肩越しの風


(1)


孫策が亡くなって一月が経った。

「弟君はどうしておられる?」
孫静が尋ねる。
「お部屋でなにか考え事をしていらっしゃるようで、声をかけても出てきてくださらんのです」
張昭が溜息まじりに答える。
「そうか・・・あれからもう一月も経とうというのにな」


孫権はこの年18になったばかりであった。
年若い彼に跡を継がせるのは、亡くなった孫策の遺言である。

「だが、討逆殿とは似ても似つかぬあの弟君で、果たして今の部下たちがついて来るでしょうか」
孫堅の時代からの古参の将たちは、それが不安であった。
孫堅から孫策に受け継がれたときは、父の威光そのままを体現したかのような、いやむしろそれ以上の輝きを持っていた。
それゆえ、古参の将たちは彼の中に孫堅の姿を見ることができたし、快活でおおらかな孫策を王の器と信じることもできたのだ。
だが、孫権は違う。

張昭、程普、黄蓋、朱治、韓当、孫静、呂範、それに周瑜。
彼ら古参の武将たちは主たる孫権のふがいのなさに、こうしてたびたび集まっては意見を交わしていた。

孫策のあとに頭領にと押されたのは孫権や三男の孫翔だけではない。
もっとも望む声が多かったのは実は孫堅の弟で孫策の叔父にあたる孫静であった。
その彼が声を張った。
「我らは討逆将軍の遺志を継ぐ者として、孫仲謀殿を後継として支えていく覚悟であることを、ここに明らかにする。他の者も異存はないな?」
孫静はぐるりとその場にいた者たちを見回した。

「しかし、張子綱殿は許にあり、侍御史となっておられる。このまま曹操の元へ残るのではないか」と朱治が言う。
それへ、周瑜は首を振り、張昭へと目線を移した。
張紘は、字を子綱といい、張昭と二人合わせて二張と呼ばれる、孫策が挙兵した際に孫軍に参じた文官であるが、ちょうどこたびの孫策の訃報の以前より、曹操のいる都、許へと出向いていた。
張昭が、張紘は孫軍に忠誠を誓っていることに変わりはない、という返事をすると一同は安心した。


この際は張紘が許にいてくれて良かった、と思わざるを得ない。
彼が曹操を止めてくれなければ、この機を逃さず南下して一気に呉を奪うこともできたはずなのだ。
孫策という頭を失って、気勢を削がれた孫軍に曹操が総攻撃をかけてきたのならば、ひとたまりもないところであった。


一息ついたところで、程普が眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「それにしても、孫伯符殿の死去により、我が軍を離脱する者が相次いでおる。なんとかならぬものか」
「まだ一月。これからもそういった者は増えるだろうな」黄蓋がそう言うと、他の者も同意する。
「一刻も早く、新しい体制を整える必要がありますな」張昭が言うと周瑜が繋いだ。
「しばらくは内地の整備と国力の回復に専念した方がよさそうですね。おそらくは反乱を企てる者がいるでしょうから」
「山越の動きもあるしな。討伐軍はそのまま活動させるとして、さて問題は曹操だが…」
「そのことですが、張子綱殿のよこした知らせの中に、こんなくだりがありました。陽武から官渡へ袁紹が出兵したそうで、官渡を挟んで両軍睨み合っているとか。そんな状況で南征しては来れない事情もあるようです」
「それは本当か、張子布殿!」
「なんと、曹操の背後をつける絶好の好機ではないか…!」
「…伯符殿が生きておいでなら…!!」

それはその場にいた者ならだれしもが思ったことであろう。
孫策が健在であれば、この機を逃すはずはない。
袁紹との戦いの虚をつき、背後から曹操を攻め、一気に都を落とす。
孫策ならばやってのけたかもしれない。

考えても仕方のないことだが、やはり口惜しい。
一同が黙りこくってしまう中、一人周瑜だけは別の思いを抱いていた。

孫策はやはり、曹操の手の者に暗殺されたのだ。
孫策が死んで一番得をしたのは奴だ。
曹操は袁紹と決着をつけるつもりなのだ。
そのために今背後をつかれてはまずい。
後顧の憂いを絶つため、孫策を暗殺したと考えれば納得もいく。

いづれ、決着をつけねばならない相手だ。
知らず、周瑜は唇を白くなるほど噛みしめた。


(2)

だれもが、心の準備が出来ていなかった。
動揺を隠せず、右往左往していた。

「周中郎将殿」
城内の回廊で周瑜を呼び止める者がいた。

「太史…子義殿」
太史慈。
神亭で孫策と戦い、それがきっかけとなり、孫家に仕えるようになった勇猛な男である。

「中郎将殿と見込んで、ひとつ頼みがあるのだが」
「なんでしょう」
「…ここでは言えん。人払いをして奥の部屋でよろしいか」
「わかりました」
周瑜は不安になった。
太史慈は孫策に心酔し、仕えるようになった。
その孫策が亡くなった今、果たしてこのまま残ってくれるだろうか。
周瑜は太史慈について、城の部屋のひとつに入った。

「徐文嚮、いるか」
周瑜が声をかけると、部屋の外から答えがあった。
「ここに」
「人がこないか見張っていてくれ」
「承知しました」

そうして部屋で二人きりになり、向かい合うと、太史慈は懐から文箱を取り出した。
「これは?」
「一昨日、曹操から届いた」
「…!」
周瑜は衝撃を受けた。
たしかに、孫策について各地を転戦していたときも太史慈は功績を挙げている。
特に弓の腕前は百発百中で、当の孫策でさえ舌を巻くほどであった。
そんな彼のことを曹操は聞き、興味を持ったのだろう。
「中を見てもよろしい?」
「構わん」
周瑜は箱のふたを取った。
「…これは」
箱の中には枯れた草が入っていた。
「…これだけ、ですか?」
「ああ、それだけだ。文もなにもなかった」
周瑜はその草を手に取って匂いを嗅いでみた。
(これは…当帰。薬草だ。なるほど…)
「中郎将殿にはそれが何かおわかりか?」
周瑜は薬草を太史慈の前に掲げた。
「これは当帰という薬草です。怪我の治療に用いるものですが…」
「薬草?」
「曹操の謎かけでしょう。これは当帰、つまり、帰って来い、ということです」
「なるほど。それは曹操の誘いであったか」
「どうなさるおつもりです?」
「どうもこうも、そのような薬草ひとつで何が変わるわけでもない。向こうもさして期待はしておらぬだろう」
太史慈はそう即答したので、周瑜はほっとした。
「いや、これですっきりした。このようなものを送ってこられて、どう解釈したものか、はなはだ困っておったのだ。礼を言う」
「お役に立てたようでなによりです」
「このような謎かけを仕掛けて、この俺が寝返るとでも思ったおったのだろうか、誠に心外だ」
太史慈は少し憤慨していた。
根っからの武人なのだ、この男は。
このような手管を使う者を信用できないのであろう。


「それからもうひとつ」
太史慈はひとつ、咳払いをした。

「某は大弟君をあまりよくは知らん。よければその人となりを教えてはくれまいか」
太史慈は身の丈七尺七寸(約177センチメートル)の上背を持つ堂々たる体躯である。
その彼が、自分より年下の周瑜に頭を下げる。
「…このまま孫家に仕えてくれると?」
「某には行くところなど他にない」
「そうですか、それは良かった。あなたのような武人がいてくださるだけで士気が高まります」

周瑜は孫権について自分なりの心象と彼の長所について淡々と語ってみせた。
太史慈という男は生粋の武人である。
孫策の心意気に心酔し仕えた一人でもある。
その彼が、性格のまったく逆の弟を主と仰ぎ、仕える。
どのように複雑な心境であろう。
周瑜がそれをそのまま言葉にして訊くと、太史慈は頷きながら答えた。
「某は孫伯符殿の大義のためにお仕えしたもうた。その主が託したのが弟君なれば、その遺志を継ぐべく尽力するのが衷心というものであろう」
まったく、彼らしい答えだと周瑜は思った。

「それはそうと、いづれは中郎将殿の知るところとなるであろうが、ひとつお耳にいれたきことが」
「ほう、それは何でしょう」
「先日、ご領地の視察に参った時、この軍より離脱するという一隊を見かけたので彼らに、孫軍を離れてどこへいくのかと尋ねたところ、盧江の皖城へ行くと」
「皖、ですか。盧江太守はたしか…。ああ、そうかあの男ですか」
周瑜はいつか孫策が言っていたことを思い出した。

『今はおとなしいがあれはきっと裏切るぞ。そういう相だ』

李術という男は、孫策によって盧江太守に任じられた者であったが、以前会った時、周瑜は生理的に嫌悪感を感じたものだ。
孫策はなぜそんな男を太守に任じたのであろう。
その答えが今、目の前にある。

裏切り者の旗印をひとつ掲げておけば、そこへ同じ者たちが集まる。
あちこちで小さく反乱を起こされるより、ひとつにまとまってくれた方がやりやすい。
また、それを鎮圧したとなれば、反乱を企てようとしていた者たちも帰順しやすいのではないか。

孫策はそこまで考えてあのような信頼できぬ男をわざと配置していたのだ。
しかも盧江は呉都から近い。
その気になれば一日で抜ける距離である。

「伯符様のまいた種が、目を出した、ということか」
周瑜の独り言に、太史慈は一瞬「は?」と聞き返した。

「中郎将殿、どうされたのか?」

「いえ、貴重な情報、感謝します。近いうち、出兵があるでしょう。あなたにも兵の調練をお願いします」
「心得た」

太史慈の背中を見送って、周瑜は微笑んだ。
孫策は彼のような実直で有言実行の男を好んだ。
彼が残ってくれることが嬉しかった。
部屋を出ると、徐盛が控えていた。
「太史都尉殿は、残ってくださることになったのですか」
「ああ。彼は根っからの武人だ。孫家に命運を委ねると言ってくれた」
「そうですか、それは重畳でした」
「おまえも、まわりの部下たちに注意していてくれ。今となっては誰が裏切るかわからんからな」
「承知いたしました。…少なくともあなたの部下の中にはそのような不心得者はおりませんが」
「それならば良いが」
「それよりも、周中郎将殿ご自身の方はよろしいのですか」
「私?」
「はい。…あれほどに憔悴しきっておられたので…」
徐盛はずっと心配していたのだ。
周瑜はそれまで自分のことで精いっぱいで周りのことに目がいかなかった。
「私はもう大丈夫だよ。おまえには心配かけたね」
「いえ…」

周瑜だって、決して完全に立ち直ったわけではない。
許されるのであれば、孫策を思って一日中泣き暮らしたいくらいだ。
しかし、そんなことをしていても埒があかない。

「だが私などよりも早く立ち直っていただかなくてはならぬ人がいるのだ」
周瑜は徐盛にいったつもりで自分に言い聞かせているようだった。
「ここは張子布殿にお任せするしかないだろうな…」


部屋に引きこもってしまっている孫権のことである。
最初こそ、孫策の後継者として、皆の前で誓ったものの、それ以降はふさぎがちである。
やはり、重圧を感じているのだろう。


そんなとき、都より使者がやってきた。
曹操が上表して、孫権に討虜将軍に任じたというのである。
同時に会稽の太守にも任じられた。

その報せを受取った時、張昭は
「張子綱め、こうなることを予期しておったか。やれやれ、やりおるわ」
と、ぶつぶつ呟いた。
張昭の言うのは、この人事の裏には許にいる張紘がいるのだろう、ということである。
張紘は孫策のあとを継ぐ年若い孫権が、嘆き悲しみ、喪服も脱げぬ有様を思って、自ら動かねばならない状況に追い込もうとしたのであろう。

こうなるとさすがの孫権も張昭に尻を叩かれ、陣頭指揮をせざるをえなかった。

元来、孝廉に推挙されるだけの頭のよさもあり、一度政務をこなし始めると、張昭を助言役として、てきぱきと物事を決め始めた。

そうしてやっと国として機能し始めた頃だった。




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