(3)

孫権は周瑜を部屋へ呼んだ。
「…いろいろと迷惑をかけたな」
「いいえ。ともかくも、殿がおられねば成り立ちません」
「そうだな…。おまえの方が、兄上と長くいたぶん、悲しかっただろうに」
「それはもう…。ですがこうなってしまったからには前を向いていくしかございません」
「うむ。俺は18だが、兄上は17で父の跡を継いだのだ。俺だってしっかりせねば、とは思う」
そういって机においた手を握る孫権を、周瑜は微笑ましく見た。
「…で、私をお呼びになったのは、そのような話をするためではございませんでしょう」
「うむ、実は先だって斥候から報告が参った件だ。盧江太守の李術が、どうやら不服従民を集めて反乱を企てているらしいという」
「はは、やはりきましたか」
「やはり、とな。おまえにはわかっていたとでも申すか?」
「ええ。あの李術という男は劉勲の子飼いの部下でしたが、劉勲が敗走したあと一人で皖城を守っていたので、こちらから条件をつけて太守にしてやるというと呼応してまいったのです」
「条件?」
「当時の揚州刺史・厳象を討伐することです。揚州は現在我が軍の領土です。その地に曹操が任命した刺史や牧がいるのははなはだ迷惑なことですからね」
「…なるほど」
「そのような男ですから、少しでもこちらが弱みをみせたが最後、これを契機とばかりに寝返るであろうことは推察しておりました」
「兄上らしからぬ人事だな」
「いえ、殿、これは契機にございます。殿の御治世となられた今、反乱分子が動き出すことは必定。それをもっともわかりやすい形で残すことで、一層できるのです」
「まさか…兄上がそこまで読んでいたと?」
「私などはそう思います」
「…」
それが本当なら、やはり兄は只者ではなかったのだ。
そんな兄の跡を継ぐ自分は、どうすればよいのか-。
周瑜は軽く言うが、その発言ひとつひとつに孫権は重圧を感じてしまうのだった。

「なあ、公瑾」
「はい」
「おまえ、兄上が亡くなった時、倒れたな」
「…あの時は…とんだ醜態をさらしました」
「それほどに兄上を思っていたおまえが、遺言とはいえ、俺に仕えることに違和感はないのか」
「殿…何をおっしゃるかと思えば」
「わかっておる。皆が兄上と俺を比べて違いすぎる、ふがいない、と思っていることは」
孫権は傍机に肘をついたまま視線を泳がせた。
「…俺には荷が重すぎるんだ」
そんな孫権を前にして、周瑜は片手をつき身を乗り出して言った。
「殿、あまり気負いなさいますな。細々としたことは我ら臣下にお任せになって、殿はどっしりと構えていればよいのです」
「おまえはそういうがな…」
「この周瑜が殿をお支えいたします。ニ張がおります。忠臣たちがおります。殿はお一人ではございません。そのことをお忘れなきよう」
「うむ…。わかってはいるのだがな。…なかなか、兄上のようにはいかぬものだ」
「殿」
「ん?」
「こたびのことはこの孫呉の地の支配者はだれなのか、世に知らしめるよい機会です」
「むぅ」
「殿は殿のやり方で治めればよいのです。二張もそう申されていたでしょう?」
「ああ。俺は…武では兄上の足元にも及ばぬからな。兄上と同じようにはできない」
「殿は亡き兄君にできなかったことをおやりになればよいのです」
「兄上ができなかったこと?それは何だ?」
「兄君は領土を広げるため各地を転戦してまいりました。武力でもってこの地を治めたのです。ですが、その兄君が亡くなった今、どうです?反乱する者、離脱する者が多数です。押さえ付けるだけの統治では人心はついてこないのです。兄君は生前こうおっしゃっておられました。内政は権に任せよう、と。自分よりもうまくやるだろう、と」
「兄上がそんなことを…」
「兄君は殿の才能を見抜いて後事を託されたのです。もっと自信をお持ちください」
孫権はフッ、と笑った。
「おまえは持ち上げるのが上手いな」
「とんでもございません、本当のことを言ったまでです」

「で、俺は李術を討伐すれば良いのだな」
「はい。ですがその前に一筆、盧江太守宛てに公文書をお書きください」
「降伏せよと?」
「呉からの亡命者を還すように、と」
「そんなことをしても無駄だろう」
「ええ、おそらくは。ですがこちらに正義があることを世の中に明らかにしておく必要があります」
「世の中に…ということは、李術を孤立させるということか」
「そのとおりです。こちらが兵を出して皖城を攻めれば、おそらくは曹操あたりに救援を求めるでしょう」
「得心がいった。奴がこちらの要求を飲まぬ時に、曹操に親書を書けばよいのだな」
「はい。殿が手紙をお出しになれば、曹操は援軍を出さず、孤立し皖城は楽に落とせるでしょう」

しかし、孫権はいまひとつ、ひっかかるものがあったようだ。
彼は眉をひそめて周瑜を睨むように言った。

「だが、俺は昔厳象には孝廉に推挙される際に中央への橋渡しをしてもらったことがある。その厳象を殺したとあれば非はこちらにもあるということになるぞ。それを曹操にどう説明したらいい?」
周瑜は微笑して、まっていましたとばかりに答えた。

「実は当時李術に直接交渉をしたのは私です。条件をつけた、とは暗に向こうが勝手にそう解釈しただけのことでございます」
「ん?それはどういうことか?」
「つまり、李術にはこう言ってやればよかったのです。『あなたのような才覚のある御仁が劉勲などの風下に立っていること自体がおかしい。あなたを盧江太守に任じてやりたいが、今の揚州刺史が邪魔立てするであろう、と。もし彼になにかあればこの地は孫家が治めることとなり、晴れてあなたがいまよりもその実力にふさわしい地位を得ることになるであろう』と。」
「ふむ、では厳象を討伐した件についてはこちらのあずかり知らぬことである、と言っていいのだな」
「左様です。実際厳象を殺したのは李術です。殿はそういった私情があるのですから、厳象の仇を取るという名目で李術を討伐すればなおよろしいかと存じます」
「…おまえは策士だな。だが李術がおまえにそそのかされた、と曹操に上申したらどうする」
「そのための親書です。殿は李術という男が信用ならぬ者だとお書きになればよろしい。李術がごとき者のいうことなど、曹操は相手にしないでしょう。だいたい、助ける義理などありませんから」
孫権は舌を巻く思いだった。そしておそろしい、と思った。
こんなにも頭のまわる人間が傍にいてくれて良かった、とも思う。

「ときに、その李術とはどのような男だ?」
「…会ったのは数年前になりますが、嫌な男です。厳象のことがなければ即刻斬っていたところです」
その周瑜の言い方に、孫権は目を丸くした。
この美しい口からこうもはっきり悪評を聞こうとは。
「女好きで、日和見主義、おまけに金に目がない、という三拍子そろった男です」
この物言いに、孫権は苦笑した。
「ずいぶん、嫌っているのだな。そんなに嫌な目にあったのか?」
周瑜は苦虫をつぶしたような顔で、嫌な思い出を振り返った。
「この私を口説きにかかったのですよ、あの男は。自分の元へ来れば楽団をやると言って」
これを聞いて、孫権は大笑いした。
「それは、なかなかに愉快な男ではないか」
周瑜はふと、孫策もまたこのように笑っていたことを思い出した。

『はっはっはっは!』
『そうか、そんなにあいつが嫌か』
『あいつ、おまえに色目を使ってきたのか?色事が好きそうに見える』
『今はおとなしいがあれはきっと裏切るぞ。そういう相だ』

瞬間、懐かしい思いにとらわれる。

「…だが、そう笑ってもいられぬな。おそらくはそのような手練手管で手下を増やしているのだろう。どちらにしても放ってはおけん」
孫権の言葉に回想を破られると、周瑜は顔を引き締めて言った。

「殿が直接お出になりますか」
「ああ、俺が出ないでどうする」
「では全軍をもって出陣なさってください」
「都の守護はどうする」
「張公にお任せしましょう」
「子布は怒るだろうな。前線に出るなど」
周瑜はクスリ、と笑った。
「たしかに、殿自らが出向くような相手ではありませんが、先ほどの親書の件は張子布殿のお考えですのでそう頭ごなしに反対はしないでしょう」
「ほう、そうか…。まて、それでは張昭も斥候が来る前からこの反乱を予期しておったということか?」
「実は先月、太史慈がご領地の視察に出た際…」
周瑜は太史慈からの報告を受けていたこと、それを張昭に報告した際に対策を考えておこうということになったことを話した。
「なぜ俺に報告しなかった?」
「その時点ではまだ真偽のほどが確認できておりませんでした。殿に報告すれば無用の混乱を招いてしまう恐れがございましたゆえ、私の他は張公、程徳謀、呂子衡両名にのみお伝えしました」
「…そうか、そうだな…先月といえばまだ、俺は喪服を脱いでもいなかった。そんなところで報告がきても、俺はおろおろするだけだっただろうな」
「殿」
「わかっておる。俺は俺のやりかたでやってみるさ。おまえも手伝ってくれるんだろう?」
「もちろんです」

孫権は周瑜を改めて見つめた。
「…」
「殿?」
「あ、いや…なんでもない」
孫権は目を逸らせた。
その、美しすぎる顔を正視できなかった。

周瑜が下がったあと、孫権は部屋で一人、考えに沈んだ。
本当は、言いたいことがあった。

(おまえは、本当は女なのであろう?)

正面切って、問いただしたかった。
兄の遺体に取りすがっていた周瑜が倒れた時、抱きとめたのは孫権だった。
あの柔らかな体の感触、あれが男のものであろうか。
あの時からもうずっと、その思いは疑念となって孫権の中にくすぶり続ける。
周瑜自身がそういう素振りもみせないのであれば、ただの疑念のままだ。
仮に周瑜が女であったとして、それを隠さねばならない理由があるのならばそれを明らかにしない限り、孫権にはそれを否定することはできない。

それに。
あの勇猛果敢な兄が、女と知った上で従軍させるだろうか。
あの兄ならば、戦などさせず、さっさと妻にしていたのではないだろうか。
「…だからわからんのだ」
孫権は独り言を言った。

(4)


柴桑から皖までは尋陽を抜けて陸路を北東へ駆け上がれば一日の距離である。

先発隊を陸路で送り出し、後発は船で長江を皖口まで北上する。
船には予備兵力と補給物資と食糧を積んで運ぶ。
この策を聞いた時、孫権は言った。
「それではこの戦は長引くということか」
「先発隊が戦って不利となれば、おそらくは李術は城に立てこもるでしょう。そうなれば簡単にはいきますまい」
答えたのは程普である。
「攻城戦になるというわけか」
「はい。敵の補給線を断ち、兵糧攻めにするのが得策というものです」
「フン、李術め。城から引きずり出して切り刻み、さらし首にしてくれる」
孫権がこうまで憎悪するのは、先だって民を還すよう、李術に公文書を送った後の向こうからの返信のせいである。

『徳ある者は人々から頼られ、徳のない者は人々に叛かれるもの。還すわけにはいきません』

こんな内容であった。
あろうことか、孫権を「徳のない者」と言い切った。
これほどの侮辱を受けたことがこれまでなかった孫権は、火のように怒った。
これをなんとか諫めて、曹操への親書をかかせたのはさすがは張昭である。

孫権は後発隊の指揮官に周瑜を任じた。
あえて先発隊に入れなかったのは例の迷いがあったからかもしれなかったが、後発隊は水軍を指揮する重要な役目でもあり、そこに周瑜を据えることは誰からも文句の出ないところであった。
実際、拝命した周瑜自身も異を唱えることはしなかった。

孫権に従って先発隊として随行するのは右都督として程普、黄蓋、呂範、韓当、宋謙、周泰らであった。
各任地に赴いている者、山越討伐に向かっている者、都を守護する者らを覗いても2万強の兵力があった。
当初、太史慈も同行するはずであったが、海昏をはじめとする彼が治める南の六県に不穏な動きありとの報せを受け、急遽そちらへ戻ることになったのである。

周瑜は孫権たちを送り出すと、こちらも出立の準備に取り掛かった。
皖にどれだけの不服従民がいたとしても、寄せ集めに過ぎない。
訓練された孫軍とでは問題にならないだろう。
それでも皖まであの大軍ならば2日、いや3日。敵が城に籠ればさらに数十日、数週間が経つだろう。
城を破って敵の首領を打ち取り、城内にいる民を解放するまでに2月以上はかかるところだ。
それに必要な物資を充分用意する必要がある。


「それにしても、周中郎将殿を後発部隊になさるとは、殿も余裕がございますな」
そう言ったのは、最近孫軍に仕えるようになった諸葛瑾という男だ。
文官で、実は曲阿に住む孫権の姉婿である弘咨の推挙であった。
諸葛瑾よりも前に仕えるようになった魯粛などと同列の扱いで、賓客となった。
「私などはさらに余裕がありますよ。向こうについたとしてもやることがありません」
周瑜もそれへ、調子を合せて答えた。
「これまでの討逆殿の戦にくらべれば生ぬるいものでしょうな」諸葛瑾はそう言って笑った。
周瑜の後発部隊には徐盛の他に董襲もいる。
彼には水軍も任せているのだが、陸戦においてもなかなかに強い武将である。
皖についたら予備兵力を彼にまとめさせるつもりでいたので、本当に周瑜はやることがないのである。

「まあ、たまにはこういうのも良いだろう」
周瑜がのんきに独りごちていると、徐盛が出立の準備が整ったと報告に来た。




出立してから三日目、皖まであと少しというところで、陣を張っていた孫権のところへ朱然が息を切らせて入ってきた。
先遣隊が敵と交戦状態に入ったとの報告であった。
「何っ!それは誠か!?全軍、急いで救援に向かえ!」
「殿、それでは足の速い騎馬兵だけで先行いたしまする」朱然が機転を利かせてそう言うと、孫権はそれを許可した。
「よし、では俺も出る」
孫権が引き綱を強く引こうとしたとき、その前を程普が横切った。
「どけ、徳謀!」
「殿、何も殿自らおいでになることはございません」
孫権はいきり立った気持ちを遮られ、不機嫌になった。
「俺が先陣を切らねば何のための戦だ!」
「どうか、殿!まだ先遣隊同士がぶつかりあっただけです。本隊はこの後にくるでしょう、それからでも遅くはありません」
「〜〜〜〜!」
孫権は程普の言っていることが正しいとわかっても、やはりこの逸る気持ちを抑えられなかった。
「くっ…わかった…」
孫権が納得してくれたようで、程普はほっとした。

先端が開かれてから数刻後、孫権たちの本隊がようやく戦場に到着した。
まさか、こんな風になだれこむように戦闘に入るとは予測していなかった。
敵が先手を打ってきたのである。

(…公瑾ならば、このような場合も策を講じておっただろうな…)
孫権はそう考えた。
だが、現実はそうはいかぬ。
今この場に周瑜はいない。
自分がはずしたのだ。
周瑜にばかり頼っていてはいけない、とも思うからこそそうしたのに。
いないとわかっていても、この始末だ。
我ながら情けない、とも思う。

「殿、一度引いて、軍を立て直しましょう」
黄蓋などがそう進言するが、ここまで混戦状態になって、はたして命令系統がどこまでいきているか。
「よし、一度引こう。皆に伝えよ!」
しかし、本隊と先遣隊の間に敵が入り込み、伝令がうまく伝わらずなかなか収束できずにいた。

「殿!南より別の一軍が!」
「何っ!?敵の増援か?」
孫権はじめ、その場にいたものたちの顔から血の気が引いた。

その一軍は旗を掲げずに来る100名ほどの騎兵小隊であったが、孫権の軍近くまでくると、旗を掲げた。
その旗印は、「孫」。
「あれは!」
「味方だ!」
「なんと…!どこの部隊か?」

100騎は両軍の間を駆け抜け、先遣隊と合流した。
援軍の先頭にいたのは董襲であった。
「ここはいったん引いて、本隊と合流すべし!」
「おお!」
先遣隊にいた朱然は、援軍の中に徐盛を見止めた。
彼はたしか、後発部隊にいたはず…と思ったが、ここに増援としているのであれば、おそらくは周瑜の策なのであろうことは容易に想像できた。

追撃してきた敵を弓部隊が迎え撃ち、そうそうに崩れると彼らは退却していった。

合流した董襲は孫権の前に出て礼をとった。
孫権は嬉しそうに彼の手を取って立たせた。
「おかげで助かった。しかし、おぬしは後発部隊のはず。もう船は皖についたのか?」
「はい。今朝早くに。周中郎将殿のご命令により、皖城のまわりを索敵しておりましたところ、お味方が見えましたのでこうして参上つかまつりました」
「ふむ。では周瑜は船にいるのか」
「はい」
孫権としては、普通は、ここに董襲ではなく周瑜がいるべきだと思うのだ。
「軍をおぬしに任せてあやつは船で何をしておるのだ」
「なにやら準備があるとかで」
「準備?何のだ?」
「この後の戦の、だそうです」
周瑜が何を考えているのか、よくわからない孫権であったが、このタイミングでの増援といい、やはり只者ではない。
「まあ、いい。増援はこの100騎だけか?」
「はい、あとは工作兵ばかりです」
そこまで聞いて、呂範が声をあげた。
「なるほど、公瑾は攻城の準備をしているのか」
「ふむ…」
「では殿、我々は奴らが城に戻る前に打ち破りましょう」
「よし!」

陣を立て直した孫権軍は再び進軍し、反乱軍との戦闘に入った。
もうこうなれば、反乱軍など孫軍の相手ではなかった。
散々に打ち破り、残兵たちは城へと逃げ帰った。
皖城は城門を閉ざし、城壁の上から矢を射かけた。
孫権は城の周りをぐるりと兵に囲ませ、城から一歩でも外に出るものがいれば、すべて殺した。

「これで奴らは袋の鼠だな」
孫権軍は城の周りで天幕を張り、陣を構えた。

「殿、周瑜です」
しばらくして孫権の幕に周瑜が訪ねてきた。
「案外早かったな」
「はい。準備が早く整いましたので」
「そうか。だがそのおかげで助かった。隊列が長く延び過ぎていたせいで相手の奇襲に対応できなんだ」
「たまたま、です、殿」
周瑜はそう言って微笑した。
たまたま、など周瑜の計略のなかにはない言葉であろう、と孫権は思う。
「まあ、そういうことにしておいてやる。先ほど、矢文を敵の城壁に向けて撃った」
「投降しろ、と?」
「包囲し、逃げ場はない。城の中には兵以外の民もおるだろう」
そう孫権が言ったところで、周瑜は眉をひそめた。
「残念ながら、殿がお思いになるほど李術という男は民思いではありませぬ」
「何?では民を見殺しにするというか?」
「ええ。変に気位だけは高い男です。民が飢えたからといって降伏なぞしないでしょう」
「殿は仁の心をお持ちです。その心で持って民を独裁者から御助けになってください」
「もとよりそのつもりだ。戦が終われば民を移住させる」
「さすがは殿。では少しだけ心を鬼になさってください。ここからは兵糧攻めにいたします」
「なぜだ、公瑾?おまえは攻城の準備をしていたのではないか?」
「それは兵糧攻めにて敵の戦意を削いでからです」
「ふむ。まだ不安材料があるか。敵の数か?」
「左様です。城の中にはまだ約3万の兵がおります。こちらは2万と少し。それでも負けるとは思いませんが、まともに戦えばこちらにも損害がでましょう」
「しかし、それではここでじっと待つことになるのか…」
「糧食は十分持ってまいりました。のんびりとまいりましょう」
周瑜はにっこりと笑った。

そのころ、皖城の李術は、城の一室でイライラしながらうろついていた。
「くそう…!援軍はまだか!」
包囲される前に曹操に遣いを出して援軍の要請をしていた。
「なんとしても救援がくるまで時間をかせがねば」
李術は城内に兵を3万ほど持っていた。
その兵を小隊に分け、城から小出しに孫権軍を挑発しては引き上げるといった策を取っていた。

「あれは援軍を待っているのではないか。時間稼ぎだろう。そんなものにつきあう必要はない」
程普はそう言ったが、周瑜は違った。
「いえ、わざと敵にのせられたふりをして敵に矢を撃たせるのです。そのうちに武器もつきるでしょう」
それに孫権が口を挟む。
「そうだ。それにその援軍が来ないとわかれば、奴らの士気は一気に失せるだろうな」
「そのときこそが勝機。攻城武器を用いて一気に城を抜きましょう」


そうして一月が過ぎた。
「どうやら曹操は動かない様子ですな。城内ではさぞ気を揉んでいることでしょう」
幕僚の一人が言った。
「あと一息だな。だれか、曹操は救援には来ないと教えてやれ」
孫権が言うと、韓当がその意を受け、幕を出て行った。

さらに20日が過ぎた。
「今日も小部隊が挑発に行っています。もう矢も尽きたようで、撃っても来なくなったと申しておりました」
そこへ、伝令兵が入ってきた。
「何、城壁から身を投げた者がいると?」
「は、どうやら女のようです」
「死んだのか」
「はい」
「気の毒にな…」呂範が言うと、孫権も頷いた。
「城内で何か異変が起こっているとみて間違いはないな」
周瑜はしばらく黙っていたが、急に席を立って伝令兵に何事かを伝えた。
伝令兵は頷いて幕を出て行った。
「何だ?」
孫権は周瑜を見て問うた。
「今しばらくお待ちください。すぐにわかります」
軍議のために集まっていた宿将たちも、何事かと周瑜を見つめた。
しばらくして、先ほどの伝令兵が戻ってきた。
「報告せよ」
周瑜がそう言うと、兵はその場に立ったまま報告した。
「先ほど城内から身を投げた女の腹を裂いて胃の腑の中を検めましたところ、腹の中には泥ばかりがつまっておりました」
「ふむ。やはりな。ごくろうだった」
孫権も呂範もぎょっとした表情になっていた。

「公瑾、おまえは何を命じたのだ…」
周瑜は孫権の方を見て微笑した。
「もしや、すでにもう城内には食糧がないのではないかと思いまして。女の腹の中を調べさせたのです。あの女は食い物がなく、泥を飲んで空腹を満たしていたのでしょう。そのような中でついに生きる気力を失い、身を投げたのだと思われます」
「…なんと」
涼しい顔をして平然と言うが、これが本当に女のものだろうか。
孫権にはますますわからなくなった。

「李術のことです、残り少ない城内の食糧をすべて集めようとするでしょう。だからあのように民は飢えている」
「殿、これは好機ですぞ!」程普、黄蓋らが口をそろえて言った。
「よし、一刻の猶予もならん。すぐに攻城の準備だ!」

城壁の最も低い部分から梯子をかけて登り、次々と孫軍の兵たちが城内に侵入する。
城の正面からは投石機で繰り出した大石が城壁にぶつかったり城壁を超えて中に落ちたりする。
急襲に備えのなかった皖城の兵たちは右往左往しながらも応戦していたが、侵入してきた兵たちが城門を開けるのに成功すると、孫権軍の騎馬が一気に城内になだれ込んで、もはや戦意を喪失したかのようであった。


攻城に成功して、たった一日で皖城は落ちた。
李術は捕まり、孫権の前に引きずり出された。
李術は命乞いをしたが、孫権は取り合わず、その場で斬り殺され、首を刎ねられた。
その首は城門にさらされた。
戦が終わった後は皖城を解放し、住民と兵を丹楊に移住させることにした。


(続)→