(7)江水


徐盛と呂蒙が城下にある周瑜の自邸へと馬を走らせていた時。

「んっ・・・、あれは・・」
呂蒙が目をこらすと、通りのさらに向こうに馬影が見えた。
「あの青鹿毛は・・・」
「文嚮、あれは公瑾殿だと思うか?」
「・・・おそらく」
徐盛が周瑜を見間違うはずはない。
呂蒙は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「追いかけたほうがよくはないか?」
「同感です」
二人は手綱を握って、馬影の後を追った。

「見失うなよ」
「はっ!」

速度をあげたのか、馬影はどんどん小さくなっていく。
遅れまいと、二人も馬の腹を蹴る。

「どこへ行くつもりなのでしょう?」
「俺が知るか!おまえこそ心当たりはないのか?」
「このままだと長江の方へ出ますが、まったくありません」
「・・・・」
単なる気分転換での散歩だといいのだが。

二人は不安な気持ちを抑えつつ、馬を走らせた。

馬は、やがて長江のほとりに出た。

やっと追いついた徐盛と呂蒙は、少し離れたところに馬を止めた。

馬から降りた人影は、遠目に見てもそれとわかる美貌の持ち主であった。
その人影は、二人が見止めたとおり、周瑜であった。

周瑜は長江をしばらく立ったまま眺めていた。

「・・・なんだ、やっぱり散歩にでただけなんだな」
呂蒙がほっと息をついた時だった。

江のほとりで立っていた周瑜が、突然江に足を踏み入れた。

水浴びをする季節にはまだ早い。

周瑜がまたもう一歩、踏み入れた。
それを遠目で見ていた呂蒙と徐盛は、ハッ、と我に返った。
「・・・子明殿」
「ああ!」
二人は急いで周瑜の元へ駆けた。
どう見ても、普通ではない。


冷たい水に、膝までつかると、その冷たさに周瑜は心まで震えた。

「周将軍!」
「公瑾殿っ!」

バシャバシャ、と水を跳ね上げながら、呂蒙と徐盛が周瑜の両脇から駆けつけた。

思いもかけず、左右の腕を二人の男に捉えられ、周瑜は驚いた。
「おまえたち・・・!なぜここに」
「お姿をみかけたので着いてきたんです。それより、何をしようとなさっておいででしたっ!?」
「・・・放せ」
「放しません」
「命令だ、放せ!」
「そんな命令、きけません!」
呂蒙は怒声で答えた。
二人は、周瑜を抱え上げるようにして岸へと引き上げた。

息を整え、呂蒙は、岸に座らせた周瑜の傍に片膝をついた。
「公瑾殿・・・。まさか、お命を・・・?」
周瑜はぎゅっと唇を噛んだ。
「将軍」
徐盛はいつものように表情を変えずにいたが、言葉は微かに震えていた。
「なぜ、です。なぜこのような・・・。なにかあったのですか」
周瑜は二人の視線から目を逸らせた。
「・・・気分転換に、江で泳いでみようと思っただけだ」
「・・・本当ですか?」
「長江で自害などできないよ。私は泳げるからね」
周瑜はそう言ったが、二人ともそれを真に受けてはいなかった。
「この気温です。水に入っただけでもお体にさわります」
徐盛はそう言いながら、周瑜の濡れた足を、自分のつけていた外套で、一生懸命拭っていた。
「・・・・」
「公瑾殿、どうして・・・なぜです?なぜこのような真似を・・・」
呂蒙の問いに周瑜は答えず、二人の手を振り払ってのろのろと立ち上がった。
「周将軍・・・」
徐盛は、はがゆかった。
これまで、ずっと一緒にいて、このような行動に出たことがあっただろうか。
自分の知らぬ間に、何かあったのだ。
周瑜が自らの命を絶ちたくなるような、なにか重大なことが。
しかし、それが何なのか、一向にわからない。

徐盛が、のろのろと馬へと歩んでいく周瑜の背中に手を伸ばそうとしたとき、周瑜が前のめりに倒れた。
「公瑾殿っ!」
いや、実際には前かがみになって膝をついていた。
猛烈な吐き気に襲われていたのだった。
呂蒙は心配して周瑜の傍に駆け寄り、その背中をさすった。

その様子を徐盛は立ったまま愕然として見つめていた。
(まさか・・・)
徐盛にはある予感があった。
10年前にも似たような様子を見た記憶がある。
あれは、そう、巴丘であった---。
(まさか、そんな・・・)
自分の思っている通りだったとしたら、おそらく周瑜は絶望したであろう。
そしてこの不可解な行動の理由も理解できる。
だがー
それではあまりにも・・・。あまりにも・・・。






「おい、文嚮!手をかせ!公瑾殿を邸まで送っていく」
呂蒙の声に、徐盛の孤愁は破られた。
そうだ、呆けている場合ではなかったのだ。
「は、はい」

呂蒙は自分の馬に周瑜を乗せ、その後ろに乗ると、ゆっくり馬を走らせた。
「どうか寄りかかっていてください。その方が楽でしょうから」
呂蒙は周瑜の耳元でそう囁いた。

そのすぐ後ろを、徐盛は周瑜の乗ってきた馬の手綱を同時に持ちながら、馬を走らせていた。
彼は何事かの考えに沈んでいるようで、終始無言であった。

呂蒙の体に背中を預けながら、風に消え入りそうな程の声で、周瑜は言葉を発した。
「子明」
「・・・はい?」
「・・・すまなかった」
「いえ」
呂蒙は少し考えて、口を開いた。
「・・もう、あんな真似は、絶対しないでください。心の臓が止まるかと思いましたよ。あなたの命は、あなた一人のものじゃないんです」
「ああ・・・」
それきり、黙って俯いてしまった。
呂蒙は唇を噛み締めた。

偶然、だ。
たまたま、通りかかって周瑜の後を追った。
もし、自分たちが通りかかっていなかったら?
自分たちは生きている周瑜にこうして会えていなかったかもしれない。
あんなに冷たい江水の底に、横たわっていたかもしれないのだ。
そう考えただけで恐ろしい。
呂蒙は腕の中の温もりを感じながら、天の采配に心から感謝した。


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