小田原、開城。
北条氏政、氏直の首級が豊臣の本陣にもたらされた。
一夜城、石垣山で豊臣秀吉は暑さに扇で顔を仰ぎながら献上された首を検めた。
しばらく無言で眺めてから、きゅっと笑った。

「ひさしいの、ご老体」

何度目かの勝ち鬨。
徳川家康もその場にあって、秀吉に酒を勧めたりなどして喜ばせている。
さらには何事か耳打ちなどする。
「なに」と秀吉は興味深そうに耳を寄せる。
「その話、もっと詳しく話せ」
「は、なんでも小田原の西の米蔵にかくまわれていたそうでございます」
「数は」
「ざっと八十人」
「よりどりみどりではないか!」
秀吉はぴょいと椅子から跳ね上がった。
「は、よりどりみどりでございます」

「なにがよりどりみどりなんだい、お前様」

秀吉は再び、びく!と椅子から跳ね上がった。
頭上の木の葉の中からねねがひょっこり顔を出したのである。
くるっと一回転して夫の前に着地すると、おきまりの仁王立ちを決めた。
にっこり笑う。

「耳打ちなんかしちゃって随分仲良しそうだねえ」
「ねね!違うのだ、これはの、北条の財宝がよりどりみどりという意味での。なあ徳川殿」
「は、秀吉様」
秀吉と家康は肩など組んで何度もうなずいて見せた。頬が引きつる。
「あらそうだったのかい。あたしったら勘違いしちゃったわ」
「ねねはそそっかしいからのお」
「てっきり小田原の西の米蔵にざっと80人の北条家の女たちがかくまわれていてよりどりみどりなのかと思っちゃった」
ねねはこつん、と自分の頭を小突いて見せた。
かわいい仕草に秀吉は青ざめる。
「ということは、その80人含め女子供の采配はあたしに任せてもらえるってことかしらね」
「そ、そういうことです」
「あいよ!じゃ、さっそくみんなに通達、小田原の女子供に手を出した子はおしおきだからね!」






戦の終わり
石田三成はひぐらしがわめき立てる夕暮れにふっと息を吐き出した。

小田原攻めとの一環として三成は関東の小城、忍城を攻めていた。
秀吉の命により水攻めを以って忍城を開かんとしていた三成であったが、地の利は無く女子供しか残らぬこの小さな城は小田原が落ちてなお門戸を暴かれることはなかった。小田原で敗れた城主、成田氏が戻ってようやく開城の運びとなったのであるが・・・。
地の利がないことをわかっていながら秀吉の命に従った。
秀吉様第一のそのお志、それがしはあまり好きではありませんよと左近は心の中で苦く呟いた。
戦の終わりにとりあえず、息をついてそれからすぐに顔を伏せて悔しがるのだと左近は予想していたのだが、なんともなんとも。
うつむいて手のひらで扇を握ったきり瞬きもしない。
長いまつげを伏せて、女にしたい美しさ。
許婚を徳川にやって以来、この方の口数は殊更に減った。左近にはそう思われた。


忍城の検めも滞りなく、三成の軍は整然と豊臣の本陣へと帰参した。
北条方の小城は、小田原城含めすべて豊臣軍の手に墜ちた。ただひとつ三成の攻めた忍城を除いては。
地の利の無い水攻めを命令したのは秀吉であり、
それに反対したのは三成であり、
反対しきれずに水攻めを行ったのも三成である
報告を終えて幕を出てきた三成に左近は尋ねた。

「いかがでした、こってりしぼられましたか」
「そうだな」

叱責は無く、ほめる言葉も無く、戦のあとの面倒な仕事をたっぷりと命じられたそうである。
三成に償う道を与えたのはさすがに人心掌握を得意とする秀吉のやりそうなことである。
北条の財産の分配、諸将への報奨、大軍の駐留にかかった費用の精算。
三成は没頭するだろう。
左近はそれが嬉しくない。
ずっと前から嬉しくない。
好きな女を取り上げられて、殺しやすい人質と呼ばれて徳川に放り投げられてそれで文句ひとつ言わずに秀吉の足元に額を寄せるのが、気に入らない。

「戦が終わったというのに、忙しくなりますな」
「当たり前だ。戦の最中などより戦の前後こそが肝要」
「まことにおっしゃるとおり」

仕事に没頭することは悪いことではなかろうと左近は思うのだが、急がしさを言い訳に色々の考え事を忘れようとしている。その姿勢がたまらなくかあいらしく、たまらなく嫌だった。


三成含め、事後処理を担う官僚は小田原城内の一室をとって、情報収集と諸将への指示や交渉にあたった。
常陸の佐竹氏、奥州の伊達氏も一堂に集合しているこの機を交渉ごとに使わない手はない。
主君が忙しく頭と手を動かしている横で、左近は本陣からの伝令を受けた。

「治部殿への伝言を承ってまいりました」
本陣から来た、北政所の遣いであった。
「殿、おねね様の遣いが参っておりますよ」
「手を放せぬ、代わりに受けよ」
三成ら官僚の前に並ぶ列は延々向こうの廊下まで続いている。
何か聞いては書きとめ、印を押しては渡し、渡されては検分し。
「は。というわけで、承りましょう」
左近は向き直り、滑稽に肩をすくめて見せた。
遣いは各地の官僚の集まる場所での公言は憚られるらしく、左近に耳打ちをした。


報せはごく短く、奇妙なものだった。


という女子が南東の倉で見つかり申した、と。

「・・・聞き間違ったと思う。いま一度言ってくれ」

という女子が南東の倉で見つかり申した

同じ言葉を、はっきりと伝えた。






左近は顔を上げ、視線を板の間の上で列を成す色々の家紋へやった。
三つ葉の葵紋がはいった着物の男たちも数人ある。
その人は駿府に
徳川に
「左近、大事か」
三成の声に左近は弾かれた。
「どうした」
目の前には三つ葉の葵紋、何ゆえに、姫君に何をした。
「・・・姫様と同じ名の娘子がいるそうです」
名を隠したが、三成にはその呼び名のほうがすんなりと耳に入る。怪訝な顔をする前に驚愕が石田三成の身体を支配した。
三成の目はおよいだ。とん、と左近はその背を叩く。
「行きますか?」
三成は逡巡し、視線は宙をうろついてから手元へと落ちた。
唇の端からこぼすようにぽつりと言った。声など震えて。

「おまえに任せる」

左近はため息をついて席を立った。
諸官僚の前で家臣が主君をぐうで殴っては事だから。






ねねは三成の代わりに左近がくると、甲高い声で叱った。
「なんで三成が来ないの!」
あたしが遣いを出したのだから見誤っているはずがないでしょう、と。
よく風の通る湯本の屋敷で左近はぺこりと頭を下げた。
ねねは腰に手をあてて、左近に正座させて延々お説教・・・とはならなかった。

「狸よりも先に三成に報せているのに」
表情はそれほど明るくはない。あのおねね様が落ち込んでおられる、左近は少し驚いた。
「ひめ・・・様はどちらに」
「隣だよ。おいで」
手招きして、ねねは隣の部屋へ続く襖を開いた。
布団がしいてあって、
「あれ?」
布団がしいてあるだけのもぬけのからだ。
「やだ、今までずっと寝てたんだよ。どこに行っちゃったのかしら」
ねねは布団の下や天井板の上を探したが、忍者ではないのだからそんなところには隠れない。
左近は庭を望む障子をあけた。保護された女たちだろうか、心細げな美しい着物の女たちが広い庭の一角に集まっていた。
野立て用の赤い敷布に座っているから、これから茶会でも催すのではないかとも見える。
左近を見るとなぜか小さい悲鳴があがったり、袖で口を隠したりした。
「北条の奥様たちだよ、男どもが悪さしないように集めたのさ」
ヒグラシの鳴く夕暮れが目にまぶしく、左近は目を細めて奥方の一団にその人が居ないかと見渡した。
「いないねえ」
見渡す野立てのその向こうにある防砂林。
視線をずいぶん右へ移したところで左近は顔を止めた。
左近の視線の先を追ったねねはほっと肩をおろした。木の幹に寄り添う姿は、ああ。
「困った子だねえ」







夕刻過ぎても仕事はすまなかった。それどころか増える一方である。
ヒグラシが夏の音を鳴いている。夏の夕方の音だ。頭が混乱するのは、暑さのせいではない。

「殿」

左近の声に意識は覚醒する、眩暈がある。
震える。
全身の毛穴がひらくのを感じた。
寒気さえするのだ。
そんなはずはない。
淡い期待が破られるのなど日々の夢だけで充分だ。
汗が冷えて熱でも出したのか。
三成は首を横に振った。
「この目で見てまいりました」
左近は優しい目で笑ってうなずいた。
「殿を待っておいでですよ」
筆を止めて、目の前で三成の印を待っている年若い官僚は何事かと左近と三成を見比べていた。
「さ、お早く。ここは左近が」
「左近」
左近が掴んだ三成の腕は振り払われた。
およいで、焦って、躊躇って、うろたえる三成は首を横に振った。
「左近、嘘を言うな」
左近は三成の腕から手を放して、瞬きした。
そして、突然に
「・・・ご無礼」
と言い置くと、三成の胸倉を掴み上げた。

「ぐだぐだ言ってねえで男ならさっさと行かねえかっ!」

大喝に目を丸くしたのは三成だけではない。
その場に居た数十人の諸官僚は皆、床に足のついていない三成に注目した。
揺さぶられた三成の前髪がはらりと動く。
三成は下を向き、「ここは任せる」と小さな声でつぶやいて左近を押しのけた。
「御意のままに」
左近は胸倉をはなして、すっと道を譲った。その横を三成がすり抜ける。
行列の官僚たちは皆、ぽかんと口をあけていた。















馬を下りてねねの滞在する屋敷、
意識は朦朧としているのに足はうまいこともつれずに走れるものだ。
汗がつっと耳の横を流れた。
心臓は重い慟哭。
は、は、と息遣い。
犬のようだと三成は思う。
「遅い!」
「おねね様」
乱れる息に肩を揺らした三成を一喝ののち、ねねはにっこり笑って「こっち」と言った。
ねねは三成の手首を引いて、庭へ出た。
こんなときに野立てでもやっていたのか、赤い敷布だけがひいてある。
「北条の奥様たちはもう中へ入ったみたいね」
「同じところへ?」
主語も述語もぼろぼろであったけれど、ねねは了解して「あの子はまだ奥様じゃないからね」と防砂林を指差した。
今にも沈みそうな夕日の下に林がある。
木々の深い緑の中から白い足が二本垂れていた。

三成はぼうっとした様子で、ただ一点だけ見つめて庭の芝の上に降りた。
ねねは縁側からそれを見送って彼が足袋のまま土を踏んでいるのを見た。
腰に手を当てて
「困った子たちだねえ」
と誰にも聞こえないように微笑った。






白い足が木の枝から垂れている。
も少し近づけばその人は枝の上に座り、幹に身体を寄せているとわかる。
大人が手を伸ばせばなんとか届く程度の高さの枝である。
細い足首から下は土に汚れている。
また裸足で、としかりつけた日々を急激に思い出す。
ひぐらしは気をつかってか、随分遠くで鳴いている。
胸がつまって、そのせいで言葉が喉から押し出された。


「降りられなくなったのですか」


見上げる目と、見下ろす大きな瞳とが交わる。
どれくらい黙っていたか。
の最初の言葉は震えた。

「左近が、木の上にのせて・・・」
”左近”で言葉が始まるのはこの人の常で、そう遠くもないのにずいぶん聞いていなかったその声に
その調子に
その姿に
目に
手に
髪に
まるごと意識を奪われる。
泣く前の顔をしている。
私はいつもこの顔を見て怯んで、さらに厳しいことをいって泣かせて左近が慰めて。
「けれど左近がいなくなって」
左近が慰めるその様子を遠くから見て、ひとりで悔しがって。
「降りられなくて」
手を伸ばす。大人なら届く距離だ。・・・や、ちょっと届かないが。

「こちらへ」

これはいつも左近の役目。
「受け止めます」
今は私の役目だ。
木の上の人は首を横に振る。

いや、と。

枝がみし、と揺れて幹にすがった。

私の指はひるむ。
徳川へ行くのをとめられなかった男を憎むのは道理、道理だ。
昼が暮れて夜になる境目
もう一度手を伸ばす
何度でもだ。
何だって
もう会えぬと思っていた
会えなくなることを容認したのは私だったのに
ヒグラシは遠く、細くなった白い足首は目の前に
頭上にゆるく手を伸ばして
伸ばした指の先に指が触った。

手だけ重なる。
ぬくい。
二粒、殿の目から涙が降ってきた。

「おいで」
「でも」
「うん?」
「三成様がボキッとなります」

そんなことを泣きながら言うものだから、
ああ、
まったく
いますぐ降りてきなさい。

「普通になりませんよ」

殿が降ってきた。
それから地べたに座って身体丸ごと抱きしめる。
背中に触った瞬間に小さな身体がびくりと跳ねた理由はまだ知らないまま、心がしゅわしゅわと音とたてて蒸散するのを感じていた。

















おまいさま、おまいさま。
ねね。どした。
このめでたい日にね、お願いがあるんだよ
うん?
お祝いの準備をしたいんだよ



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