雪遊びなどしたせいか、泣いたせいかは体調をくずし、これまでで一番ひどく寝込んだ。
その二月には徳川家康が小田原攻めの第一陣として駿府を発った。
小太郎は敵情を探るために各地で隠密行動をとるよう命じられ、世話はもっぱら狼たちに任せていた。
三月、ついに豊臣秀吉が小田原への進軍を開始した。
小田原は5万もの兵力を集めたが、対する天下の豊臣は25万。
四月、豊臣秀吉が関東の湯本に陣を敷いた。篭城を決めた小田原城を包囲して長期戦の構えである。

久しく、風魔小太郎は小田原へ戻った。
北条親子が青ざめる報告を終え、雪の消えた中庭を通り過ぎ、
桜の木にぶつかってから部屋に戻った。
髪を洗ったばかりらしく、は髪についた水滴をおさえるように拭っていた。
小太郎が戸口で九字を詠んだかと思うと、びゅうと部屋の中で風が吹きすさんだ。
は突然の突風に驚いて目をふさぐ。
風がやみ、目を開けると小太郎が近くにいての髪に触っていた。
「ふむ、乾いたな」
「忍法は便利だこと。わたくしにも教えてくださいませ」
は可笑しく笑った。

「小太郎、久しく会いましたが怪我などしませんでしたか」
「我は風魔、甘く見るな」
「うん」
「・・・」
「あ」
は小太郎の髪についた花に気づいた。桜の花弁を手のひらにのせて春を知った。
「もう春」
「とっくに春だ、うぬは寝坊をしたな」
冬の間はずっと伏せっていた。
「春か」
は感慨深くつぶやいて目を閉じた。
「目を開けよ。”西のほう”を思い出すな」
「そう言っても、いやおうにもなく思い出すのです」
「では話せ」
「うん?左近とおうた」
「さこんとはだれだ」
「背が高い」
「我よりもか」
「はて、そなたよりも大きく見える」
「首を切って我より低く縮めてくれる」
「それはだめよ」とは笑った。
「なぜだ」
の好きな人のだもの」
そういって、また瞼を閉じた。瞼の奥で見る”西のほう”の記憶を小太郎は知らない。
「・・・ふん、なおのこと斬ってくれるわ。その生首をそちにやろう」
「生首はいらぬ。わたくしはあの者に抱き上げられた視界が好きじゃ、笑うたときに左の頬にできる皺が好きじゃ、御伽草子を読んでくれた声も好きじゃ、撫でてくれる大きな手が好きじゃ、身体の部分すべて一緒に再びまみえたい」
「勝手なことをいう女だ」
「ええ、わたくしは勝手な女です」
「・・・想うのはその男か」
は「いいえ」と首をゆるく横に振った。
知らぬと思うてか。
島左近は石田三成の重臣。石田三成には妻となるはずの女がいて、その女はやがて豊臣の政略結婚の駒となり徳川へ嫁いだ。今もなお駿府の城にいるとされてはいるが、その女の姿を見たものはない。なぜなら風魔小太郎が攫って(攫わされて)小田原に在るからだ。
そして今、小田原は豊臣の手に落ちようとしている。
小太郎はの手を引いた。
「来い」
「庭へ?」
「色々の花の咲き乱れて入り乱れる庭は混沌なのであろう」
秋の日にそういえばそんなことを言って小太郎をまるめこんだのをは思い出す。
「我は混沌を好む」



夜桜に白湯と酒を嗜む。
高い高い城壁の向こうを大軍が取り囲んでいるとは知らぬ美しい女は、桜を近くで見たがった。
最近殊更に歩くのがうまくいかぬようになった女は縁側の梁にもたれかかって、庭へ歩き出した風魔が枝を手折るのを待った。
「小太郎、”一房”ですよ」
風魔は桜の木の前で立ち止まり、こっそりと九字を詠んだ。
するとたちまち嵐が巻き起こり、は驚いて目を閉じた。
やがて風が止み、目を開けると
「嗚呼」
夜に花弁が舞い散る。
の手の届くところに桜の花びらが
梁にすがって立ち上がったは興奮して足元も考えずに両手で桜に手を伸ばした。
縁側から空中へ踏み出したときには風魔小太郎がその身体をかかえた。
「小太郎、ありがとう」
桜の遮る月へ伸ばされていたはずの白い腕が風魔の頭を抱きしめた。

北条氏は完全包囲された状況でなお絶望的な軍議を続けていた。













さて、

梅雨の終わり夏の始まり、海からの風はなまぬるい。
豊臣に包囲された北条はもはや風前の灯。

「戯れに来たか」

夜闇に後ろから距離を詰め、羽交い絞めにしてやった。侵入者、服部半蔵は息をつまらせる。

「それとも恋人を探しにきたか」

揶揄するように言った風魔の大腿に、”くない”がつき立った。半蔵はそのすきに風魔と距離をとって別の枝にわたる
海から強い風が吹き込んで、木々をざわと揺らす。葉擦れの音が三の丸外苑の二人の忍の存在を隠していた。
「淡い期待をもっているようなら哀れ、教えてやろう」
向こうの三の丸の外壁に炎の影が揺らいだ。
警邏である。
半蔵は音もなく舌打ちし、地上の警邏と樹上の風魔へ意識を分けた。
ごう、と耳は遠くの樹から揺らしはじめた強い風の接近を察知していた。
風魔は赤い舌を見せて、にいと哂った。

「あの女は我が犯してから殺した」

半蔵が見ずに振り下ろした短刀の刃は風魔の肩の骨に達した。
続けざまに轟、とふいた風ののち、
風魔の目の前にはもはや服部半蔵の姿はなかった。
風の一瞬のうちに風魔の頬と腕に深い傷が残された。
北条の警邏は松の見事な枝ぶりにとまる風魔忍者にも気づかずに、その下を通りすぎていった。
人の足音が無数に聞こえる。
攻撃は早朝から始まるだろう。
この夜の終わりに






























この戦は最初から北条の負けだった。
小田原城は墜ち、北条は滅びる。

いくらかの雑兵を殺めて城の地下、棲家に戻った。
腕と肩はうっとおしいほど血塗れている。
鉤爪からも粘つく鮮血が滴っている。
人間の声がする。
人間の走る音が続いている。
夜も明けきらぬ小田原は戦の渦中にある。
地下でさえ音が鈍く響いている。女もただ事でないことを感じ取っていたらしい。
だからこそなぜその大事に風魔小太郎が部屋にもどったのかわからぬ様子で、我の姿を見ると困惑した。
面倒だ、眠っているほうがよかったと思った。

「小太郎っ」

傷を見るなり、悲鳴じみた声をあげた。傷は浅くないが、致命傷でもない。

「怪我をしている」
「黙れ」

うぬが怪我をしたわけでもあるまいに、なにを震える。
面倒だ、泣くな。
面倒だ

「今、手当てをするから」

まったく
間の悪い
夜着の身体を掴みあげる。
女の夜着にじわりと我の血がしみこむ。それすらなんとなく不快だったが、手のひらが我の肩の傷口をおさえてきた。
手でおさえても流れる血が止まるわけはなかろうに。手を放させ、身動き取れぬように腕に力をこめて抱きこむ。

外に出る。

遠く、城壁の向こうで醜い虫のように鳴っている。数が多すぎてそれが人間のたてる音であるのさえわからない。
灰色の毛を赤黒く濡らした二匹の獣が静かに待っていた。それぞれも怪我を負っている。
「おまえたちまで」
「声を出すな」
城は戦の只中。じきに豊臣軍が入城する。
薄い夜着ごしに鼓動が伝わる。女の小さい心臓が早鐘を打っている。
遠くの空に煙があがっているのを女の瞳が映した。映すな。
うぬの見ぬでよいものを見るな。
倉の並ぶ城のはずれ
そのひとつの鍵を壊し、中に下ろした。
篭城を続けた小田原の食料庫はすでにすべて伽藍堂である。
手が自由になった途端、再び傷口が女の袖によって覆われた。袖はすぐに血に染まる。
「おとなしくしろ」
米俵を縛っていた縄で腕と腰を締めるように巻いて、きつく結んだ。
「うっ」
痛みに喘いでも緩めてはやらない。足は縛らぬでおこう。
「どうして」
すべての疑念と困惑がその問いに集約された、問答している時間はない。
涙を浮かべて、こんなときばかり真剣に我を見よって。
女の唇がわななく。

「小太郎っ」
の傍がいい」
言葉が狂った。

われは安寧をこのまぬ
ひかりとやみのないまぜの混沌がいい

臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 ・・・

「こたろう」
「ぜん」

九字の終わり、女は眠る。
うつくしい人を目に手に焼き付ける。
倉を出て、錠をおろした。

夏、
雪だるまは溶けて最早ない
今度はわれが食べたせいではないぞ



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