「おめえはを守っとけ」

北条の大殿がのちの風魔小太郎に命じた最初のお役目である。

大人たちのもみじ狩りという名の酒盛り会場からすこしはなれた場所で、小さい風魔忍の頭にぽんと手が乗った。
風魔の忍は無反応で、風魔の横の小さいは首を傾げた。
彼らの頭上には燃えるように赤いもみじがある。

「ったく、わかってんだかなあ」

風魔の大きな三白眼がちっとも動かないのを見て、氏康は口をへの字にした。
と、紋白蝶が通りかかり、は慣れない下駄で山道をふらふら追いかけた。崖に一直線である。
崖ポチャ寸前で氏康がを後ろから捕まえ、風魔の横に戻した。

「言ったそばからほっとくんじゃねえよ、ほれ」

氏康は紫の手と白い手をつながせると、つなぎめにポンと手を乗せた。

「よし」

満足げに遠ざかる。
小さい者どもはその場に立ち止まったまま、氏康が遠ざかっていくのを見つめていた。







夕方が近づき、もみじ狩りが帰り支度をはじめたころ、まず先代の風魔小太郎が二人を見つけた。
体が異様に大きく、紫の肌に奇妙な紋が刻まれている姿はいまの小太郎と同じであるが、老いている。
踏めばまだサクと音がする落ち葉のうえに、のちの小太郎とは寄り添って眠っていた。
よほど遊びつかれたと見える。

「やれやれ、こんなところにいやがった」

無言で見下ろしていた先代風魔に北条氏康が寄ってきた。お気に入りのキセルに火はない。ちょっと前にむこうで、山火事の火種になると奥様に怒られたからだ。

、風魔のなにがし、起きろ。もう帰ェるぞ」

二人ほぼ同時に起きて、目をこすり、顔を見合わせた。
目でうなずくや、二人手を結び合って走り出そうとしたのを先代風魔が無言で(には触らずに)引き剥がした。

「かまやしねえよ」

氏康は肩を揺すった。
先代風魔はやはり無言で、引きとめていた腕をはなした。
小さな三白眼は先代と氏康をしばらくじっと見ていたが、の声に「行こう」とうながされ、落ち葉の間に消えていった。







***



鉄鞭と篭手が甲高く反発した。

「くおらぁ!防ぐんじゃないわよ!」
「・・・」
「おとなしく負けを認めなさいってばあっ」
「・・・」
「無視とか!?なめんじゃないってのー!」

ギギギと歯を食いしばって鉄鞭が篭手を弾き返した。
一方は北条の支城、忍城成田氏のお家にはいった若き甲斐姫である。もう一方は風魔忍軍、異形の頭領、風魔小太郎である。

梅雨の晴れ間に、小田原城の手入れされた木をどっかどっか切り倒しながら本気でやりあって、甲斐姫はいたく楽しげである。風魔の表情は変わらないからわかりにくいが、あの小太郎が鍛錬に付き合っているのだからつまらなくはないのだろう。
家臣団は庭がめちゃめちゃにされていく様子を、遠くから眺めるばかりだ。
風魔が怖くて誰ひとり手も足も声も出せないのである。

ここにひとりとおりかかった。

「なにかありましたか」
「姫様!」

青ざめていた各々、きゅうに姿勢を正してうやうやしく礼をした。
気さくに声をかけられたが、大殿、北条氏康の孫姫である。
この姫は相手が家臣だろうが大殿だろうが子供だろうが風魔だろうが、同じふうに声をかける。氏康はこれを美徳と褒め気に入っており、家臣たちにはちょっと自重してほしいと思われていた。

「こちらから大きな音がし」

どしいんと音がした。
尋ねるよりもはや目て確かめるほうがはやい。
庭師がきれいにそろえたばかりの木々が、一点だけ地盤が沈下したように沈んでいって砂気振りを巻き上げている。それがなだれのように何回か続いた。

「・・・」

は喜怒哀楽のどれでもない表情で、木を倒して遊ぶ二人に目をやっている。家臣たちにはそれが、怒ったところなどお目にかかったことのない姫君が、庭の破壊を静かに怒ったように映った。

「も、申し訳ございません姫様」

思わず謝った若い家臣に、は小さく微笑んだ。

「謝らずともよい。そなたが切ったわけではないのですから」
「は、はあ」
「だれも怪我をしていませんか」
「え、ええ」
「ならばよかった」

微笑まれかばわれ気遣われて、若き家臣はぽうっと頬を赤らめた。

彼の尻を誰かがつねった。
「よせ、死ぬぞ」とに聞こえぬように耳打ちする。、
家臣たちにはちょっと自重してほしいと思われている姫の悪い癖がこれである。
この姫君は年頃の男にも同じに接するから、気があるものと勘違いされた末、どこぞへ連れ込まれてほにゃらら未遂、なんてことが何度か起きているのである。そこですでに問題であるが、一番の問題は、未遂を犯した男はもれなく犯行の翌日に小田原城天守閣から素っ裸で逆さにつるされることだ。そんな芸当ができるのは風魔だけだと皆知っていても、つるされた側にも負い目があるために、風魔が追求されたことはない。

「本丸の庭でこのような惨状を許し、お詫びのしようもござりませぬ」
「しかし甲斐姫様はともかく、口出しした途端風魔忍めに殺されるかもしれないかと思うと」
恐ろしや
忌まわしや
おぞましや
眉をひそめて小声で言い合っていた家臣たちだったが、ふと、姫がこれにうんともすんとも同調しないことに気づいた。は木の倒れている方向を見ている。
喜怒哀楽どれでもないうつくしい横顔から怒を見つけようと、家臣たちがじっと覗っていると

「小太郎」

とおる声だが到底届く距離ではない。
と思いきや、木の向こうで風魔小太郎はピタと動きを止めた。
そして消えた。

「逃げるなー!」と甲斐姫が声を張り上げる。
まさに鶴の一声。
縁側の家臣団はおお、と声をあげて小さな拍手を姫君に送った。
姫は長いまつげをわずかに伏せて微笑んだようにも、苦笑したようにも見えた。
それからは何事もなかったかのように城の奥へと消えていった。






***



夜が来た。
かわずの鳴き声が響くほどの静かな夜である。
は侍女を下がらせると、御殿の縁側で小指ほどの小さな笛に息を吹き込んだ。

音はない。

かわずの鳴き声が響く静かな夜が続いている。
音の出ないその笛に、三度目長くほそい息を吹き込んでいると



「うるさい」

風魔小太郎がやって来た。
廊下の天井を歩いてやって来た。
どうやってか逆さまに。

は犬笛をふところにしまって怒るでもなく静かに笑った。
一方、風魔は凶悪な顔で腕組みしている。まだ逆さだ。

「もうすぐ水神様の祠へ巡礼があります。おまえも来てくれるだろうか」
「いやだ」
「どうして」
「つまらぬ」
「・・・山賊が出ると」
「武士の役目」
「・・・」
「下らぬことで呼ぶな」

ふっと立ち消えた。

「っ小太郎!」

焦りが声に出て、上ずった調子になってしまった。
ややあって、ふっと立ち消えた場所にふっと現れた。
こんどは逆さでない。

呼びとめたから現れたのに、姿を見た途端、は胸に灰色の息が詰まったような苦しさを感じた。

「もう一つ用があります」

は居心地悪そうに視線を手元へはずした。
風魔は黙って、を冷たく見ている。

「髪型を変えてみようと思っ、て」
「・・・」
「こういうふうに髪をかきあげてみるのはどうだろうか。・・・似合うか」
「・・・」
「いいえ、違う。似合わぬな。そう、そうではなくて」

無反応な小太郎を見て、頭上へまとめてかきあげていた髪をいそいそ下ろした。
珍しい、というよりは今まで見たことがないくらいに早口で、氏康あたりが見たらたまげるほど少女らしい仕草であった。

いつもなら律して平然と在れる己が身を、挙動不審にしているその理由をは理解していた。
小太郎と対等にあそぶ甲斐の方を妬んだのである。
自分の醜さ、あざとさにあきれながらも、は衝動を制しきれなかった。

「では、その、裾をひきあげてみようかと思う。このくらいに」

は襦袢ごと着物の裾をたくし上げた。
膝下あたりまで持ち上げて一度ちらと小太郎の表情を確かめる。
風魔小太郎は笑わない。

「・・・似合うだろうか?」

風魔小太郎は答えない。
しかしむき出しになったの脚を見ている。
絵巻や侍女達のはなしによれば、男は 女の生の肌を好むという。風魔小太郎もご多聞に漏れずそういったものが好きなのであれば、見てくれるのであれば、足を出すくらい、恥ずかしくもなんともない。
は自分に言い聞かせた。

「いえ、いま少し上まであげようかと」

膝が見えるところまで引き上げ、さらにふとももが



ドドッ

2つの風魔手裏剣がの横を一閃した。
背後左右の襖はそれぞれ二つに折れ、奥に向かって倒れた。
膝からかくんと力が抜けて、はその場に座り込む。
気づくのが遅れたが、の袖には裂け目があり、そこから見えた腕に笹で斬ったような浅い直線のキズができていた。
一拍遅れて玉の血がぷつ、ぷつりとふくれる。

はきゅうに今までの色々が恥ずかしくなって「無礼者」という言葉さえ出てこない。

裾を放して行き場のない手は、思考もままならない状態で倒れた襖から手裏剣を引き抜こうと思い立つ。
板の間に膝を進め、手裏剣に手を伸ばすと寸前で小太郎の手が割り込んだ。

近い

いつのまにか振り返る隙間もないほど近い。
背に小太郎の胸が密着している。
小太郎は手を伸ばし、のかわりに手裏剣を引き抜いた。
このうえ、
の耳もとに小太郎の唇が近づいた。
あまやかな期待に体が粟立つ。

大きな手が
後ろから
の左胸を
むんず
と掴んだ。

はたまらず声を発した。

「こた」
「下らぬことで呼べば次は殺す」

手裏剣がの喉に突きつけられていた。
パキと音がした。
ふところに入れていたはずの犬笛がへし折られたのである。
の顔はかっと羞恥に染まった。
振りかえれない。

風魔小太郎は蝋燭の火を吹き消すように消えうせた。
期待もまた。






***



水神の祠は蛇の三つ鱗を家紋とする北条家に縁深い。
毎年梅雨に大行列が小田原を発し、川と平行してさかのぼり水源の祠を目指すならいである。のだが、往復で三日もかかる行軍であるうえ、たいてい雨だし、雨で足場は緩いし、渓谷の岩を削って作った危ない道を通らなくちゃあいけないし、じめじめするしで、正直みんなめんどくさい。

北条氏康はこんな時ばかり年寄りぶって巡礼を息子達に任せると、自分は小田原城で優雅に留守番をしていた。
雨に濡れる盆栽を眺めては「なかなかだ」と自分のうでにうなる。

そこへ血相かいて走ってきたのは家老である。

「一大事でございます!」

ほとんど泣いているような声で、巡礼の行列が山賊に襲われ、姫を乗せた駕籠が谷底へ落ちたことを伝えた。



氏康は飛び上がって裸足で庭に躍り出た。
「風魔!」と天へ叫んだが、返るのは雨音ばかり。

「あの、ド阿呆めがっ!!」



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