白蛇は縁起がよいとはいえ、物の怪を屋敷に留め置くとは過ぎた戯れである。
しかして今に始まったことでもないために躍起になって進言するべきことでもなく、主命であるから仕方ない。
着物を与え、部屋を与え、兼続の姉の従兄弟のはとこということにした。ことにしたものの、誰もそんなことを信じはしないだろう。
この上杉の屋敷では式神やら何とかの化身やらというのをよく見るのだ。人の形をしているのは珍しいが初めてのことでもない。
謙信の霊力に吸い寄せられて集まってくるのだ。謙信が屋敷に結界を張り、邪の気を持つ妖は入り込めないようにしてある。
これは悪いものではない、そう思えばこそ屋敷の者たちも黙認してくれる。
火は怖いと言うし、夜目がきかないというから兼続自ら床をのべて寝巻きを着せてやった。
「苦しい」
帯を後ろから締めているとそんなことを言われて兼続は慌てて緩めた。
「これくらいで苦しくありませんか」
「苦しくないです」
正面に回って乳房を見よう、下腹部を見ようなどとはしないが、後姿だけでも正直興奮していた。
骨のように頼りない月の、夜更けである。
「では私はこれで退室いたします、明日の朝、侍女に朝餉を運ばせますので」
「兼続」
呼び捨てなのはおそらく、謙信がそう呼んだのをきいていたからだろう。そこにこだわる兼続でもなかったので聞き流した。聞き流せなかったのは次の言葉である。
「どこかへ行くの」
「ええ、部屋に戻らせていただきます」
「一緒にいてはくれないの」
直江兼続には少々刺激の強い言葉が投げかけられた。
兼続は、冷や汗をかき、膝の上で握るこぶしがぶるぶると震え、その末に、平伏した。
「は、白蛇の君におかれましては、慣れぬ環境にお困りになること多々あるかとは存じまするがどうか今宵は安らかにお休みいただけますよう、せ、僭越ながらこの私直江兼続が祈祷など致しまして殿の安眠をお祈りいたす次第にございますれば、ど、どうぞご安心めされてお一人でおやすみいただきますよう伏して御願い奉りまする」
「兼続、早口でわかりません」
「でででではもう一度!白蛇の君におかれましては、慣れぬ環境にお困りになること多々あるかとは存じまするがどうか今宵は安らかにお休みいた」
「かねつぐー、居るのか」
杯二つと瓢箪を抱えた前田慶次が、伏している兼続の背後の障子戸を開いた、足で。
夜更け、一枚の布団の同じ部屋に二人の若い男女、女は布団の上で不安げに眉を寄せていて、男が土下座している。
慶次は顎をひねった。

「ははぁ。さては修羅場か」
「ち、違う!修羅場ではないっ」
兼続が真っ赤な顔をあげて反論した。
「いやいや、俺ァただおまえがいつまで待っても酒を飲みにこないものだから探しに来たまでよ。気にするこっちゃない」
「違う、違うぞ慶次。お前は勘違いをしている。不義とも言うべき勘違いであるから早急に訂正する。私はただ殿の着替えを手伝って」
「着替えを!そりゃまた兼続にしちゃ大胆だ・・・」
「だから違うといっている。そうではなくて殿は」
「兼続が一緒に寝てくれないのです」
「そう私が一緒に寝・・・・・いや、いやいやいやいやいや違う違う違う」
「事情はわかった」
慶次は兼続のところまで視線を落とし、ぽんと肩をたたいた。
「柳腰のお嬢さんだ、あんまり無茶すんじゃねえぞ」
「なんだその分別ぶったぬるい目は。不義だ。これは不義だぞ慶次」
「いやあしかし美人だねえ、兼続は果報もんだ。はっは!」
慶次は豪快に笑いながら部屋を立ち去った。ぴしゃりと障子戸を閉じて。
兼続は地団駄を踏みたい心を抑えてを向いた。
「・・・寝るまでですよ」
心持唇を尖らせて、小さな声で言った。
「よかった」
白蛇の化身は白い頬で微笑んだ。

傍らに座って、目をうろちょろ動かす白蛇の君に無理やり瞼を落とさせた。
ところが蛇はちっとも寝ない。
三時間ほどして兼続ははっと気づいた。
「夜行性なら夜行性とはやくおっしゃってください!」






一夜の睡眠時間を無駄にした兼続は翌々日の朝、白蛇に歩き方を教えた。嫌々、ではあるけれど。
兼続が縁側に座って「右、左」と指示を出す。
が三度目つんのめったところで兼続はふうとため息をおとした。
なぜ謙信様はこのような役目を私にお預けになったのか。
―――軍神、病篤し。
噂は真実であり、現実は噂より悪い。さじにいくら酒を止められても、兼続らが止めても主君はそれだけは聞かなかった。
最近小さな声が聞こえる。
“謙信様は死期が間近だそうだよ”
声はきっと誰の声でもなくて、兼続はたびたび誰もいない廊下で立ち止まって、頭に浮かんだ構図と言葉をとめるのだ。とまれ、とまれ。その先を考えてはいけない。
ビタン、と音を聞いて兼続ははっと目を開けた。
白蛇の君がへたくそな転び方をしていた。手のひらを石にぶつけたらしい。さすっている。
ちら、と兼続のほうを見た。すぐに視線をはずして、は土で汚れた袖をぱたぱたとはたいた。
さっきよりも頬が赤い。
兼続は縁側から腰をあげた。
「ご覧あれ」
練習に励むのいる庭に歩み出て、手本とばかりに堂々と歩いてみせる。池のそばまでいって踝を返して戻ってくる。
「簡単ですよ」
「兼続、もう一度見せてくださいな」
よろしいでしょう、と兼続はうなずき右足を出した。
「右、左、右、左、右・・・」
足元を見つめてつぶやくと、つぶやくリズムに足が合わなくなった。合わなくなったと思ったら
「右手と右足が出ているわ」
と笑い声がした。兼続はかあっと赤くなって「今のは悪い手本です」と言い放つ。
池の手前で踵を返すと「次のがよい手本です」と言い置いてから歩み出た。
「右、左、右、左」
右足が出ると左手が出た。左足が出ると右手がでた。
「みぎ、ひだり、みぎ」
が声を重ねてくると、とたんに乱れた。歩行というのは意識するとままならなくなる。
むっときて、おなかを抱えて笑うのもとにズンズンと早足で到達してやった。
「いまの早足はきっとよい手本ね」
「皮肉をおっしゃる」
言いながらも可笑しくなって、歩く練習を継続した。
出仕まではまだ一刻くらいある。朝の風は涼しくて、日差しもまだ遠い。
「では、私が手を引いてさがりますから、殿は歩いてまずは十歩」

兼続の手のひらに白い手がのる。

はひたすらに自分の足元を見て、陶器のような頬をほの赤くして兼続が一歩さがると一歩進んだ。また一歩下がると、一歩進んだ。ハ、ハとかすかな息遣いが聞こえる。
自分の足元と兼続の足を真剣に見つめている。それを見つめている兼続はの長いまつげばかりに見とれていた。
「六、七、八、九。ではもう十歩」
「兼続、これで、合っているかしら」
歩くのに懸命になる一方では言った。「見込みがあります」と兼続はぼんやりした頭で応じて白い頬に見とれた。
庭でぐるぐると円を描き歩く。
そういえば、手。
土で汚れて、小石が刺さったのだろうか。小さく傷ができている。兼続は四度もが転ぶのを見た。
「お怪我を」
「大丈夫」
はすっかり歩く足が気に入って、話しかけても足元ばかり見ていた。
一、二、三、四と歩行に合わせて嬉しそうに繰り返している。
息をきらせてきたを縁側に座らせて水に濡らした手ぬぐいで擦り傷を拭った。
血は赤い。
殿は蛇のころ怪我をなさいましたか」
この人が蛇だということを忘れないように、わざわざ「蛇」と口に出していった。
特に知りたいから質問したということではない。
「うん、窮鼠に噛まれた」
「・・・それは災難でしたな」
質問しておいてなんだが、広げづらい回答がかえってきた。
「わたしはそっちに狐採りの罠があるからといいたかったのですけれど、ねずみはわたしに食べられると思ったのでしょう」
「お腹は空いていなかったのですか」
「こう見えて菜食主義なのです」などと真顔でいうのである。
「・・・キノコとか?」と兼続が変な顔をして首をかしげると
「キノコとか」とはうなずいた。



菜食主義の白蛇の君の歩行練習を手伝った奇妙な朝は、兼続の出仕の時間が来たことで終わった。
けれどその翌朝も、そのまた翌朝も歩行練習は続いた。
練習五日目の朝、はひとりで立っていて、兼続はそこから20メートルほど離れた池の手前に立っていた。
「いつでもよろしいですよ」
兼続が声をかけると、は手でバランスをとりながらよろよろと歩き出した。唇が小さく動いているのが兼続に見えた。「一、二、三、四」と繰り返しているのだ。足元を懸命に見て、ときどき目標地点の兼続の存在をちらりと確かめて。
の最後の5メートルは迷子の子供が親を見つけて駆け寄るような必死さだった。
兼続は最後の8メートルあたりから「クララが立った!」ような感動ぶりで、腕の中にが(つんのめって)飛び込んできたのをしっかと受け止めた。
あまりにも兼続が感動しすぎているので、はその勢いにわずかに気おされていた。

「よくぞ!よくぞここまで!」
「兼続、朝だから静かに」

兼続はぼろぼろ泣いた。彼が感動屋であることはも感づいてはいたが、蛇であるのほうが人目を気にしてきょろきょろと周りを気にしてしまっていた。
はしゃぎすぎた兼続が八秒後くらいに背後の池に落ちるのだけれど、割愛。






「いや、お恥ずかしい」
水に落ちた次の朝、いくらか手を引き歩く練習を続けてから二人で縁側にかけた。
朝露が広葉樹の葉をすべる。
「私はすぐに盛り上がってしまう性格なのでいつも三成にはいつもうるさいと指摘をされるんです。殿の物静かなところを学ぶべきですな」
「みつなり」
「ああ、三成というのは友人で、豊臣の家臣で治部少輔でありましてこれよりずっと西の」
と兼続はここから延々と三成を紹介し、目の前の人が目をぱちくりしているのに気づく。
兼続の頬はわずかに赤くなった。
「申し訳ありません。言ったそばから私ばかり話して」
「いいえ。いいえ兼続、あなたの他愛もない話を聞くのが好きよ」
「え!では義について」
「たあいもない話は好きです」
「では他愛もなく義について」
「たあいもない話だけ好きです」
は微笑し、兼続は反省した。






翌日、これもまた朝靄のなかでの逢瀬である。
「兼続。わたしが上手に歩けるようにしてくれたお礼をしたいのです」
縁側に仲良く掛けて、突然の申し出に兼続は首を横に振った。
「お礼だなんてとんでもない。私こそその、いつもお会いできて・・・お礼をしたいくらいで」
兼続にしてみれば一種の告白に近いものだったのだが、白蛇の君は「それでね」と軽く流した。
「それでね、あなたはカエルが好きかしらと思って」
「カエ、カエル、でございますか」
「そう。わたしは食べませんが、あなたが好きならば採ってまいります」
本気で兼続が喜ぶかもしれないと思っているあたり、やっぱり蛇だなあと納得しながらも兼続は返答を言いあぐねた。
「・・・あまり好物では・・・」
「それは残念です」
しょんぼりと肩を落としてしまったを元気付けようと、兼続は代案を大急ぎで作り上げた。
「さ、さかな、魚が好きですよ」
「サカナ」
の顔が明るさを取り戻し、兼続はほっと旨をなでおろした。目が合って二人で笑った。
「サカナ・・・」
つぶやきながらは庭の池に視線を移した。あの池は謙信様のお気に入りの鯉が
「違った!じじじじ実はこの直江兼続はキノコが大好物でございまして!もうキノコと比べたら魚なんて伊達政宗くらい嫌いです!」
「そうですか。ではたくさん採ってきましょう」
「ありがたいことです」
「食事をするのは好きですか」
「え?」
「兼続は初めて会ったときより顔が痩せたと思います」

兼続は静かに、ゆっくり首を横に振って「殿の採ってきてくださるキノコが楽しみです」と笑った。



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