昔話をする。

のははうえが亡くなったのは、がははうえの正気をすいとったからですか?」

少年期の曹丕子桓の袖を引き、そう尋ねたのはである。
曹丕は筆を止めて小さな妹に目を見張り、曹丕専任の家庭教師として教鞭をとっていた司馬懿も吃驚して振り返った。

「誰がそんなことを言った」

まだ声変わりしていない曹丕の声が、わずかに怒気を帯びる。
は自分が言った言葉の意味を理解してはいなかったが、不穏を読み取って首を横に振り答えなかった。

「言わなくたってわかる、またあいつらだろう。いまいましい女狐どもっ」

曹丕は卓をドンとこぶしで叩いて勢いよく立ち上がった。

「仕返しをしてきてやる」
「曹丕様」
「邪魔をするな仲達」
「まだ勉強の時間は終わっておりません。それに、曹丕様といえど母君方のいさかいに子供が首をつっこんでも無益です」
「なんだと!」

司馬懿にも食って掛かろうとした曹丕を引きとめたのはだった。は懸命に曹丕の腰にしがみついて、唇を真一文字に引き結び、首を横に振り続けている。
曹丕は眉をひそめ唇を少し尖らせたまま、不服そうに座った。
ひとまず落ち着いてくれたことに息をつき、司馬懿は衝立の向こうに視線を伸ばしこの部屋に司馬懿、曹丕、の三人しかいないことを再確認した。部外者に曹一族内の不和をさらすのは極力避けるべきだ。

「おまえが悪いのではない」

曹丕が言った。

「絶対にない」

曹丕が言い切った。
は子供特有の大きな瞳をぱちくりさせて、異母兄の曹丕を見つめた。

「仲達!おまえがフォローしろ」

見つめられて恥ずかしくなったらしく、司馬懿に振って曹丕はぷいと顔をそむける。

「曹丕様が仰るとおり。姫様の母君が亡くなられたのは、流行り病のためです」
「ほら見ろ。この兄の言ったとおりであろう」

はこくと頷いた。

「だから、そ、その・・・おい仲達は耳を塞げっ」

司馬懿は言われたとおり手のひらで耳を覆って見せる。
曹丕はの小さな手をぎゅっと握る。

「大丈夫だ。おまえに母上がなくとも我らきょうだいの絆がある」

は小さく一度頷いた。
「よし」
兄らしいことを言ってしまって照れている曹丕に促されて、も勉強卓の前に座りなおす。
耳を塞いだ手のひらごしに聞こえた話がまとまったところで、司馬懿は曹丕の勉強時間を再開した。



流行り病は嘘だった。
司馬懿の耳で聞いた限り、の母君は悪女であった。
顔が美しく、出自は卑しく、学は無く、虚栄心が強く、出自の良い妻達に異常な敵愾心を抱いている人だったそうだ。
いっ時、曹操の寵愛を得たことで増長した。
寵愛が遠ざかると他の妻達を恨み、毒殺しようと何度も試みたという。
ようやく生まれた赤子が男児でないことを知ると発狂し、赤子の命をとろうとしたのでやむなく宦官が斬り捨てた。
曹家後宮にいる者なら誰もが知っている話である。
そして口外することを禁じられた話である。(禁は破られている)
「流行り病のためです」
司馬懿はこのとき、ほとんどはじめて気休めの嘘を言ったのである。

昔話は一旦終わる。






***






足元の猫はどこからきたのだろうか。

黄色い猫が張遼の靴に擦り寄ってきたのは、曹操の執務殿から戻る廊下の途中でのことだった。
ゆっくり歩みを進めてみてもまとわり付くので、再び足をとめた。
毛並みがいい。
愛玩用の飼い猫に違いないのだろうが周りを見渡してみても誰もいない。
今日はいわゆる休日であり、とある案件で張遼だけ呼び出された。他に人がいるはずもない。

とある案件というのは縁談だった。
曹操にしつこく見合いを勧められ「今日会ってみろ。こちらに向かわせているから」と言うのである。
曹一族と姻戚関係になるような重要な話を突然聞かされ、しかも今日今すぐ見合いをしろとはあんまりである。
張遼は丁寧に、慎重に断った。
猫はまだすりすりしている。
は美人だぞ、母親が美人だったからな。気性も優しい。夫をたてるよき妻となるであろう。胸は・・・そんなに大きくはないが楽しめぬほどでもない」と食い下がった曹操を断るのに精神的に磨り減っていた張遼は、猫にふと癒された。

「おまえの主はどうした」

屈んで手を伸ばしてみる。

「あるじはここにおります」

声に顔をあげると貴婦人が立っていた。
柔らかい印象の美女である。
恐らく曹操の娘か皇族だ。絹の衣装で廷内を歩くくらいだから。

「おいで、

猫は貴婦人の足元に戻っていった。
猫の名が「」?
この遭遇は「」姫との遭遇だと張遼の第六感が告げていただけに驚いた。猫の主は張遼に立礼をすると猫を従えてくるりと背を向ける。
髪を結い上げている大きなリボンが揺れた。
その時である。


姫様!」


ドタドタといくつかの足音が張遼の後ろから聞こえてきた。

「姫様、姫様!こちらにおいででしたか」

女官が三名、もの凄い勢いで張遼の横を通り過ぎていった。
振り返ったのはやはり「姫様」だ。

「曹操様がお待ちでいらっしゃいましたのに、いったいどこに姿をくらませていたのです!」
「すまない。待っている間に猫が腕から逃げて探しておりました。父上はまだ待っていますか」
「もうよいとの仰せです」
「怒らせてしまったろうか」
「そのようではありませんでしたが・・・。なんでもお見合い相手の方が断られたとか」
「どれほどご立派な将軍様とは存じませんが、我らの姫様の姿を見もせずに断るなんて女性を見る目がありませぬ」
「きっと間に合わなくて正解でしたわ姫様」

女官三人がやいのやいの言うのを張遼は先ほど立ち止まったのと同じ場所で眺めていた。
張遼を通り過ぎていったはずなのに、張遼に気づいていない。
女官達の向こうへ行きたかったのだが機を失ってしまった。自分こそが“女性を見る目のない”将軍様だったからだ。

「そうか。急に居なくなったことを叱られると思うたが褒められた」

なんともやわらかく笑む人だ。

「「「急に居なくなったことは怒っております」」」

三重唱だった。
そういえば女官三人の後姿がまったく同じだ。服も髪型も背丈も同じ。
これは三つ子の女官だ。
張遼はしばし立場も忘れてその面白い会話に見入っていた。

「さあ姫様、もう戻ってしまいましょう」
「今日は曹家の後宮に行商からの品が届く日でございますよ」
「姫様は何を取り寄せられたのですか。この前のあの青い石の首飾りですか?それとも翡翠の髪飾りですか?」
「あいにく、何も」

「「「えー!もったいない!」」」

張遼は三重唱に小さく笑いそうになったが我慢した。今は空気になっているのがよい。
話しながら女官と姫君が遠ざかっていったのでほっと息をついた。



「なうー」

張遼の足元に猫。これはまず

、またいなくなって」

主に呼ばれてなんとも頭のいい猫は張遼の足を離れていった。

「ん?張遼とではないか。なんだ、見合いを断っておきながら出会うとは天命に違いない」

張遼の背後からした声は曹操だった。
まさかこの男が全部仕組んだのではなかろうかというタイミングの良さである。

「せっかくだ。張遼、、わしの庭でデートせい」

致し方ないと早々腹を括る張遼。
首をかしげる姫。
“女性を見る目のない”張遼将軍を見つけて青ざめる三女官。
のんきな猫。






***






はわたくしの名ですが、母の名でもあります。母の名を思って付けました」
「然様でございましたか」
「猫は好きですか、張遼将軍」
「今まで興味を持ったことはございませんでしたが、近くで見てなつかれるとなんとも愛嬌があっておもしろい」
「そうか。こうすると気持ちよさそうにします。・・・よし、よし」

猫のあごの下をさすって、猫が目を線にして上向いた。
曹操の庭を特別に借りて、庭内の休憩所に二人と一匹はいた。
張遼はちっとも怒っていなかったけれど、三人の女官は行き過ぎたガールズトークを聞かれたことに怯え、「あとは若いお二人に任せて・・・」とか言うとその場を退いた。若さで言えば張遼は彼女たちよりずっと年上だ。
はしばらく猫を撫でていた。
会話が止まってしまった。
猫、鳴け

猫は鳴かず、も何も言わなかったのでたっぷり間があってから張遼がまず声にした。

「姫様を目の前に、せっかくのご縁を無礼で返しましたことをお詫び申し上げます」
「詫びずともよい。父上の気まぐれにも困ったものです」

は猫に「ねえ」と同意を求め、「なう」と返った。

「将軍は好きな人がいるのですか」
「決まった恋人はおりません」
「そうか。わたくしも好きな人はいないが特に誰かと夫婦になりたいわけでもなかった」

猫がの膝から逃れ、くさむらに姿を消した。

「父上にはわたくしから申しておきましょう。張遼将軍はとっても顔が怖くって、背が大きくて、手も大きくて、あんな人いやですって」

ほがらかに笑う。
本気の悪口ではないよと表現できる、この人は豊かだ。

「だから安心してよい」

庭園は花に囲まれ、日差しは暖かで、風が心地よい。
微笑むは絵にしたいほど美しかった。

「恐れ入ります」
「・・・ケガをしている。大変」

は張遼の手元に視線を落としていた。
張遼は手の甲から腕にかけて古傷がある。呂布のもとに仕えていた時代にできたものである。

「ずっと昔の傷にございますれば」
「ここだけ皮が薄い。ぷっくりして、痛くはないのですか」
「もちろん」
「・・・では触っても」
「大丈夫です」

は恐る恐る張遼の手の甲の傷を指でなぞった。
指先がおっかなびっくりでくすぐったい。真剣に傷痕に注がれる眼差しも張遼には何となくくすぐったい。
くすぐったい指先がぴょいと引っ込み、は触っている間つめていた息を吐き出した。

「あぁ・・・触るだけで痛くてどきどきしました」
「本当に痛みはございません」
「そなたは我慢強い。わたくしはこんなふうに斬られたら、すごく大きな声で痛いと言ってしまうと思います」
「斬られたときは私も痛いと大声で申しました」
「なんだ、そうか。ではよかった。張遼将軍は背も大きくて手も大きくて、でも痛いのが嫌なのはおんなじですね。将軍様って皆さんいつも怒ってやせ我慢ばっかりしているのかと思っておりました」
「誤解がとけてようございました」
「うん」

ふと、なごんでしまった。
見合いは断った。
も断ってくれると言っていた。
ならば必要以上に馴染まないように気をつけるべきである。

武でしか生きる術を知らない張遼は、政争に巻き込まれることを嫌っている節があった。
いまや曹操の権力は天子に勝る。その曹操の娘ともなれば大きな後ろ盾になるのと同時に、面倒な駆け引きに巻き込まれる要因にも成り得るのだ。
こののほほんとした、微笑みの穏やかな姫君単体には何の罪もないのだけれど。



は袖をまさぐって笛を取り出した。

「わたくしに触らせてやれる傷はないから、お礼は笛でいたしましょう」
「お礼をいただくほどのものでは」

張遼がの肌に触ったのならいざ知らず、古傷を触られただけだ。
けれどいらないと固辞して困らせるのは最も不誠実な態度であろう。

「つつしんで賜ります」
と言って、張遼は聞く姿勢に入った。笛を聴き終わったら終わりにしよう。
くさむらから出てきた猫は張遼の膝の上に乗って、猫まで聞く姿勢を作ったことにはも張遼も表情をやわらかくした。
横笛を唇にあてる。







の笛はたいそう上手だった。
風雅な宮廷音楽とはどこか違う。
刻まれる三拍子が小気味良い、楽しい笛の音だ。
演奏が終わり、張遼が褒めるとは笛を握り締めて照れくさそうに笑った。
はじめて年相応に映る。



こ、これは百姓達が種まきで歌ううた
蘭旬と言う侍女から教わった。
歌いながら種をまくと少しだけ疲れないような気がすると言っていた。
音楽はすごい



そう照れ隠しに言う姿は可愛いらしいものだった。



    >>