は徐文嚮殿ではないかと」
「ふむ。してその訳は」
周瑜は少しも驚いた様子をみせなかった。
それで周峻は己の考えが間違っていないのだと思った。
「おそらくは叔父上が南郡にいたときのことだと察しますれば、当時お怪我を負っておられたとのこと。
普段であれば何事かあれば手向かいもできましょうが、病床にあったとなれば話は別です。
あの者であれば叔父上の寝所にたやすく入れるでしょう。そしてなにより、前提となるのが、叔父上の身の上をご存知の者であること」
「ふむ。筋は通っているな。だが徐文嚮は10年近く私の傍におったのだぞ。手を出すのならば今までにもいくらでも機会はあったのではないか?」
「それだからこそです。それほど長くこれまでお傍に仕えていた者がなぜ今になって叔父上の配下から外へ移るのです?自分のしでかしたことの罪を感じてしまったからではないですか?それで逃げたのではないのですか?」
周峻は侮蔑をこめてそう言い放った。
「そう考えた時、猛烈に腹が立ちました。お上にこれを申し上げて処分していただかねば気が済みません」
彼は頬を紅潮させて怒っていた。
周瑜は眉をひそめて、首を振った。
「このことを主公が知れば、今のお前と同じことを言うだろう。そして私がその名を出さぬことから徐文嚮だけでなく南郡にいた時に随行していた部下たちが疑われ、闇雲に処罰を受けるようなことになれば私はどう彼らに詫びればいいのかわからない」
「…!」
「徐文嚮ではないのだよ。しかしもし疑われれば彼はそうだと認めるだろう。そういう男だ」
「では一体…」
「おまえの知らぬ男だと言っただろう。私は嘘は言っていない。だが、おまえも主公もおそらくは信用しないだろう」
「それはそうです。どう考えても…」
「徐文嚮の名誉のために言っておくが、あれの配属先の変更を願い出たのは私だ。あれはむしろ私の傍にいたがっていた。私がこのような身になった今、ただ私の側仕えにしておくにはもったいないと思ってね。手柄を立てて出世をしておいで、と送り出したのだよ。あれは実直な男だ。この私に手を出したりは決してしない。むしろ私の周りからそういった者を遠ざける役目をしてくれていたよ」
「…そうですか…」
「孕んだとわかったとき、私は流そうと思った。その私を諌め、産むよう説得したのも徐文嚮だ」
「…私はどうやら彼を誤解していたようですね」
「そう。だが主公ならばどうだろうか」
「それは…」
周峻は言葉を飲み込んだ。
ようやっと、孫権が自分を周瑜につけた意味がわかったのだった。
周瑜が妊娠しているかどうかを確認すること。そしてその場合、相手が誰なのかを探ること。
今のことをそのまま孫権に伝えれば、間違いなく徐盛が疑われるだろう。
周瑜が否定すればするほど、その真偽は明白となるのだ。
「叔父上は、私がお上から託されたことの意味を最初からわかっていらしたんですね」
「ああ」
「身内に対して間諜のような真似をさせられていたとは…なんと愚かな」
周峻は項垂れた。
「間諜とは言いすぎではないか?私の身を心配してくださってのことなのだから」
「いいえ。私の報告の仕方次第で、もしかしたら人の命にかかわることになったやもしれないのです。不確かなことでも人心というものは思い込みでいくらでも白いものを黒だと言い張るものです」
「ではどうするのかな?」
「この件は伏して報告いたします故ご安心ください」
「そうか、そうしてくれると私も心安らかにいられる」
周瑜は周峻ににこり、と微笑みかけた。
周峻が下がった後、周瑜は一人になり、深く嘆息をついた。
なんとか彼を煙に巻き、取り込むことに成功したようだ。
(まあ、嘘はついていないから…ね)
結局相手が誰なのかは言わずに乗り切った。
あとはこの後のことをゆっくり考えるとしよう。
そもそも、子が無事に産めるかどうかもわからぬ身体なのだ。
万一のことに備えておかねば。
周峻は自室に戻り、卓の前に座って周瑜から聞かされたことを心の中で反芻していた。
周瑜がこの後、出産することになっても、その事実をいかに隠し通すか。
いろいろと思案していたとき、卓に置かれていた書簡に目を通した。
それは故郷の妻からであった。
火急の件でないと判断した部下がここへ置いて行ったのであろう。
書簡には子供ができた、と書かれていた。
彼は喜ぶと同時に、あることを思いついた。
そしてそれで一気に思案していたことが解決したと思った。
今のうちに妻をこちらへ呼ぼう。
周瑜の側に妻をおいておけば、万が一の場合が起こっても、周瑜の出産を自分の妻の出産であると言い逃れることができる。
それに己の妻を側に置いておきたいという彼の希望も叶う。
さっそくその案を周瑜に聞いてもらおうと、彼は急いで腰をあげた。
巴丘に来て、ようやく身の回りが落ち着いてきた頃、周瑜のもとに懐かしい来客があった。
「お久しゅうございます、周公瑾様」
地味ななりで、深々と頭を垂れる女性に、たしかに見覚えがあった。
「…そなたは…あのときの…!」
「はい、いつぞやは夏口でお会いいたしました、黄 月瑛でございます」
彼女は先年、諸葛亮の虜になっていた周瑜を助けてくれた女性であった。