佐和のお山は夏の盛り
お城の殿様にはいかにも美しい奥方様がおいでになる。
まだ十代半ばでお殿様と八つ離れた幼な妻である。
これがそう、女に慣れた島左近でもたじたじになるほどの美しい人なのである。
人になじみやすい亡国の人と、人となじみにくい佐和山の主は一旦は許婚でなくなったが、のちに再会、
晴れて明日、祝言。

婿殿は紋付袴の衣装合わせでもしているかと思えば、「左近、丁度よいところに来た」とこちらも見もせずに言って、あらためるべき書面をいくらか寄越した。
小田原の役から二ヶ月も経ったというのに、祝言の前日は思えぬほどの仕事ぶり。
左近はやれやれと笑った。
左近は渡されたものを紐解いて読み始める。
三成は忙しく筆を動かしている。
やれ同盟、
やれ凶作、
やれ誓書、
やれ陳情、
やれ派閥、
仕事は折り重なって三成の卓の横に山を作っていた。
「祝言の前日だとうのに、難儀なご身分であらせられますな」
「無駄口はいらぬ」
ぴしゃりと返されるが左近も慣れたもの、滑稽に肩をすくめるにとどまる。
三成は黙々と筆を運ぶ。
硯へ水をたらす。
墨を磨る。
筆を執る。
動かす。
左近はそれを横目でちらりと見てから言う。

「姫様のお加減が芳しくないようですな」

ひた、と筆が止まってすぐ動き出す。
「話しかけるな」
「失礼。ただ朝にご機嫌を伺いに参りましたら、ずいぶん悪そうで、しかも明日の婚儀に出られないのではないかと心配に思うあまり余計真っ青でおかわいそうでしたなあ」
「悪ければ内々の婚儀だ、日をずらせばよい。なぜ言わぬ」
筆は止まっている。
「左近の一存ではなんとも」
「ふん」
三成は左近をじいと睨んで席をたった。

「殿どちらへ」

わかりきっているのに左近が問いかけるとバシン!と障子が力をこめて閉じられた。
ドスドスと音を立てて遠ざかっていく、その足音の方向に左近は噴き出して笑った。






日は祝言の数ヶ月あとのことまで繰り上がり、

秀吉の主催する野立てに、ねねのすすめもあって石田三成に伴われたその奥方も姿を見せた。
歩くのが不自由らしく、三成に手をとられてはにかんでいた。
は身体の傷跡のことを隠し通そうとしていたが、到底傍仕えの女たちや三成に隠し通せるものではなかった。
徳川秀忠の仕打ちは公にされることはなかった。の名誉のためにも事実を知る者たちは口をつぐんだ。
秀忠への仕置きであるが、彼の恐れる正室、小督の方にねねが「浮気していたようですよ」と告げ口して、駿府中追い掛け回されたあとにちょん切られたとかつぶされたとか。
「小田原で、その風魔に攫われたあとは乱暴をされなかったのか」
「小田原では優しい犬たちと遊んでいました」
「犬?」
「やさしい大きな犬たちです」
兎も角、不思議なことにひどいことはされなかったという。
さて、晴天の心地よい野立てでなんだか居心地悪そうに目を伏せてるのは家康ばかりである。
人質として三成の恋人を遣った秀吉もねねにこっぴどく文句を言われたらしく、”殿”などとへりくだって呼んだ。
野立てから少し離れた木陰に本多忠勝が控えていた。
「半蔵、この真昼間からその格好で居ては目立つぞ」
装束姿の半蔵が木の上にいるのを見て、忠勝は笑った。
晴天の下、半蔵が木から下りてきたときにはすでに装束からそこらの近衛たちとかわらぬ装いになっていた。
半蔵の見た先、野立ての赤い敷布の上にあの日に会った人の姿がある。
石田治部少輔の傍らで微笑っている。
「半蔵、今おぬし笑ったか」
「否」
「治部少輔の奥方様を見ていなかったか」
「滅」
「お美しい方であるな」
「む・・・」
「鍛錬が足りぬぞ、半蔵」







眠っているは布団に顔をうずめていた。布団の横に水を張った桶がある。
三成が傍らに膝をついて頬にかかる髪をすくうと睫が動いた。
「これは、三成さま」
声だけだ。身体は横たわったまま、顔を布団にうずめたまま。持ち上がりきらない瞼がいかにも病人の力ない瞼である。
「汗をかいている」
の頬に張り付く髪を見て三成が云う。
の目は閉じてしまった。指も力なく握られ、額から滑り落ちたらしい手ぬぐいが布団を濡らしていた。
三成自らそれを水に濡らしてぎゅっと絞った。
水音に気づいての瞼がまた少し上がった。
「そのまま」
三成は言い置いて、の頬の汗と首を拭いてやった。ひんやりとした感覚にはふうと口から細く息を吐いた。
熱い吐息は三成の手首の辺りに触れた。
それがなんとなく色っぽく思えて、唇に指を寄せた。
「ありがとうぞんじます」
声にはっとして三成は雑念を消し去る。
「明日までには治ります」
「無茶をおっしゃるな」
「いいえ、無茶ではありません」
「内内の婚儀なれば、日取りを改めて誰も困りません」
「いやです、どうか明日」
「・・・わかりました、では明日」
「明日」
「わかっているよ」
三成は瞼を撫でて、おやすみと云った。
























それから幾年月か過ぎて、佐和のお山のお殿様が徳川に相対し、天下を争う何十年も前のことでございます。
佐和のお山が暖かな春を迎えた頃に若く美しい奥様は美しいままに花の豊かな場所に眠りました。
色とりどりの花、大きな花、小さな花。植えたのはお城のお殿様です。
ある日のこと花園のような奥様の眠る場所に、大きな赤毛の狼がやってきました。
狼は土に鼻を何度か寄せてから、うろうろと回って、やがて土の上に伏せました。
伏せて
春風が吹いて
赤毛だけがあたり一面の花と同じように揺れて もうそれきり





もうそれきり


佐和のお山の暖かな春の日のことでございます。






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