ド阿呆めがっ!!は目を覚ました。

ピッチャンと額につめたい水が一滴落ちたからだ。
暗い天井
ちがう
岩だ。
響く声は

「冷たかったか」

岩窟の天井から落ちた水滴を拭ったのはだった。
ずぶ濡れである。
髪の水滴が小太郎に落ちないように手でよけながら、着物をじっとり濡らしたが小太郎を見下ろしていた。
小太郎は薄暗い岩窟の奥に横たわっていることを把握した。
どうしてここにいるのだったか
体を起こそうとすると痛みと違和感があった。

「おとなしくしていなさい」
「・・・」

起きかけた小太郎の肩をがそっと押し戻した。
そして微笑う。

「心配はいらぬ。じきおじいさまが来てくださろう」

ああ、
崖から落ちた。
思い出した。



雨のなか、山賊を避けてわざわざ迂回した巡礼一行は、迂回路でまんまと襲われた。
担ぎ手を失った駕籠は一度崖にぶつかって、先にを宙空に放り出すと、ぐらり傾いて駕籠も後を追うように真っ逆さまに落ちていった。
そのとき恐ろしく速い黒影も谷底へ飛び込んで行ったのだが、目にとらえられた者は誰一人いなかった。

自らも落下しながら、鉄扉のごとき水面と、追いかけて落ちてきた駕籠からどうやって二人分の命を守ったのだったか、小太郎自身もよく覚えていない。
水に落ちたあとは死に物狂いで川べりに這い上がり、目を閉じているの首に触った。
生きているか死んでいるか、手は水にぶつかった衝撃で麻痺し、温度も鼓動も読取れなかった。
しかし揺すると水を吐いた。
息をはじめたのを確かめ、有無も聞かず自然窟に放り込んだ。
それで、・・・それきり小太郎は覚えていない。



雨は谷に落ちたときよりいっそう強まって続いていることは耳で知った。
はくすと笑う。

「ついてこぬと言ったのに」
「・・・」
「だが、おまえがいなかったらわたくしは死んでいました。おかげでケガというケガもない。ありがとう。おじいさまもこの働きをきっと褒めてくださろう」
「・・・」
「さあ、傷を看てしんぜる」
「いらぬ」

しゃべると頬の傷が開いたのが、こぼれた血の熱さでわかった。
あらゆる刺激とを無視して体を起こす。
びしょ濡れの羽織がかかっていた。北条の家紋がある。
世間知らずのこの女は、ぬれた羽織で保温ができると思ったのだろう。

「外は雨で動けません。ゆっくり寝ていて」
「・・・」

無駄に騒がれるよりはましだが、完全に生き残れるものとして腰を落ち着けるのは楽観が過ぎる。
小太郎が運んだこの岩窟は、川の水位があがればあっという間に水がなだれ込む位置にある。
羽織を引っぺがそうと掴むと、の手がそれをおさえた。

「おやめ」
「なにをする」
「・・・」

は口をつぐんで、しかし羽織を押さえる手は放さなかった。

「はなせ」
「・・・右足の方向が違っています」
「見慣れている」
「わたくしはおまえの足が曲がっているところを今までに見たことがありません」
「なぜ見せねばならぬ」

の手をはらい、羽織をめくる。
右足首と右ひざは折れた、左わき腹はえぐれているが内臓が出ていないだけましであろう。左腕は出血量のわりに動く。肩当てが食い込んだだけか。右腕は動かぬ。あばらは・・・あとは・・・
負傷の程度を次々見定めていく。

(まず、動けぬか)

ここまでガタガタになっておいて、五体が揃っていることこそ奇跡に近い。
検分のあいだ口をはさまなかったに目をやると、なんとも平気なふうで

「これはどうすればよいの?」

と小太郎のへんな向きになった足を指差して、首をかしげたりしている。
あまりにも普通だ。
善と良ばかり映してきた目には、小太郎の怪我の深刻さも“赤が綺麗”くらいの感慨で済まされているのかもしれない。
あるいは、もしやこのはもう死んでいるのではなかろうか。

「これはどうすれば治るのですか」

返事をしないのは聞き漏らしたからと思ったらしく、はもう一度繰り返した。
その白い頬を水滴がつつつとくだる。
あごをつたって水はの胸元にすべりこむ。

「・・・脱げ」
「すけべ」
「死にたくば着ていろ」
「濡れたものを着ていると死ぬのですか」
「そうだ」
「そうでありましたか。それをすけべなどと、許しておくれ。では」

と小太郎の脚袢に手をかけたので、かろうじて動く左手でひきとめた。

「なにをする」

は微笑む。

「ちょっとくらい小さくても笑ったりしませんよ」
「死にたいか」
「おまえが死にそうな顔をしているから、冗談を言って元気づけようとしたのです」

上半身を起こしていた小太郎の肩を再び押し戻すと、は立ち上がった。手の温度から、の体温はまだ下がっていないことを確認した。
背を向けたが言う。

「目をつむっておきなさい」
「貧しい肉ではもよおさぬ」
「・・・」

たしなめられることを予想したというのに、なにも返らなかった。
しかも脱がない。

「なぜ脱がぬ」
「・・・」

貧困な体つきをけなされたことに衝撃をうけるような女だったろうか。
そう思って眺めていると、くるっとが振り返った。

「とれない」

水を吸った絹の帯締めがにっちもさっちもいかずに停止していただけらしい。

「あと、目をつむりなさい」

拍子抜けした。



「甲斐の方のようにありたかった」

小太郎の爪を借りて帯を切りながらがぽそりと言ったその意味が、小太郎にはわからなかった。
小太郎の怪訝な顔に気づいて笑う。

「そうしたらおまえを担いでいけたかしらということ」

嘘のような気がした。






***



雨は続く。
助けは来ない。
水かさは増えていく。
洞窟の温度はさがり、外は灰色を濃くした。
岩窟の口の形に見える景色が昼なのか夕暮れなのか、それすら曖昧だ。

満身創痍の風魔の術ではの羽織と襦袢を乾かすので限界であった。
普通の人間であれば痛みで失神し、水に沈んでとっくに死んでいる怪我である。
しかし動けないにせよ、風魔には悪態を続けられる程度の余裕が残されていた。

駕籠の破片らしい角材を添え木にして、は小太郎の足を固定する作業に取り掛かっている。
風魔は偉そうに寝そべったまま文句を垂れた。

「ゆるすぎる」
「わがままを言うでない。これで力いっぱいです」

は笑った。
その顔を風魔は穴があくほど見た。

「・・・」
「なに?」

おもむろにの左腕を引っ張る。

「んっ!」

は身を縮めた。
掴んだ部分まで袖をまくると、明らかに熱をもって腫れている。
”おかげでケガというケガもない”
バレたことを観念して、「おそろいじゃ」などと苦笑したから、患部をぎゅむと掴んで身もだえさせた。






***



できることはし終わって、止まない雨を見つめながらじっと助けを待つ時間がはじまった。
は雨がやんだら助けを呼びに行くと言ったが、小太郎が一蹴した。城育ちのが、この谷底から、下駄も無い状態で河川敷やぬかるんだ獣道を登っていけるとは思えない。
朝になれば、これを溺愛する氏康あたりが「この高さから落ちて助かるはずがない」という家臣の進言も聞かずに捜索をはじめるだろう。
のほうは内臓が破れたわけでも失血したわけでもなし、増水にだけ気をつけていればよいものを浅はかな。
あと、膝枕などせぬでよいものを・・・。

「小太郎、さむくはないか」

北条家三つ鱗の紋付羽織はあいかわらず小太郎にかけられていた。
の襦袢の袖は襟巻きのように小太郎の首にのせられている。
小太郎の頭と首には薄い襦袢ごしにひと肌の体温が伝わっていた。

「ぬるい」
「そう」

はふふ、と語尾で笑った。

「なにを笑う」
「ここはじめじめしていて、三の丸の岩牢を思い出したのです」

が楽しげに言ったその記憶は、小太郎にとっては悪夢であった。



その昔、
小太郎の身長が今の二分の一だった頃に、風魔小太郎を襲名すると見込まれていたおのこが、小田原城の門番の腕をもぎとるという事件が起こった。
罰として100回棒で打たれたうえ、小太郎は明かりの無い地下牢に放り込まれた。
かび臭く、じめじめして、息苦しい。
土がむき出しの劣悪な牢屋である。

棒打ちで失神して動きもしなかったのに、格子に鍵がかけられ、地下牢の蓋が閉められた途端にむくりと起き上がった。
仰向けに寝そべって組んだ足をぷらぷら揺らし笑う。

(ちょろいものだ)

血と糞尿を垂れ流してここで寝ていればそれが罰だというのだから。
風魔忍に、闇は恐怖ではない。
閉じ込められる期間はふた月、み月が限度であろう。風魔にとっての限度ではなく、北条にとっての限度だ。成り上がりで敵の多い北条には汚い仕事をする一派が必要なのだ。
さて、出たら次はどんな遊びをしてやろうか。
クク、と喉で笑っていると、ガコンと音がして地下牢に光がさした。
小太郎は慌てて失神しているふりをした。

「姫様、お足元にお気をつけて」
「はい」

聞いた声にぎょっとした。
はひとり、土がむき出しの地下へ降りてきて、小太郎の向かいにあるもう一方の牢屋におさまった。
そしてを残し、地下牢の蓋は再び閉ざされる。

「・・・なにをしている」
「起きていたのですか」
「なにをしているのかと聞いている」
「とがめている」
「なんだと」
「おまえの罪をとがめている」
「意味が分からぬ」
「闇はおまえをとがめない」
「・・・」
「ともに罰を受けよと、おじいさまからのご命令であり、わたくしの意思でもあります」

”血と糞尿を垂れ流してここで寝ていればそれが罰”
”閉じ込められる期間はふた月、み月”

ついさっき思い浮かべた愉悦が憤怒となってぶり返した。
小太郎はかっと目を剥き鉄格子に掴みかかった。

「出て行け!」
「・・・」
「死ね!さもなくば生きたまま生皮をはがして八つ裂きに殺してくれるっ」
「・・・」
「消えう゛ぜろ゛!う゛ぁあああ゛あ゛あ゛あ゛あああっ!!」

風魔小太郎は狂った鴉のように喚き散らし、格子のうちを駆けずり回った。

「出せ!ここからわれを出せ!ぐがァあ゛あ゛ああっ!!」

格子にひたいを叩きつけ、壁を走り、土壁や天井に激突し続けた。
やがて本当に気を失った。

どれほど経ったかわからない暗闇のなか、血だらけで目を覚ます。
闇をものともしない目は、向こうの牢屋のすみでうずくまっているをはっきりと見つけた。
悪夢であれという切望が絶望に豹変する。

罪人への定めどおり、一日一度の食事以外、地下牢の蓋がひらくことはなかった。
やがては体調をくずし岩牢から出された。
日数にしてたった五日間のことであったが、風魔にはその時が一ヶ月とも一年とも感じられていた。
それから二度と、風魔は門番の腕をもぎとることをしなかった。



「・・・不愉快だ」

思い出の二倍の大きさになった小太郎が本気で睨むと、は「すまない」と微笑んだ。

「思えば、あの頃からおまえはわたくしを遠ざけるようになった」

関東北条の姫は苦笑した。。
あたりまえだ、と風魔の頭領は口中でごちる。

「けれどおまえはいつもこうして助けてくれる。だから、間違えそうになる。小太郎、わたくしは間違えてよいの」
「黙れ。・・・おまえの話はつまらぬ」
「そうか」

退屈ならばおやすみと、小太郎のひたいを撫でようとした手を、左手ではらった。
だが、手は動いたものの制御がきかずに空振りして岩に落ちた。
視界が歪む。
急激な変調であった。

「小太郎、どうしました」
「・・・く、るな」

気安く触るな
そう言おうとした舌さえまわらない。








***



ほどなくして、外は完全な夜を迎えた。
(血を失いすぎたか)
風を作れても、自らの失った血を戻す術をしらない。
月の光も星の光も分厚い雨雲の向こうに覆い隠されて、洞窟は外よりいっそう深い闇に包まれていた。

視界を奪われると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされる。
川のそばは梅雨だというのに凍えるほどの寒さであった。

「震えている。寒いのですか」

は手探りで羽織を掴み、小太郎の首もとまでもちあげた。
その手こそ氷のように冷かったが、風魔小太郎は悪態をつく余裕を失っていた。

「心配はいりません」

なにを根拠に

「おいで」

左手を勝手に持ち上げられて、のふとももにぴたりとはさまれた。







***



強烈な眠気で何度か意識の明滅を繰りかえした。
頭を流れる血の音で雨の音が聞こえない。
目を開けたはずが、視界は白くぼやけた。
もはや首より下は動かぬ
次に意識が沈めば

「見えますか、夜が明けてきた」

はまだ膝枕をしていた。
膝の下は岩だというのに一晩中こうしていたのだろうか。

「・・・」

人間の、声

「もうすこし辛抱しておくれ」

はまだ気づいていないが、風魔の耳には聞こえている。
(これを探しに来た者どもだ)
氏康め、夜明けも待てずにやって来た。

夜明けを喜んだ笑顔が風魔に向けられ、笑顔は凍った。
水晶に似た目は見開かれ、風魔にそそがれて、そそがれて、冷えた指が風魔の頬に恐る恐る触れた。
見慣れた風魔の不気味な肌色が血を失って別の色になっていることに、朝日がさしてはじめて気づいたのである。

「こた、ろう?」

われはねむる

そう声にできたかどうか、さだかではない。
やわらかいふとももに沈むように意識が遠ざかった。

ひめぇー!
ひめさまあ!!
!どこだ!

ゴチン!
やわらかくてあたたかいふとももが忽然と消えた。
岩に頭突きし、風魔はせっかく気持ちよく失いかけた意識を引き戻される。
は小太郎そっちのけでもう洞窟の外に飛び出していた。

「おじいさま、たすけて!」

のあんなに大きな声ははじめて聞いた。

(じじいに負けた・・・おのれ)



だが、これでいい。
じゅうぶんだ。



「小太郎がしんでしまう!小太郎がしんでしまう!いやじゃ、小太郎が死ぬならも死ぬ!」

わあわあと子供のように泣く幻をさいごに聞いて、小太郎は今度こそ意識を手放した。



<<  >>