(9)天啓


徐盛の言葉に、周瑜は凍りついた。
唇を震わせながら、言を継げないでいた。

「な・・・何を・・・馬鹿なことを・・・」

「某をたばかろうとしても無駄でございます、将軍」

あわせた視線を、徐盛の方から外した。

「まだ、誰にも言ってはおりません。ご安心を」
徐盛は静かに言った。


しばらく間をおいて、

「・・・なぜ、わかった?」
周瑜は震える唇でそう訊いた。

「・・・10年前のことを思い出しておりました」
「・・・・」
周瑜は、深く息を吐いた。

「そうか・・・。私をよく見ている者には、わかってしまうのだね」
「某はあのときから、お傍におりましたので」
「そうだったね」
「あなたは自害など、決してなさらないと某は思っております」
「ふん」
「しかもわざわざ、江まで出かけられてまでなど」
「・・・その意味を、おまえは考えたというわけか」
「あなたは昔から、意味のないことはしないお方です」
周瑜はフッ、と笑みを作った。
「無駄に私の傍にいたわけではないということか」
「ひとつ、お聞きしたいことがございます」
「何だ?」
「わざわざ、長江まで出かけていかれた理由を、教えていただけませんか」
「・・・感傷的と笑われるかもしれぬが、まだ生まれぬ命とあれど、魂はあろう。せめて我が故郷ともいえる長江にその魂を帰したいと思ったのだ」
「・・そうでしたか」
「自己満足に過ぎぬが・・・な」
周瑜は軽く唇を歪めた。


「・・・おまえなら、腹の子が誰の種か、わかっているだろう?」
「はい」
「・・・誰からも望まれてはおらぬ。それどころか、その存在さえ許されぬ」
「だから・・・流そうとなされたのですか」
周瑜は頷いた。
「誰にも知られずに流れてくれれば、よいと思った」
「しかし」
徐盛はさしでがましいとは思いながら、口を開いた。
「子に何の咎がありましょう。・・・あの男と同衾なさったのは、あなたの意思によるものではありませんか」
「・・・その通りだ」
周瑜は目を閉じた。
一時、あの男と過ごしたことを後悔はしていない。
だが、よもや子ができるなどとは思わなかった。
「私は鬼だ。自らの子を手にかけようとした」
搾り出すような、うめきにも似た声で、周瑜は続けた。
「・・・だが、子を生かしても誰も喜ばぬ。思うように生きられぬ。よしんば無事に生まれたとして、万一、それが男子だとしたら、後の争いの種にならぬとも限らぬ」
周瑜の言うことは尤もである。
西涼の当主は間もなくあの男になるのだろう。
生まれ来る子はまぎれもなくその嫡子になるのである。

「私だって、どうしたらよいのか、わからぬ。私にはまだ、国のため、殿のためにやらねばならぬことがあって・・・それをまさに実行しようとする今になってこのような事態になったのだから」
周瑜は額にかかる髪を片手でかきあげながら、苦悩の表情を見せた。
「・・・どうしたらいい?」
「は」
「おまえは・・・どうすべきだと思う?」
「・・・おそれながら」
徐盛は周瑜の目を見つめて言った。
「自然に流れる命ならともかく、そうでないのなら、生かすべきだと某は思います」
「・・・おまえは男だからそのように言うのだ」
たしかに、徐盛にはわからないことである。
子供を産むことが、今の周瑜にとって、心と体にどれだけの負担になるのだろうか。
しかし、徐盛には周瑜に言わねばならないことがあった。
「どんな命でも生まれてくる以上、意味がないとは思いません。ましてやこの時期に、と将軍はおっしゃいますが・・・某には・・・まるで・・」
徐盛は膝においた手をぎゅ、と握った。
「まるで、将軍にこの策を実行させぬように天が授けたもののように、思います」
「何だと・・・!」
周瑜は切れ長の目を見開いて徐盛を睨んだ。
徐盛は周瑜の怒りを受けるのを承知で続けた。
「あの策を実行されたとして、おそらくその過酷な旅程において、あなたの体はそれを成しえなかったのではないかと、某は思います。悪くすれば陣中にてお命を落とすこともあるやもしれませぬ」
「・・・それをこの腹に宿って知らせたとでも言うのか」
徐盛は頭を下げた。
「天が、この私を・・・」
周瑜は怒りのかわりに静かな悲しみを見せた。
徐盛はそれきり黙って、目を伏せた。
「・・・しばらく」
ふいに周瑜が口を開いた。
「しばらく、考えたい」
「は」
徐盛は胡床から立ち上がった。
「どうか、お大事になさってください。・・・また、見舞いに参ります」
「文嚮」
徐盛が部屋を出て行こうと背を向けたとき、その背に声がかかった。

「今更、私に女に戻れと、天はそういうのか・・・?今が、軍袍を脱ぐ時なのか?」
「・・・某にはわかりません。将軍がそうお考えなのならそうなのでしょう」
徐盛は背を向けたまま、答えた。
「・・・面白くも無い答えだな」
「失礼つかまつります」
一礼し、そのまま彼は部屋を辞した。


徐盛は厩から馬を引いて、周瑜の邸から通りに出ると、呂蒙の姿があった。
「呂子明殿・・・」
「どうにも、後味が悪くてな。少しつきあわないか」
「は」

呂蒙は一昨年、孫権の世話で、妻をもらった。
戦続きで家に戻ることもままならなかったが、先だって子供が生まれたという。
徐盛は呂蒙の家に初めて上がった。
呂蒙の妻が酒と肴を出してくれた。
妻を呂蒙はいたわり、こちらのことはいいから奥でゆっくり子供の面倒をみているよう言い渡していた。
その様子を、徐盛は複雑な気持ちで見ていた。
もちろん呂蒙は知らないのであるが、一方で周瑜が身重の体をもてあましていることを思うと、あまりにも周瑜が気の毒でならなかった。
その、苦々しい気持ちを封じて、徐盛は呂蒙の器に酒を満たした。
「・・やはり、子が生まれるというのは嬉しいものなのでしょうね」
「う〜ん、まあ、そうだな。まだあまり実感はわかないけどな」
「しかし、ずっと南郡にあって、お気に掛かっておられたことでしょう」
「まあな。難産だったとあとで聞いたときは、肝が冷えたよ」
「母子ともにご無事でなによりでした」
「ああ、ありがとう。・・・時におぬしはまだ妻を娶られぬのか?」
「はぁ、なにぶん甲斐性がございませぬゆえ」
「おぬしの気持ちもわからんではない。だがなあ・・・跡継ぎを残さねば家が続かないぞ」
「そのうち養子でも貰おうと思っております」
「そうか・・・ま、そういうことならば、余計な世話はやかないでおこう」
二人は互いに酒を酌み交わした。
「公瑾殿は大丈夫だろうか」
「・・・」
呂蒙は嘆息をついた。
「・・・心の病のせいだ、と申されていた。・・・やはり、病のせいで気がふさぎがちなのであろうか」
「そうかもしれません」
徐盛は理由を知っていたのだが、呂蒙には言わなかった。
呂蒙は実直で正義感の強い男である。
彼にこの問題を告げたところで、悩みがひとつ増えるだけで、打つ手などないのだということを徐盛は知っている。
「・・・どう、したらいいものかな」
「周将軍が自ら立ち直っていただかなければ仕方がありません」
「・・・そうだな・・・俺たちにできることなど、ないのかもしれんな」
「あるいは」
「ん?」
「周将軍が戦うことをやめるか、です」
「・・・それは、あの方が女に戻るということか」
「そういうことになります」
呂蒙はしばらく黙って考えに耽った。
「そうだな・・・そうしてくださればいっそ、安心できるのだがなあ」
それも難しいだろうな、と思いながら、酒を呷った。
「子明殿は、あの方が軍袍を脱がれることを是と思われますか」
「ん?・・・まあ、軍としてはいろいろ困ることも多いだろうが、何と言ってもあの方のお体が心配だからな」
「女性に戻ったとしたら、あの方はどうされるのでしょうか」
「・・・わからん。もしかしたら、俺たちの前から姿を消してしまうかもしれんな。あの方のことだから、どこかで隠棲でもしてそうだ」
「・・・そうですね」
そうなったとき、自分はあの方を見送ることしかできないのだろうか。
あの方の面倒を終生見たいと思うのは過ぎた望みなのだろうか。



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