こ、これは百姓達が種まきで歌ううた
蘭旬と言う侍女から教わった。
歌いながら種をまくと少しだけ疲れないような気がすると言っていた。
音楽はすごい



曹魏の誇る庭園を背景に、可憐な姫君が張遼と猫のために笛を奏す。
なんて贅沢なことだったろう。
さかずきを口元から少し離して、張遼はおとといの出来事を思い出していた。

「どうなされた。ぼんやりされて」

徐晃が手ずから酒をついでくれた。
張遼の耳と目が現実に引き戻される。
今宵の宴の席は華やかで騒がしい。
大勢の武官、大勢の文官、いくらかの踊り子、音楽の奏者、料理と酒を運ぶ女官達。
大盛り上がりの一団が曹操の周りにあって、張遼と徐晃はその一団からだいぶ離れた場所で並んで飲んでいた。

「先日曹操殿の庭を拝見する機会がありまして、思い出しておりました」
「それは羨ましい。夏侯惇将軍から見事な庭であると伺ったことがござる」

張遼はなみなみつがれた酒の水面をゆっくりと唇に寄せる。

「誠に、美しかった」

徐晃には、酒をあおる寸前に張遼がふっと笑んだように見えたけれど、踊り子に混じって「華麗に!」と言いながら張コウが目の前を横切ったので注意を奪われた。



***



「立派な男でなくてはならぬ」

とは酔った曹孟徳の言葉である。
踊り子が大胆に舞っている。
太鼓に笛に、明るい笑い声。気分を良くした誰かが遠くで歌っている。

「立派ってぇのは首より上のことですかい?それとも腰より下のことですかい?」と下ネタを飛ばしたのは典韋である。ワハハと自分で言った言葉に笑っている。
「立派かどうか本人に決めさせればいいだろう」と夏侯惇は喉越しが火のようなアルコール度数の酒を飲みながら平然と言う。
「じゃあ殿、俺なんてどうですか?」と夏侯淵が身を乗り出した。
「ふむ、おまえはなかなか可愛いな。名をなんという」と曹操は踊り子を捕まえて口説き始めた。
「惇兄ィ!俺ァ無視された!」
「あれは孟徳に似ず美人だ。やると言われれば断る男はないだろう」
「確かに顔はわしに似ておらぬが頭の中はわしに似た。見合いをさせようとしてもうまく逃げる」
「孟徳は見合いなどというプロセスは問答無用ですっ飛ばす。やはり心底似ていない。めでたいことだ」

酒の席では幼い頃のようになる曹操と夏侯惇に、周りがわっと笑った。

「そんなに美人なら、おら見てみたいだなぁ」
「許チョよ、わしの娘を初夜に圧死させる気か」
「殿!俺もひと目見てみてェです!」
「俺も俺も!」



***



20分後、曹家の姫君は宴席の入り口で心細げに佇んでいた。
踊り子とも女官とも違う雰囲気の美女が来たぞと、宴席の視線がに集中する。

「なんとも珍しい、姫君のお出ましでござろうか」

徐晃は酔いもあってうっとりと美女に目を細める。
隣りの張遼が目を見張ったきり硬直したのにも気づかない。



、来たか」
「おじ様」

夏侯惇は車座からに手招きをした。
知らない者だらけの宴席で、知っている人を見つけてはほっとした。
人の目が多すぎるので、夏侯惇に駆け寄りたいのを隠してしずしずと歩いた。
座ってしまえば、がたいのいい将たちに阻まれて注がれる視線の数が減った。そのかわり近くの将にじろじろ見られる。

と申します。・・・よしなに」

彼らに何を言っていいのかわからず、は視線を上げるのをためらった。

「夜分に悪いな」
「おじ様、どうしてわたくしは呼ばれたのでしょうか。父上が火急であると」
「孟徳め、言いだしっぺが消えた」

曹操はを呼びにやらせた直後、おっぱいの大きな踊り子を伴って姿をくらましていた。
「無責任だ。姫の貰い手が決まらぬうちにまた子作りか」と言って曹操を繋ぎとめておけるシラフは最早この宴席に一人もいなかった。
多少なりともと面識のある”夏侯惇おじ様”が始末をつけてやるべきだが、

「ん?ちょっと見ないうちに凹凸がでてきたか。香などたきしめていい女になったな」

こんな感じで、おじ様は平時よりもご機嫌になっていた。
は孤立無援の空気を読み取る。

「おまえ、好きな男はいるか」
「・・・お戯れを」
「じゃあいないんだな」
「え」
「選べ。よりどりみどり」
「なにを選ぶのですか。好きな殿方を選ぶのですか?」
「そうだ」
「急におっしゃられても」
「好きなのを指差していいぞ」

恐る恐る視線をあげてみると、
スキンヘッドで上半身裸の大男と目があった。典韋がガン見している。そっと横に視線をずらす。
まん丸の目をしたまん丸の巨漢と目があった。許チョがガン見している。そっと横に視線をずらす。
どっしりした体格で腹毛がとってもギャランドゥな男と目があった。夏侯淵がガン見している。
さらにその横に視線を移すと、司馬懿が座っていた。
よかった、とは司馬懿に光明を見い出した。知らぬ仲ではない。

「仲達、おじ様は本気でおっしゃっているのですか」
「・・・」
「仲達、仲達」
「・・・ぐぅ」
「あーあ、司馬懿のやつ惇兄の酒間違えて飲んでやがる」
「では仲達にします」

寝ているなら何を言っても大事にはなるまいと察知したは酔いつぶれている司馬仲達を指差した。
その細い指を握ってぐうに戻させたのは夏侯惇だ。
酒を口にしながら

「司馬懿はいかん。あれは新婚だ。14歳を嫁にした」






***






「またお会いしました」
「はい、姫様」
「あの場に張遼将軍がおいでで本当に助かりました。ありがとう」

張遼は苦笑した。
誰かを指差さねば一生帰してもらえないような雰囲気の中、は宴席の端っこに張遼を見つけた。
「お持ち帰り」コールがわきおこるが、張遼は冷静に夏侯惇に進言した。
「曹魏の姫君を宮へお連れするのに護衛が私一人では心もとない。女官達と衛兵をお貸し願いたい」
「女官と衛兵だぁ?そんなのナニする時に邪魔なだけじゃねえか」
「典韋殿、姫君の御前ですぞ。冗談は慎まれよ」
「まあ丸腰で格好がつかないってんなら、ホイ」

夏侯淵は彼の後ろで背中を合わせに酔いつぶれている武官の腰から細剣の鞘を取り上げ、張遼に放った。

「着ている物を引き裂く時にも使えて便利だゾ」

相手は全員酔っ払いだ。
張遼の説得はむなしく終わり、二人きりの居宮に向かって宮廷の廊下を歩いている。



「・・・とてもよい夜です」

ふと小さな足音が止まる。
は朱塗りの手すりに手を添えながら、夜空を見上げていた。廊下に沿って人工の小川が巡っている。
かすかなせせらぎ、やや肌寒く、凛と、空気がはりつめた紺の夜であった。

「はい、姫様」
「風が心地よい」
「はい、姫様」
「星も美しい」
「はい、姫様」
「月もよい」
「月は雲で隠れております」

は張遼の方を振り返って、なぜか目を丸くしている。
張遼は身体を傾けて欄干の隙間から夜空を見上げ、月が雲で隠れているのを確認し直した。
なにか変なことを言ったろうか。

くすとが息で笑う。

「あなどった」
「はあ・・・」

張遼はよくわからなくて生返事を返す。

「はい姫様と返すと思って。ごめんなさい」

“はい、姫様”の問答は自動応答でないか確かめようとかまをかけたらしい。

「話をちゃんと聞いていてくださったのですね」
「姫様の話を真面目に聞かぬ者がありましょうか」
「案外大勢います」

は穏やかな微笑みをたたえたまま、また空を見上げた。
美しい横顔をまじまじ見るのもはばかられ、目立つ髪飾りに目を移した。おとといも同じリボンをつけていた。
が歩き出す。張遼はあとに続く。
あの髪を縛っているリボンは何でどう染めたらそういう色と模様になるのだろうか。着ている衣装の印象とは異なる、はっきり言ってしまえばリボンだけ浮いている。けれどの姿に似合っている。
視線に気づいたが振り向いた。

「失礼、おぐしの飾りが変わった布地だったものですから」
「これは兄上・・・曹丕様と甄姫様から頂いた物なのです」
「然様でございましたか」
「遠い異国で作られたそうで、鮮やかで美しい」
「よく似合っておられます」
「ありがとう。張遼将軍は綺麗なおぐしをしておいでです」

そんなことは初めて言われた。

「兜をかぶるとき、髪はそっくり隠れて?」
「はい」
「それは勿体無いことです」

文化の違いを感じた。生まれと育ちと、心の違いを感じた。
この人は後宮で生まれ、産声さえ笛の音で、歩く道は絨毯で、美しい宝珠を食べて生きてきたに違いない。
なぜ並んで歩いているのだったか。
曹家後宮までの道のりが急に長く感じる。

「将軍の住まいはどこだろうか。この城ですか」
「本邸は城の東に。城内にも執務室を戴いております」
「ではまた会うこともあるかもしれない」
「恐れながら、私の身では曹家の後宮にあがることはございますまい」
「わたくしは時折城内を歩き回っております。内密に」
「姫様が」
「司馬仲達の仮眠室はわたくしの庭と言ってよいでしょう」

驚く張遼に、司馬懿はの先生なのだと教えた。
司馬懿が曹丕の教育係になった時、色々あって幼いも混ざって教わっていたそうだ。上手な印鑑の押し方から兵法まで習った。



歩いている最中、張遼には聞かせてやれるような話の引き出しがなかったので、が楽しく聞かせてくれるのはありがたいことだった。
しかしは話の途中で、ふっと静かになった。

「・・・今宵のことは」

楽しげだった声のトーンが少し下がる。

「酒の席での話。明日には皆忘れているでしょう。もう一度わたくしとの結婚を考えろとか、そういうことはない」

心配はいらないよと張遼を気遣った。
気遣ったのだろうが、張遼は振られたような気がした。
気のせいだ。
つい一昨日、会う前に見合いを断ったのだから、振る振らない以前の問題だ。

「はい」

と張遼は応答した、何に対して「はい」と言ったのか張遼自身よくわからなかった。
よくわからないのに返事をするなんてはじめてだった。
つなぎとめる言葉を言いたくて口を開く。

不自然な葉擦れの音



***



張遼が突然獣のように廊下の外を睨んだ。
も同じ方向を見てみるが小川と高い垣根があるばかりでどうということもない。

「・・・張」
「し」
「・・・」
「後ろへ」

張遼がを庇う形で廊下の庭側に立ち、は廊下の壁側に下げられた。
庭の暗がりを睨む張遼。
彼の手が腰の鞘に置かれているのを見て、は声を封じた。
先発の矢は張遼の右腕の横を通り過ぎて壁に突き立った。張遼は矢にぴくりとも反応しなかった。
次にカンと音がした。
いつのまにか細剣は鞘から抜きはらわれていて、張遼の足元に二つに折れた矢が落ちている。

「内庭に大逆である!」

張遼が恐ろしい声で叫んだ。



にわかにあたりから足音が聞こえ出し、垣根の向こう、いくつかの人影が遠ざかっていった。
張遼の声に警備の者達が駆けつけ、賊は逃げたのだ。
よかった
は後ろの壁に肩をあてて思わず息をついた。

「今の声はここか!」
「矢を放った者がいる。急ぎ城内の兵にしらせよ。まだ近くに隠れているやもしれん」
「なにっ」
「曹操殿の姫君がおわす。あとの者は姫の警衛を」

張遼は駆けつけた兵に言いながらまだ庭から視線を動かさなかった。
内庭警備の五人は女の身なりを一目見てわかり、彼女を背にして一斉に槍を構えた。
次に、張遼が張遼将軍であることにも気づく。

「あなたは・・・張遼将軍!了解しましたっ!」

兵長らしき者が姿勢を正し、すぐさま2名を伝令に走らせた。
残り2人と兵長がの近衛として残り、張遼はようやく剣を収めた。

「姫様、歩けますか」
「歩けます・・・大丈夫」

言葉に反して声を震わせるに、張遼は手を貸す。

「驚かせて申し訳ありません」
「わたくしはよい。なんともない。そなたが守ってくれた。あの矢を剣で払ったのは見えなんだ、すごい」

張遼に気をつかわせまいとひきつる頬で笑う姿が痛ましい。
また、重ねられた小さな手がひどく冷えているのを感じて張遼は眉根を寄せた。

「姫様」
兵長がを呼ぶ。
「ここは危険です。急ぎ宮までお戻りくださいますよう」
「わかりました」
重ねられていた手が離れる。
ドッと音がした。



***



右腕を石つぶてで殴られたと思った。
姫様」と怒られるような声を聞いた。
刺さった矢を抜かれても痛みはなくてただ右腕が熱かった。
目の前の兵士達はひどく狼狽し、張遼が痛そうな顔をしている。
「大事無い。それより曲者を討て」
「将軍、矢先に毒が」
矢を拾い上げた兵長が悲鳴じみた声をあげる。途端、張遼はわたくしの袖を引き裂く。
毒矢か
「心配はいりません。わたくしは毒に耐性があります」
この程度の毒でわたくしは死ぬまい
血のつながらぬ母上達に“いたずら”で盛られた毒の数々を、その毒で死なぬために飲んだ更に多くの毒を。

ああ、

けれど今日はいけない。張遼がいる。わたくしを連れて歩くことになった理由にも、わたくしが矢で撃たれたところにも、どこにも張遼の罪はないけれど、曹操の娘を矢で撃たれた上に、曲者もつかまえられなかったとなれば、彼は
「必ず討ち取りなさい」
彼は
「聞こえなかったか、張遼将軍」
「姫っ」

「必ず討ち取りなさい!」

大きな声。いまのはわたくしの声ね

「御意」

よい声
それにほら、夜空になんと美しく反撃をする人だろう。
きれい。
身体の形がきれい。
動きがきれい。
ああ、この毒は
きっとはじめての種類の毒ね
とおのく



<<  >>