宵闇更けて、夜には骨のように頼りない月がかかっている。
上杉謙信の手が止まった。
夜酒の杯を呷る角度が浅くなり、視線がふっと外へ向いた。口元に笑みが浮かんだ。
笑った。
珍しいなと兼続は思いながらも報告を続けた。

「来たり」

謙信の声で兼続は報告を滔々と述べるのをようやく止めた。
謙信は肘掛に左を預けながら酒を呷り飲み干した。
兼続は耳をすましてみたが、外は夏の虫の声がするばかりでこれといって不思議な音はない、気配も。
「なにが来ましたでしょうか」
「人にあらざる者」
魑魅魍魎の類が上杉の屋敷に入り込んだ。兼続は刀を帯びて立ち上がった。
「兼続」
「成敗して参ります」
「及ばず。其れは随分か弱き者、いじめては悪者ぞ」
少し酔って戯れておいでだ、と兼続は内心で困った。
「一応、見て参ります」
兼続は退室した。



月の光がずいぶん弱くて廊下を歩くにも蝋燭の火が頼りだった。
夏の虫の声、涼やかな風が首のあたりを撫でて和んだ。
まったくもって平和な庭である。
途中、居候している前田慶次とすれ違った。酒を飲まないかと誘われたので、見回りが終わったら付き合うとだけ言ってきた。

魑魅魍魎は屋敷の廊下の角を六回曲がった先、池のある裏庭にたたずんでいた。

女が
全裸で。

「ぬぉ!っと、これはっ!ご無礼!」
兼続は廊下の梁に顔を押し付けて、庭のほうを見ないようにした。
「おぉぉぉお落ち着けっ、き、きき斬りはせぬ、けけ謙信様がいじめては、なら、ならないとだな、だだだからそこを動かず待っていなさい!」
「ええ、待ちます」
なんとも素直な魑魅魍魎である。兼続は梁から顔を離し、ちらりと裸のほうに視線だけやってからすぐに目を閉じた。

(煩悩退散)

と印を結んでから、蟹歩きで庭に下りた。全裸の女の正面を向けない。
「これをお召しなさい」
白い陣羽織を差し出すと女が受け取る。
魑魅魍魎なら魑魅魍魎らしく動物か何かの姿で出てきてくれればよかったのに、なぜよりによって人間の若い女の形などしているのだ。しかしなるほど邪悪な気配のしない妖だ。しかも結構、美人。
(煩悩退散っ)
兼続はいやらしい想像を振り払った。
「謙信公のところへ行こう、元のところへ返してくださるお力をかしてくださるだろうから」
「頼みます」
そう言ってなんと兼続の手を握ってきた。
兼続が驚いて振り返ると、ああなんて白い肌の娘だろう。闇の中だというのに発光するように白い。
むこうは兼続の方には少しも視線をやらずに、屋敷を珍しそうに見つめている。
「夜目がきかない」
「さ、然様でございますか・・・」
あまりに怖じたふうの無い娘なので兼続のほうが敬語になってしまった。
いかん、ひるんではいけない。非力とはいえ妖は妖。油断した瞬間に首に食いつかれるかもしれない。
だってほら、なんて冷たい手だ。人の手の温度ではありえない。
いや、嘘。あんまり女の手をつかんだことがないからこれが普通なのかもしれない。
兼続は歩き出した。なるべく人目に触れないように主の私室まで案内する。
女は口数が少なく、ただ手を引かれるままに兼続のあとをついて歩いたが。一分とたたないうちに女の足がもつれた。
「危ない、大丈夫ですか」
「歩くのは初めてなのです。疲れる」
色っぽく廊下に脚を投げ出している。自分の足がそんなに珍しいのか、素足を撫でていた。
美しい脚である。
(煩悩退散!)
足のない生き物の化身だろうか。
「あなたはなんの化身ですか」
兼続が視線を合わせるように屈んでやると、化身は小首を傾げた。
「あなたたちの言葉でなんと呼ばれているのかをよく存じ上げません」
「ふむ、人間の言葉が達者なのに不思議な物の怪」
「坊主に会えば呼び名も知っていましょう」
「これ、物の怪。謙信様とお呼びせぬか」
「けし・・・?」
「け、ん、し、ん、さ、ま」
「けんしんさま」
「よろしい」
女はまた小首を傾げた。その仕草が驚くほど可愛いかったりしたり・・・
(煩、悩、退、散!)
兼続は仕方なく女を、子供を抱っこするのと同じ要領で持ち上げて廊下を進んだ。
兼続のもつ皿の上、蝋燭の火が揺れている。それが廊下を照らしてくれているのであるが、娘の視線は炎の揺らめきに吸いつけられている。どうしたのかと娘に蝋燭を近づけると「ひっ」と小さく鳴いて兼続の肩に顔を擦りつけた。
震えている。
「火は怖い」
「すまない」
これは動物の物の怪、と納得する。
謙信の私室に至る廊下の角で妖を腕から下ろす。さすがに主の部屋に抱えた格好のままは入れない。格好のことを言えば、仮にも僧侶の目の前に肌同然の若い娘を連れて行くのが間違いなのだが、まあ物の怪なのだから仕方の無いことだ。
「そこの部屋においでだ。ここからは歩きなさい」






がたん、という音をきいた上杉謙信は相変わらず手酌で酒を呷っていた。
気配で兼続と何者かがいることはわかったが、しばらくしても部屋に入ってこない。
兼続の声が聞こえ始める。
「あとちょっとなんだから歩かないか」
「ほらすぐそこだから」
「もとに戻りたいなら根性を出さぬか」
「脚が痛いと言ってもだな、まさか抱っこするわけにも」
「あ、ちょっとこら!袴を掴むな」
「無理じゃない、義の力があれば歩くくらいできるぞ」
「義か?よくぞ聞いてくれました。義というのはですね」
「もういいとか言うな」
やがて現れたのは、真っ赤な顔をして娘を抱きかかえている兼続だった。
「こ、このような格好で御前に上がりまして、申し訳ございません」
「よい」
謙信が娘を検分するため、近くに寄せた。兼続は刀に手をかけるが謙信は視線でそれを制した。
以来おとなしく控えている。
娘は謙信の前まで来ると大きな瞳を見開いて軍神の姿を見ていた。
謙信は杯を置くと、まず指でなにがしかの印を結んだ。

謙信が若い女と向き合っている姿など、兼続ははじめて見た気がしていた。
しばらく眺めていると上杉謙信はおもむろに女にかかっていた兼続の陣羽織を娘の背中からすべり落とした。
兼続はぱっと視線を床に移した。床の木目の上で視線を泳がせながらも恐る恐る、視線を戻す。
白い背中だ。
傷一つ無い。
背骨が浮いている。
乳房は、
その輪郭だけ見える。
煩悩退散の言葉さえ吹き飛んでその様子に食い入る。
謙信公が若い女にいたずらしているように見えなくもない。実際、ああいう格好で自分が夜のお相手をつとめたこともある。しかも床に広がっているのは自分の、兼続の陣羽織である。最近は謙信公もお年を召されてめっきり呼ばれなくなった。
小姓の役目は仕舞った。これからは一人の上杉家家臣として尽力すべきである。
女の背中などに見とれている場合ではない。
女の背中など、くびれなど、腰、尻・・・

「兼続」

「はっ」

謙信の声に弾かれる。

「此れは白蛇」

「はくじゃ。蛇の化身でございますか」
「我が結界に入りし此れなるは禍津に非ず。縁起の良いこと、しばしは屋敷に留め置く」
「屋敷に!」
「留め置く。身辺の世話は任せたぞ」

謙信は言い終えると再び酒を呷った。
なにか言いた気でも主命なればと堪える兼続を娘の目が見ていた。
蛇のように大きい目ではあるけれど、特有の細い瞳ではない。人の目をしている。兼続は謙信に向かって諾の意味する伏礼をとった。

謙信様、と加える。

「畏れながら、寝酒は身体に悪うございますゆえ何卒ご自重くださりますよう」

「名を授けよう」

伏した兼続の願いに応える言葉はなくて、頭上で声がする。

「白蛇の君、其は



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