(6)疑心
鳥の声が聴こえる。
・・・いつの間に、朝になったのだろう。
昨夜は眠れなかったはずなのに、うとうとしていたのだろうか。時間が経つのは早いものだ。
昨日、城で倒れてからしばらくは登城せず療養するように、と孫権から言い渡された。
小喬には昨日のことは伏せてある。
言えば、心配するであろう。
孫権にはまだ言っていない。
徐盛にも、である。
10年前に身篭った時とは事情が異なる。
しかも今度の相手は---。
もし、懐妊していることが孫権に知れれば、必ず相手が誰なのか詰問されるであろう。
しかし、それを言うわけにはいかない。
自分の契った相手、それは---。
(この私が、伯符様以外の男の、子を・・・
そう思って辛いのは、孫策に対して後ろめたいからだろうか。
孫策を裏切ったのではない。
自分の中の打算的な部分で、勝手にそう思う。
だが、孫権はそうは思わないだろう。
不貞だと罵られるだろうか。
裏切りだとそしられるだろうか。
それが、辛い。
彼と契ったのには、今度の策のことが、もちろん一因している。
しかし、まさにそのことが原因でその策まで台無しにしてしまおうとは、夢にも思わなかった。
この齢になって身篭ることがあろうとは。
そんな計算はしていなかった。
周瑜は、やはり女としては未熟なのかもしれなかった。
周瑜は横たわったまま、両手で顔を覆いながら慟哭した。
どうすれば、よいのかわからなかった。
(ああ、天よ。
(人を欺いてきた私への、これが罰なのか。
(命を賭してでも、成し遂げようとしているこの時に、
(この私に、今になって女に戻れというのか--。
(それは、あまりにも・・・・それならばいっそ・・・
「おい、聞いたか?例の噂」
「ああ、しかし・・・まさかなぁ」
呉城内では、そこかしこでひそひそと囁きあう声がする。
登城してきた呂蒙は、その城内の異変に気付いた。
「なんだか、騒がしいな。何か、あったのか?」
将官の集まる室に顔を出したとき、呂蒙はそれとなく訊いてみた。
「知らないんですか、例の・・・」
「何の話だ?」
「先日、周将軍が殿と謁見中に倒れられたという話はご存知ですか?」
「あ、ああ・・・、今日にでも見舞いに行こうと思っていたところだ」
「そうでしたか。いや、その件で、妙な噂が立ってましてね」
「どんな噂だ?」
「実は周将軍が倒れられたのは毒を飲まされたせいだとか。で、毒を飲ませたのは、なんとあの魯子敬殿だという話ですよ」
「・・・は?まさか!」
「いや、それがその数日前、かのお二方が言い争いをしていたのを何人も聞いていましてね」
「それだけのことで?」
「その後も、甘興覇と論戦になったそうで、甘興覇が周将軍の身辺に気をつけるように、と徐文嚮に申されていたのを小姓が偶然きいておったとか」
「・・・・」
誰が言い出したことか知らないが、厄介な火種になったものだ。
たしかに、今回のことでは周瑜と魯粛は対立していたかもしれないが、それで暗殺などするような男ではない、と呂蒙は確信している。
魯粛は個人の恨みがあったとしても、そのことで大局を見失うような小者では決してない。
だが、ひとつ不安なことがあるとすれば、魯粛の後ろに見え隠れする諸葛亮である。
もし、彼が魯粛の意図せぬところで彼をいいように操っていたら?
そんなことを考えているとそら恐ろしくなった。
そんなことがもしできるのならば、孫権の命だって危ないのだ。
そういう考えをしてしまうこと自体、魯粛を信用していない証ではないかー
そう思って、呂蒙は頭を振って、考えを霧散させようとした。
いや、それよりもこんな噂話が万一孫権の耳にでも入ったらー。
魯粛は捕えられて拷問を受けるやもしれない。
その前に、なんとかしなければ。
呂蒙は将官の室を出て、魯粛の居所を探した。
同じ頃、徐盛もこの噂を聞きつけ、魯粛の元を訪ねていた。
彼はその噂を話し、真偽を糺そうとここへ来た、と告げた。
魯粛は意外に落ち着いていて、黙って徐盛の話を聞いていた。
「・・・それで、あなたはどう思うんです?」
「某は、単なる噂話だと思いますが」
「ふうむ?」
「ですが、噂話も放って置けば大きくなります。そうなれば虚を信ずる者も増えましょう」
ちょうど、その時、呂蒙がやってきた。
「なんだ、徐文嚮、おぬしも来ていたのか」
徐盛は呂蒙に礼をとり、席を横にずれて呂蒙に空けた。
呂蒙は魯粛の正面に座り、徐盛の話を引き継いだ。
「時に、徐文嚮、公瑾殿が倒れられた時、おぬしもいたのであろう?本当に毒だったのか?」
「・・いえ、医師によれば、はっきりとはわからないとのことでした。毒が体内に残っているのかもしれない、とは申されておりましたが」
「・・・そうか。噂は所詮噂でしかないのだな」
呂蒙は嘆息をついた。
「そこで、公瑾殿と最近舌戦を披露していた私が疑われたということですか」
魯粛は他人事のようにそう言った。
「赤壁以来、公瑾殿を信奉する者が我が軍には多いですからね。対立意見を述べているあなたを貶めようとしている者がいるのかもしれません」
「そうかもしれませんねえ」
魯粛は暢気に頷いた。
「潔白を証明すべきではありませんか」
徐盛は言った。
魯粛は徐盛を見て、一息ついたあとに言った。
「私が毒を飲ませたと言う証拠もない代わりに、飲ませていないという証拠もまたありません。潔白を証明することなどできませんよ」
「しかし、このままではあなたも立場が悪くなりましょう」
「まあ、言いたい者には言わせておけばよろしい。あなた方のように、ちゃんとした考え方ができる者は馬鹿馬鹿しい噂だ、と斬って捨てましょう」
「しかし、万一殿の耳にまで入ってしまったら・・・」
「その時はその時です。もし私が収監されるようなことがあってもそれは私の不徳のいたすところでしょう」
「・・・・」
呂蒙も徐盛も、魯粛の達観した物事の受け止め方に言葉を失くした。
「私は、周公瑾という男が好きですよ。あの才がなければこの国は立ち行かなかったと思っています。その彼を、ひとつ意見が食い違ったとてどうして命を奪うことなぞ考えるでしょう」
「そういえば、子敬殿を推挙したのは公瑾殿でありましたな」
「ええ。初めて会ったときのことは忘れられませんね。この世にあんな美しい男がいるだなんて、思いませんでしたよ。うちの歳を取った母親なんぞは、彼が家に訪ねてきたとき、よくぞ息子の嫁にきてくれた、だなんて勘違いしましてね」
そう言って、魯粛は笑う。
その様子が想像できて、呂蒙も笑ってしまった。
徐盛だけは頷きながら話を聞いていただけであったが。
魯粛の元を辞した二人は、回廊を歩きながら言葉を交わした。
「あの方が、公瑾殿を毒殺するなんて、ありえないな」
「某もそう思います」
「だが、この噂はまずい。公瑾殿自身が否定してくれれば一番良いのだが・・・」
「周将軍はしばらくご自邸で療養されるようです。当分、登城はしないとのことですが・・・」
「う〜む、どうしたものか」
「一度、周将軍のところへ行こうと思っています」
「ああ、それなら俺もちょうど見舞いに行こうと思っていたところだ」
「ならば、ご同行してもよろしいでしょうか」
「ああ、構わんよ」
城をひけて、呂蒙と徐盛は城下にある周瑜の邸へと向かった。