(5)暗転
西涼に不穏な動きがあるようだ、との報告を受けたのは、都に駐留する密偵の帰還によってであった。
西涼の馬騰は、以前、董承の起した曹操誅罰の一味の連判状に名があったため、曹操の恨みをかっていた
。だが、彼は辺境に異変があるとの理由から一人、西涼へと帰還していたため、他の一味が囚われ殺された
ときも無事であった。
先年の赤壁の戦いを挟んで、そのままになっていた件であったが、曹操が無事都に戻ると、さっそくそのやり
残した件を片付けにかかったのである。
「馬騰を征南将軍に任じて都におびき出す作戦のようですな」
そう言ったのは張昭である。
「曹操は自分に逆らったものは決して生かしては置かぬ。これまでもそうであったように、な」
孫権も辛らつに言った。
赤壁の戦いの前年、当時曹操の幕僚であった孔子の末裔だという孔融は、諫言がわずらわしいという理由で
疎まれ、やがて殺された。
孔融という人物は決して無能ではなく、むしろその精錬で誠実な性格によって人望を得ていた人物である。
「しかし、これで曹操の腹は読めましたな。先年の赤壁での敗戦で、わが呉を狙うことはあきらめたようです」
文官の一人がそう言うと、張昭は眉をしかめた。
「今のところは、ということであるな。あの曹操がやられたまま諦めるような男だと思うか?」
その言葉に、文官たちは静まり返った。
「ですが、我が軍には周瑜殿がおられます。彼がいる限り、曹操もそうは手が出せないのでは」
武官の一人がそう言うと、文官たちもそれに同調したかのようにまた騒ぎ始めた。
周瑜がまだ登城してきていないことをいいことに、勝手なことを言い出す始末である。
孫権はその様子を苦虫を噛み潰したかのような表情で見ていた。
ここにいる者たちは、周瑜を頼りにするばかりで、己で何かをなそうとする者がいないのではないか。
何も知らないくせに、と少々苛立ちも感じる。
そこへ、甘寧が入ってきた。
まわりが煩いので、いつもの調子でじろり、と見回すと、一瞬にして静かになった。
そうして広間の中ほどに腰を据えると、またざわざわとざわめき出した。
その時、孫権の前に、魯粛が歩みでた。
「殿、先だっての周公瑾殿の策を実行するにあたり、少々心配事がございます」
魯粛は周瑜の強攻策には反対の立場であることは周知の事実である。
彼の言に、周りは静まり、耳を傾けた。
「なんだ、言ってみよ」
「は。おそれながら申し上げます。益州を取るということは荊州を通って西へ向かうことになります。そうなれば劉備の軍と接触するでしょう。劉備に嫁いだ妹御はいかが致します?」
「・・・連れ戻すしかないだろうな」
「おとなしく帰してくれるでしょうか」
「・・・何が言いたい?」
「劉備と事を構えることはありません。益州を通るならば劉備など無視して通り過ぎればよろしいのです。そうすれば何も問題はありません」
「俺たちが通り過ぎた後、カラッポになった本土に劉備軍が攻めてきたらどうする?」
声をあげたのは甘寧だった。
意外なところから異論が出たので、魯粛は驚いて甘寧を振り向いた。
「そ、それは・・・いや、劉備はそこまではしないと思います。何しろ、我々は同盟を組んでいるのですから」
魯粛はそれでも怖気づくことはなく、甘寧に反論した。
甘寧は立ち上がって、魯粛の傍に歩み寄りながら言った。
「益州を狙ってンのは劉備も同じだと思うぜ。それを俺たちが先越しちまうなら、奴らの居場所はなくなっちまうわけだ。そうなればなりふり構っていられなくなると思うんだがな。それこそ同盟どころじゃなくなる」
「劉備は仁と義の人であると私は思う。そのような心配は杞憂であろう」
「・・・あんたがそう思うのは勝手だが、彼らがあんたの希望通りに大人しくしていてくれるとは限らない。俺はあの例の軍師とやらの狡猾さを侮っちゃいけねえと思ってる」
「・・・・」
甘寧は言葉は乱暴だが、的を得た発言をすることを孫権は知っている。
そしてこの日もそうであるように思えた。
「魯粛よ、甘興覇の言うことにも一理ある。我らは劉備の人ととなりを腹の底まで知っているわけではない」
「は・・・」
「私は周瑜の策を是とした。その策の実行のために、そなたも尽力せよ」
孫権の毅然とした言葉に、魯粛は低頭して「御意」と言った。
広間を後にした甘寧は、回廊で徐盛に会った。
「よう。今日は周将軍は?」
「さて、ご自宅に戻っておられますので某にはわかりかねます」
先日周瑜が倒れたことは誰にも言っていない。
「そうか、ま、おまえもそういつも将軍の傍にいるってワケじゃないもんな」
甘寧は軽い気持ちで言ったのだろうが、徐盛には複雑な気持ちをもたらす結果となった。
そして甘寧は、先ほどの魯粛との一件を話した。
「まあ、あの人の気持ちもわからんでもないけどな。なんでああまで劉備なんぞのカタを持つのか、俺には理解できん」
「しかし、殿は周将軍の策をとられました。いかに魯子敬殿といえど、そこは納得されますでしょう」
「だといいがな。・・・・もし、だ。周将軍に何かあれば、この策は実行できないだろう」
「・・・何が言いたいので?」
「いや、おまえも将軍の身辺には気をつけたほうがいい、ってことさ」
そういい捨てて甘寧は歩き去った。
徐盛は甘寧の言わんとしていることを悟った。
先日、周瑜が倒れたことと何か関係があるのだろうか。
なにか、急に心配になってきた彼であった。
午後になって、周瑜が登城してきた。
徐盛はそれを聞きつけて駆けつけた。
顔色があまりよくない気がした。
挨拶もそこそこに、周瑜が孫権に謁見するというので、徐盛は隣の室で待機していた。
そうしてしばらく経った時-
「誰か!医者を呼べ!」
突然、孫権の大声が聞こえた。
徐盛は反射的に飛び出した。
「どうなさいました?!」
広間に駆けつけたとき、横たわった周瑜を孫権が抱き起こしているのが目に飛び込んできた。
「公瑾が・・・!」
孫権は取り乱していた。
「すぐに医者を呼んで参ります。人を呼びますゆえ、隣室にお運びした方がよろしいかと」
徐盛は落ち着いた態度で孫権にそう言うと、広間を後にした。
奥の部屋の寝台に寝かされた周瑜の傍には、宮仕えの医師2名と孫権、徐盛と小姓たちがいた。
「以前、毒に犯されたと申されましたね。もしかしたら、その毒がまだ体に残っているのかもしれません」
医師の一人はそう言った。
「少し、熱もあるようですな」
結局、周瑜がなぜ倒れたのかは、よくわからないまま、医師たちは療養が必要、という判断のみを下してこの場を辞した。
しばらくして、周瑜が目を醒ました。
「気がついたか」
耳元で孫権の声がして、周瑜は慌てて体を起そうとした。
それを孫権は制し、無理をするな、とそのまま周瑜を横たえた。
「申し訳ございません。醜態を晒しました」
「いや。おまえは・・・まだ体調が万全ではないのだな。例の策の指揮はだれか別の者を充てたほうがよいのではないか」
「殿、そればかりは、何卒・・・。馬超には私自身が会う必要がございます」
「だが、行軍の最中、このように倒れたりしたら、全軍の士気にかかわるぞ」
「・・・返す言葉もございません」
「とにかく、作戦はおまえの体調次第だ。おまえが献策した以上は、策はおまえのものなのだ」
「・・・・」
しばらく休んでいけ、と孫権は言い残し、室を出た。
傍には徐盛だけが残った。
「お屋敷に使いを送りました。周家のお抱え医師を呼んでおります」
「・・・そうか。手間をかけたね」
宮仕えの医師たちは当然だが周瑜の事情を知らない。
孫権の前で、周瑜の肌を露わにするような診察はしていないのである。
「しばらくお休みください。人払いをしておきます」
徐盛もそういい残して室を出て行った。
周瑜は横になったまま、格子模様の天井を眺めていた。
孫権の目の前で倒れるなど、なんという失態を犯したものであることか。
そうしているうち、急激な吐き気に襲われた。
寝台から這うようにして降り、置いてあった水入れ用の瓶に向かって吐いた。
だが今日は気分がよくなかったため、朝からなにも食べていなかったせいか、吐くものもなく、むしろそれがかえって苦しさを倍増させていた。
この感覚は、覚えがある。
・・・最悪の事態に、周瑜は愕然とした。
しばらくして、徐盛が家の医師を連れてやってきた。
医師は嘔吐した形跡を目ざとく見つけ、徐盛にはそれを片付けて水を持ってくるように言いつけた。
周瑜は医師と二人きりになって、いくつか問診をし始めた。
「・・・ご気分はいかがですかな?」
「良くない。ずっと胸がむかついて、吐き気がする」
「・・・月のものは来ておられますか?」
「・・・いや。このところ、ない」
「もう、ご自分でもわかっておられるのではありませんか」
「・・・ああ、だが・・・認めたくはなかった」
「ですが、あなた様は・・・身篭られておいでです」
「・・・・・」
周瑜は医師に言葉の現実を突きつけられて、目を閉じた。
閉じた先には真っ暗な闇だけがあった。