「やあ、ここにいたのか」
声をかけると、陽人の城壁の上から景色を眺めていた色白の美少年はゆっくりとこちらを振り返った。
もうじき夕暮れが近い。
黄金の円盤の光を片側の頬に受けて眩しく輝いていた。
その姿はまるで天上人のようで、祖茂は一瞬声を詰まらせた。
「大栄・・・軍議は終わったのですか?」
「ああ、だいたいは」
「やはり、昼間はこちらが風下になりますね。この城が高台にあって良かった」
「風をみていたのか」
祖茂はこの少年の秀麗な横顔をみながら感心していた。
「・・・君はいい参軍になれるよ」
「そうでしょうか?」
「ああ、俺が保証する」
祖茂がそういうと、少年はくす、と笑った。
笑った顔も美しい、と思う。
「公瑾」
公瑾、と呼ばれた少年は「はい?」と答えた。
周瑜、字を公瑾という、それが彼の名だった。
「若はどうした?」
そう訊くと、周瑜はかすかに笑っていった。
「おそらく、中庭で伯海殿と剣の練習でもなさっているのだと思います」
「そうか」
祖茂は周瑜の隣に立って、景色を眺めた。
「くしゅん!」
隣にいた少年が突然くしゃみをした。
祖茂はそちらを見ると、周瑜は肩をすくめて両腕で自分自身を抱き込むような格好をした。
「少し風が冷たくなってきたな。中に入った方がいい。風邪をひいては大変だ」
祖茂はそう言って、周瑜の肩に手をかけた。
「すみません、大丈夫です」
そう言って見上げる周瑜の顔色が少し青い。
「何を言ってるんだ、そんな顔色をして。強情はらないで、目上の言うことは聞くもんだ」
祖茂は肩に巻いていた肩布を外して公瑾の肩にかけてやった。
「すみません・・・でもまだちょっと見ていたいので」
「しょうがないな。作戦の前の大事だ・・・もう少しこっちへおいで」
祖茂は周瑜の肩を左腕で抱くようにした。
周瑜の髪が風になびいて顎を撫でる。
「・・・・・」
祖茂は周瑜の肩を抱きながら、目を逸らせた。
そうしていなければ首筋にあたる周瑜の息を唇ごと奪ってしまいそうな気分になっていたからだった。
(どうかしちまったか・・・俺は)
(はっ、馬鹿馬鹿しい。そっちの趣味は無かったはずなんだがな)
周瑜の顔を見下ろすと、目が合った。
「大栄・・・洛陽まで行ったら、本当に軍を抜けてしまうのですか?」
「・・・・ああ、そのつもりだ」
「この前もいいましたけど・・・やめないでください」
周瑜の顔がすぐそばであげられた。
その目があまりにも純粋すぎて少し驚いた。
(どうして、そんな目で俺を射るんだ・・・)
漆黒の双眸を見返しながらもそう思った。
「・・・・なんで君はそんなに俺を引き留めようとするんだい?」
「いてほしいから・・です」
「ふうん?それだけ?」
祖茂は少し意地悪っぽく言った。
そうすると周瑜は少し困ったようにうつむいた。
「・・・・だって、どういえばいいんです?寂しいとでも・・?大栄にはいろいろ相談に乗ってもらってるし・・その・・本当の兄のようにも思えて・・言葉で言うのは難しいです」
祖茂は周瑜の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
「ふふ、ごめん。いじめるつもりはなかったんだけどね。でも嬉しいよ、寂しがってくれる程俺を慕ってくれて」
明るく言ったつもりだったのに、なぜか周瑜は俯いてしまった。
そのとき、背後から周瑜を呼ぶ活達な声がして、彼はそちらを振り向いた。
一瞬にして表情が変わる。
そして祖茂に一礼して声の主とともに行ってしまった。
祖茂はそれを見送って、さっきまで肩に触れていた手のぬくもりを逃がさないように握っていた。
「洛陽まで・・・・か」
いくつかの戦闘を経た地の野営の天幕で、祖茂は孫堅に呼び出された。
酒を勧められ、差し向かいで呑む。
「・・・祖大栄。おまえの本懐はいずこにある?」
孫堅の日焼けした精悍な顔が正面にある。
「ここに。殿の御前に」
祖茂は手にした器を差し出して答えた。
「そうであろう。おまえは戦場にあってこそ自分の居場所を見つけられるのではないか?」
「それも、先年までのことです。今は・・」
「馬には乗れるだろう?」
「はい」
「それに腕もついている。それで充分ではないか」
「・・・・殿」
「まだ、軍を去りたいと思っているのか」
「は・・・この不自由な体では足手まといになるかと」
「暇を出すのはまだ先だとはこのまえ言ったがな。あれは撤回させてもらう」
「殿・・・?」
孫堅は祖茂の器に酒をなみなみと注いだ。
「俺と共に生きろ」
孫堅はまっすぐに祖茂の目を見た。
「俺のために働け。俺にはおまえが必要だ」
孫堅はきっぱりとそう言った。
祖茂はその雰囲気に圧倒され、孫堅の言葉が全身にゆっくり染み渡っていくのを感じた。
祖茂は泣き出しそうな気持ちになり、膝においた手に力をこめた。
「・・・殿!このような私めになんというありがたき仰せ・・・」
祖茂はぐっ、と自分の下唇を噛み締め、振り絞るように言った。
「この祖茂、四肢がバラバラになりお役に立てなくなるまでお供いたします・・・!」
この言葉に孫堅は笑った。
「そうか、わかった。俺がいいというまで傍にいろ、いいな?」
「は、必ず。決して違えることは致しません」
顔をあげて、孫堅を見た。
(俺の運命はここに)
(ここにしか、ないか)
祖茂は酒をぐい、と一気に飲み干した。
「時に、祖茂よ。おまえは策をどう見る?」
孫堅が急に話を切り替えた。
「・・・若はさすがに殿の御子だけあって武勇に優れておいでです。近い将来、さぞ勇名を馳せることでしょう」
「あれは小さい時から厳しく育てておったからな」
「それになかなかに目端がお利きになる」
それへ孫堅は軽く笑った。
先ほどまでと違って、父親の顔をしていた。
「それは瑜の影響だろう。あれの知謀はなかなかに大したものだ」
「見かけに寄らず、ってところですね、公瑾は」
「うむ。それなんだが・・時々心配になってな。久方ぶりに会ったが、あのように美しく成長しておるとは思わなんだ故、策が迷うのではないかと思ってな」
祖茂はそれを聞いて笑った。
「それはないでしょう。あの二人はいい友人ですよ」
「それならば良いが・・・。瑜を傍に置いてじっと見ておるとこの俺でさえ時々惑う。おまえはそのようには感じぬか?」
「・・はっはあ・・・それはそうですね。あれだけの器量は女でもそうそういないでしょう」
孫堅は笑って言った。
「そうか、おまえもそう思うか。あれで女であれば、俺が囲っていたかもしれんぞ」
「殿、それでは若と取り合いになりかねませんよ」
「はっはっは!そうか、そういうこともあるな!」
孫堅が笑って、祖茂も笑う。
だが祖茂はなにか心にひっかかるものを感じないではいられなかった。
「少し呑むかい?」
夜になって周瑜が訊ねてきた時、祖茂は自分の天幕で一人酒を呑んでいた。
「・・・でも、明日は出発ですし」
「なに、少しくらいなら寝酒に丁度良いだろ?」
洛陽から長沙に戻る途中の野営中であった。
袁紹軍の追っ手を逃れるために、以前二人で見つけた砦に兵を率いて先乗りをすることになっていた。
周瑜は少し躊躇したが、すっ、と手を差し出した。
「じゃあ、少しだけ」
差し出された手に酒を注いだ器を渡す。
周瑜はそれを受け取り、口をつける。
それを見てから祖茂は自分の器にも酒を注いでぐいっと呷った。
「ふう。美味いな」
周瑜は黙ってこくん、とうなづいた。
「それにしても、良かった。このままいてくれることになったのですね、大栄」
「ああ、残念ながら、ね」
祖茂は、はは、と口先だけで笑ってみせた。
「もしかしてそれを言いにきたのかい?」
周瑜は酒の器を両手に持ちながら、横目でちら、と祖茂を睨んだ。
「・・・そうです。いけませんか・・?」
その表情に、どきりとさせられた。
・・・タチが悪い。
無意識なのが余計に。
「いいや」
そう答えたもののどうにも落ち着かない。
祖茂は、酒を呷ってそれをごまかした。
「そういえば、君が酔ったところをみたことはないな。若みたいに楽しい酒になるのかな?」
周瑜は思い出したように笑って、「さあ」と言った。
前の酒宴では孫策が酔って周りの兵らと踊り出したのだった。
あやうく周瑜も引っ張り出されそうになったのだが、その場から祖茂が周瑜を引っ張っていったので難を逃れた。
「大栄は酔うとどうなるのですか?」
「俺か?俺はだな・・・」
祖茂は器を持ったまま隣にいる周瑜の肩を抱き寄せた。
「隣にいるやつをこうやって口説きにかかるな」
笑ってそう言うので、つられて周瑜もくすくすと笑い、
「口説くんですか?」と訊いた。「男でも?」
「そう、男でも女でも」
「それはまた厄介ですね」と、またくすくすと笑う。
祖茂は周瑜を抱き寄せたまま、酒を呑み始めた。
「君みたいな綺麗な子が近くにいるだけで酒が進むというものだよ」
「・・・もう、実践されているようですね」
周瑜はまた笑った。
祖茂は酔ったフリをした。
なぜか、このまま周瑜に触れていたい、と思ったからだ。
少年独特の線の細さが、錯覚を起こさせる。
はたしてそれが錯覚なのかどうかはおいといて、祖茂にとって周瑜という少年が特別な感情を抱かせる対象となったことだけは確かだった。
とりとめのない、たわいもない話をして笑い合った。
そうして気がつくと、自分の腕の中で少年は眠っていた。
「しょうがないな・・・」祖茂は苦笑して周瑜の身体を抱き上げた。
驚くほど軽い。
「ちゃんと飯をくってるのか、こいつは・・・」
天幕の中の牀台に降ろし、身体を横たえる。
「う・・ん」
上掛けを掛けてやりながら牀台の脇に膝立ちし、その寝顔を見つめた。
「まったく・・・」
その、ほんのり紅色に染まった頬に触れた。
「罪作りだよ、君は」
祖茂は寝顔を見ながらどうしようもなく惹かれている自分にため息をついた。
「俺の命は殿のものなのに、心は君にうばわれそうだ」
そううっそりと呟くと、牀台の下の桟敷に横たわって目をつむった。