熱い、痛い、まぶた。
兼続が目覚めたとき外は明るい。朝日の明るさである。
どれだけ疲れていてもどれだけ主君の死が悲しくとも朝、決まった時間に目が覚める。
身体は温まっていたけれど、白蛇の化身の姿は腕の中になかった。
恥ずかしいことをした、井戸の水で兼続は顔を洗いながら思った。女の胸に甘えて泣くなど。
かわいそうなことをした、着物を改めながら兼続は思った。組み敷いたことから謝ろうと思って、朝議の前に彼女の部屋を訪れたけれど姿がない。
後でにしようと思っているうちに大事な話し合いがいくらか続き、気づけば一週間。

殿を見なんだか」
飯炊きの女たちは顔を見合わせて「存じ上げませぬ」と言った。

殿を見なんだか」
「あいにく」と家臣団。

殿が部屋に見当たらない、外にでたりはしなかったろうか」
門番たちは首を横に振った。
「ほかの門番たちにも聞いてくれ、もう一週間も誰も見ていない」
「へ、へえ、わかりました」
兼続の勢いに気圧されて、門番はせかせかと走り去って戻ってきて申し訳なさそうに首を横に振るのだった。

「慶次!」

廊下をどすどすと踏み鳴らして寄ってきた兼続に前田慶次は目をまあるくした。
「どうかしたのかい」
殿が、いない。ずっと、誰も一週間も見ていないのだ。一週間だぞ・・・。部屋に戻った様子もないのに外にも出ていないという。もしかしたら誘拐されたのではないか。謙信公がお亡くなりになった隙にということも」
慶次は首をかしげた。

「蛇に戻ったんじゃないのかい」

兼続は次ごうとしていた言葉の形で唇を止めた。

「兼続、大丈夫かい」

そうか、と思ったけれど兼続は声に出せなかった。

「兼続」

慶次が覗き込んでいるのに返事が返せない。
そうか、白蛇に戻って藪に戻ったのか。
納得できるのに胸がぞわぞわする。
落ち着かない。
血が冷えていく。

「どうした」
「大丈夫だ」

慶次に揺すぶられても彼の声はひどく遠くに感じられた。
そうか、白蛇に戻って藪に戻ったのか。
それで私はあの人の、いや、あの蛇の?・・・殿のことがとても慕わしくて驚いているのだな。驚いているのだ。
「道理なのに可笑しなことだ」
兼続は額を押さえた。
「おかしいとは思わないか、慶次。殿は蛇なのだから藪に帰るのに、私はこの屋敷であの人、いや、あの蛇を探していた」
「やぶを探すかい」
慶次の言葉は優しげであったけれど慰めではなかった。相手は蛇だ、だから慶次は「好きなんだったらおっかけて見せろ」とは言わないのだ。化け物が見せた幻は消えうせた。幻がよい幻でも悪い幻でも幻の終わりに、人間は化かされていたことに気づいて地団駄を踏むしかないのだ。
兼続は背をしゃんと立ち上がらせた。
「藪など探さない。幸運の白蛇を探している間に尻尾を山犬に噛まれては直江山城の名折れ」
背をしゃんとして、廊下を歩く。
慶次は苦く笑ってから頭の後ろに腕を組んで、ぽっくらぽっくら、兼続のあとをついて歩いた。



その夜は大いに飲んだ。



「幸運のはくりゃ、はく、はくじゃなどいらぬ!我らには毘沙門レンの加護があるのだ!」
「毘沙門天な」
「そうだ、毘沙門レンら!」
兼続はすっかりできあがり、呂律のまわらないまま杯を振り回した。
フラれた友人に慶次はひたすらに付き合う。
酒をついでうなずいて苦笑いして、「そうだねえ」とうなずく。
その繰り返しだ。
宵闇の月に朧がかかって、庭は暗い。兼続は絶対に庭の方向に身体を向けなかったけれど、ちら、ちらと庭を見ては大声で愚痴っていた。こぶしをふりあげ、酒をこぼし、酒臭い。
「あーあー、見てらなんないねえ」
「毘沙門レンと愛エン」
「愛染」
「そう!愛染明王の名において白蛇など、あんな蛇なんか・・・あんなの・・・」
だんだんと背中が丸まっていって、勢いを失っていき、ついには床につっぷした。

「あんなの・・・」

よしよしと慶次が背中を撫ぜる。

「罪作りなお蛇様だねえ」

「蛇とか言うな!」

怒声とともに背中を慰めてやっていた慶次の手ははたかれた。兼続自身は散々“あんな蛇!”と言っていたのに、である。
殿は・・・殿だ」
「そうだねえ」
慶次は肩をすくめて苦笑いし、役目を続けた。
「白蛇など、はくじゃ・・・」
「兼続?」
兼続がつっぷしたまま静かになった。小刻みに震えて、泣いているのかもしれない。
慶次が覗き込むと
「はく・・・」
“白蛇”といいかけて止めたのかと思ったら、彼は豪快にリバースした。












***



上杉謙信が没して数ヶ月、ひい、ふう・・・みい、三ヶ月。
季節は秋の終わりを迎えていた。

直江兼続は以前よりいくらか高い地位を与えられて、新たな主君の世のために力をつくすことを心に決めた。
生憎というべきか喜ぶべきか、悲しんで泣き伏せている暇はなく、遊郭に飛び込んで一夜の恋を見つける踏ん切りの良さもなく、藪に分け入って白蛇を探す時間もなかった。
出仕の時に縁側を通って草のあたりをちらり見て、
縁側の下など屈んで覗いたりしてその姿を女中に見つかったりして、
の声を思い出したりして
姿を思い浮かべたりして
手紙なんか書いてみたりして
会議の席を厠に立っては向こうの木の根をちらり見て、
渡り廊下で官吏に呼び止められて池のほうをちらり見た時、
白い
蛇の
尾が
草むらに消えるの見た気がした。

「ご家老」

話していた副官に呼ばれても兼続は草むらに目が吸い付いて放れない。
わなわなと拳が震える。
副官がもう一度声をかけようと口を開いた。


「頼むから、一ヶ月に一度くらいは来てください!」


ご家老様の突然の大声に、副官は震え上がった。
「そんな現れ方をして、私が一生それだけを楽しみに生きるようになったらどうしてくれる気です。私は直江山城なのに傾いたらどうするのですか!」
「ご、ご家老様」
「なんだ!」
「いったい、誰に向かっておっしゃっておいでで」
「好きな人だ!」
「はあ」
右へ左へ首を傾げる副官をよそに、兼続はドスドスと足音をたてて屋敷の中へ進んでいく。草むらはそよぐだけで音ひとつ立てず、副官もあわてて家老のあとを追いかけていった。



















宵闇更けて、夜には骨のように頼りない月がかかっている。

かさり、と音がして兼続は寝所の障子を開け放った。臨む庭の松の下、白い女の姿を見つける。
はじめて会ったときと同じに裸である。
は唇を真一文字に結んで太ももの前にぎゅっとこぶしを握っていた。言いたいことがあるようだった。
兼続は縁側まで出た。
「わたしは蛇です」
声は凛と響く。兼続の足を止めるほどに。
「あやかしなのです。あのような人前で奇異なことを仰せになれば謗られるのはあなたです!およしなさい」
兼続は羽織をつかんで裸足で縁側をおりた。
「それに服を持っていないので、おいそれとは出て行けないし上杉謙信亡き後」
「謙信さま」
「上杉謙信さま亡き後、自分で人に成るには月の骨のように細い夜だけで」
の勢いをものともせずに迫りくる兼続に、は動揺していた。
兼続に叫ぶというよりはもう顔をまっすぐ見れずに地面に向かって言っている。
「だ、だから、あまり、わたしなどお忘れになってもよろしゅうございましょう。わたし聞きました、直江のお家に見合いの話もたくさんきていると、わたし神出鬼没で、その・・・」
兼続はついに目の前に立って、はすっかり真下を向いていた。
白蛇の化身の白い肩に羽織をかけて抱きすくめて、あのおしゃべりな男がなにも言わない。
寡黙な娘も言葉を出し尽くしたように静かになって、
「だから・・・」「だから・・・」
とこぼすだけでなかなか言葉がつげなくなった。

「・・・みなのまえで恥ずかしいことを言わないで」

これはもう、絹糸のように細い声であった。

「白蛇の君は照れ屋だな」
「反省のない人」
「こうして会えるだけで嬉しい」
「・・・わたし、冬眠しますけれどよろしいですか」
「いいよ。寂しいけれど」
「それに」
「まだなにかありますか」

「わたし、おへそがないわ」

きょとんとする兼続に対して、白蛇の君は本気で恥じ入っていた。



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