(8)確信


周瑜をつれて邸に戻ると、世話係の者が何人か出てきた。
その者たちの手を借りて、奥の寝所へと周瑜を連れて行かせた。
聞けば、小喬は息子を連れて姉のところへ行って不在だと言う。
おそらく周瑜が行かせたのであろう、と呂蒙は思った。

「医者を呼んだ方がよくはないか」
「では某が参りましょう」
徐盛は馬を引いて医師を迎えに行った。

邸の者が周瑜を着替えさせるというので、室の外でしばらく待っていた呂蒙だったが、室の中から周瑜に呼ばれて中へ入った。
夜着に着替えた周瑜は、肩から上着を掛け、寝台で身を起していた。
「失礼します」
いつも美しいが、こうしてみるとまた一段と色が白く華奢で美しかった。
しばらく正視できずになんとなく視線を逸らしたりしていると、周瑜に寝台の脇の胡床に腰かけるよう勧められた。

魯粛の件を話そうと思ってやってきたのであったが、この様子では周瑜に余計な負担をかけるだけになると判断し、あえて黙っていた。
なにか、いろいろなことが一度に起こって、頭が混乱しそうになる。
そういうことをひとつひとつ、周瑜に頼ってきた気がするのだ。

胡床に座ったまま、頭を左右に振ったりしている呂蒙を見て、周瑜は体を起して声を掛けた。
「どうかしたのか?」
「あ、どうか、無理をせずに、寝ていてください」
「・・・いや、大丈夫だ。それより何か相談事でもあるのではないのか?」
「今日はやめておきます。それどころではなくなってしまったし・・・」
「おまえたちが着いてきたりするからだ」
「俺たちがいなかったら、本当に、どうするつもりだったんですか・・・っ!」
「泳ぐだけだと言っただろう」
しれっと言う周瑜に、対し、呂蒙は少々苛立ちを覚えた。
「あなたはっ・・・!先日お倒れになったばかりではありませんか!そんな体でどうかしていますよ!」
「フフッ」
呂蒙の声が大きくなる程に、周瑜は微笑んでいた。
なぜ、周瑜が笑っているのか、と呂蒙は憤りを感じた。
「なにが可笑しいんです?」
怒気をはらんだ声だった。
「いや、そんな風に人に叱られるのは久しぶりだと思って・・・ちょっと嬉しくなってしまってね」
悪びれない周瑜の、人をくったような言葉に、呂蒙は拍子抜けしてしまう。
「・・・すいません、声を荒げてしまって。でも、本当に心配したんですよ」
「悪かった。でもさっき私が言ったことは本当だよ。本当に水浴びをするつもりだったんだ」
周瑜の言葉を呂蒙はもちろん本気にしてはいない。
水浴びをするだけならなにも長江にまで出かける必要などないではないか。
周瑜のいうことは、誰が聞いても変だ、と呂蒙は思った。
「公瑾殿・・・、なんだかおかしいですよ。本当に、何かあったんですか?」
「さあ・・・病のせいかな」
「・・・やはり、南郡での毒が元で・・・?」
「いや、心の方の病かな」
「・・・公瑾殿、しっかりなさってください。あなたがそんなんでは、なにも始まらないではないですか」
周瑜は、心配そうに見つめる呂蒙の目を見つめ返した。
だが、何も言わなかった。


一方、徐盛は、近所に住む医者を迎えに行き、馬に乗せて引いて戻る途中であった。
「時に、張先生。周公瑾殿のお体のことですが・・・」
「ふむ、なにか異変でもありましたかな?」
「乗馬なさったり、この寒空に水に入ったりなさっておいででした」
「ふむ・・・」
医師はなにか考え込むように無言になった。
徐盛は思っていたことを、思い切って言ってみた。
「先生もご存知なのでしょう。あの方のお体のことは」
医師は答えなかった。
それで徐盛は、半信半疑ではあったものの、核心を突く発言をしてみた。
「・・・何といっても、身重のお体ですし、先生からも叱ってみてはいただけませぬか」
医師は徐盛の言葉にふと顔をあげた。
その表情は意外そうでもあった。
「おや、ご存知でしたか。お身内にすら内密に、と硬く言われておりましたものでね」
「・・・・・無論、他言は一切無用です」
「それはもう。心得ておりますとも」
徐盛は、カマをかけてみたのだが、見事に当たった。
やはり、思っていたとおりだった。
「しかし、いけませんな。そのようなことをなさっておられたとは。・・・産む気がないとみえる」
「・・・あの方にもいろいろと考えるところがございましょう」
「戦なんぞやめて普通に生きれば幸せでしょうにね。ほんにもったいないことじゃ」
医者の言葉を聞いて徐盛は頷いた。
「・・・おっしゃるとおりです」
徐盛はそれきり、黙って何か考え込んでいた。


徐盛が連れてきた医者が部屋に入ると、入れ替わりに呂蒙と徐盛は部屋の外へ出た。

「今日はこれで引き上げることにしよう」
呂蒙が言った。
「結局、魯子敬殿のことは言えなかったよ」
「・・・賢明だと存じます」
「今は公瑾殿にはお体を休めていただかなけりゃならん」
「そう思います」
呂蒙は心配そうに、徐盛に言った。
「・・・一人にしておいて大丈夫だと思うか?」
「また、先ほどのような行いにでるかもしれないと、お考えですか?」
「ああ。どうも、心神耗弱のような感じがして不安なんだ」
「・・・・」
「本当は、ずっと付いていたいくらいだ。・・・だがそうも言っていられる状況ではないしな」
呂蒙は大きくため息をついた。
「家の者にも気をつけるよう、申し渡しておきましょう」
「ああ・・・そうだな」

「俺は帰るが、おまえはどうする?」
「某はもう少し、将軍と話したいと思います」
「・・・そうか。なら俺は先に失礼する。おまえからも公瑾殿にお体をご自愛するようよく言っておいてくれ」
「は」
背を向ける呂蒙は肩を落として去っていった。
その彼を見送って、踵を返す。
言い知れぬ、複雑な思いが心の底を渦巻いている。
まだ受け止めかねている自分がいるのだ。
10年前のあの時とは状況はまったく違う。
むしろ逆境といってもいい。
この真実を知ったとて、一体自分に何ができるというのだろう。
・・・なぜ、あのとき、止められなかったのだろう。
なぜ、あのような男を引き入れてしまったのだろう。
自分がついていながら、と思うと歯がゆくて仕方が無かった。
こんなことになってしまった責任の一端を彼は感じていたのである。




「将軍、入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、お入り」
徐盛はゆっくりと扉を開け、部屋に入った。

周瑜は寝台からゆっくり体を起した。
肩から上袍をかけていた。
「診察は終わったのでしょうか?」
「ああ、先生には今、厨房で薬を煎じてもらっている」
「そうですか」
「子明は帰ったのか」
「はい。随分と心配されておりました。お体をご自愛くださるようにと」
徐盛は周瑜に示されるまま胡床に座った。

「今日は悪かったね。なにやら相談事があったようなのに」
「いえ。・・・将軍こそお体を大事になさってください」
「・・・ああ」
しばらく沈黙がおちた。
周瑜の白い横顔を見つめながら、
徐盛は迷った挙句、口を開いた。

「・・・水は冷たかったでしょう」
「・・・ん?」
「その冷たさは、まるであなたの心根のようではありませんか」
周瑜はかすかに唇を歪めた。
「・・・何が言いたい?」

「・・・・あなたは自害なさろうとしたわけではなく」

周瑜は徐盛が何を言おうとしているのかを黙って見つめた。

「・・・あなたの中のもうひとつの命を流そうとなさったのではありませんか・・・?」

徐盛の言葉に、周瑜の目は一瞬カッ、と見開かれた。
その目が、徐盛の視線と交錯する。

「・・・おまえは・・・!」
周瑜の唇が微かに震えるのを、徐盛は見逃さなかった。



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