なだらかな丘の上の離宮は瑞宮(ずいきゅう)と呼ばれていた。
が療養する宮である。
都の喧騒からは遠く、都からは遠くない。

瑞宮の守護は張遼軍が取り仕切った。
今や魏の五大将軍の中核と謳われる軍だ。
守護にあたるのはその内の一個小隊とはいえ、ちょっとやそっとで動かせるようなものではない。



「曹操殿に願い出て、お許しをいただいております」

竹林から吹いた風が窓を通り、張遼の袖を揺らした。

「ですが、姫様が落ち着かないと仰るのであれば守護は本来の管轄である執金吾の采配に任せます。・・・落ち着きませぬか」
「そんなことは言っていません。のう蘭旬」
「そうですとも。張将軍旗下の方は皆々様りりしくって、礼儀ただしくって、連れて来た女官たちにも好評しきりでございます」

張遼は付きの蘭旬という侍女長に教わりながら、の右腕の矢傷に薬を塗っていた。
蘭旬がやってみろとしつこく言ってくるし、張遼は傷を負わせた責任を感じていたし、は拒まなかったためである。
張遼の手は今なんとの柔肌に直接触っている。

「何ゆえそなたの軍がこの宮の守護役なのかと尋ねたのは、そなたの軍は“張遼軍”であるからです。魏を守ることはあっても離宮ひとつを守るなど」
「曹魏の姫君がおわす離宮を守ることは魏を守ることと同義に心得ております」
「・・・そうか」

はそれ以上の問答をあきらめた。怒っている様子ではなかった。
問答の最中も、張遼はしごく真面目な態度で蘭旬に傷の手当の方法を教わっていた。

きめの細かい肌は白くてやわらかい。
上腕の傷口は塞がっておらず、傷口の周りはざらりとしていて違和感がある。
張遼は傷の近くに薬を塗るときだけ自分の手が震えたのを見た。

「気に病むことはありません」
「は」

張遼の指先のわずかな震えを読み取り、は声をかける。

「痺れるばかりで痛いとは感じません。それに痺れも四日も経ってしまえば慣れて“そういうものだ”と思って気にならなくなりました」
「はい」
「張遼様、次はこの布をあててください」
「承知した」
「左手で腕を支えて親指で始点を押さえて、そうです。あとはきつすぎず、緩すぎないようにぐるぐるぐると」

蘭旬の指示通り、の腕に張遼の手がそえられて、包帯がぐるぐる

「きつくはありませんか」
「大丈夫」

ぐるぐるぐる
終点と始点を結んで、包帯の取替えが終わる。
は肘をゆっくり曲げ伸ばしして頷く。

「・・・うん、良い具合です。ありがとう張遼将軍、下がってよい」
「は、失礼いたします」



折り目正しく拱手をして張遼が部屋を出て行くのを見送った。

「・・・蘭旬」
「なんでしょう姫様」
「今ので少しは自責の念が晴れたと思いますか」
「晴れてないでしょうねえ。さっきまでのお顔見ました?怪我をしているのは張遼様のほうじゃないかという気さえいたしましたよ」
「どうすれば気が晴れるかな」
「姫様がいくら気にしていないとおっしゃっても効果はないでしょうから、しばらくは張遼様が優しくしてくださるのに甘えるのがよろしいかと存じます。包帯、ゆるゆるですから巻きなおしますね」
「甘える・・・」
「張遼様も張遼様の軍も何ヶ月もお借りできるものではありませんから、一ヶ月もすれば曹操様から引き上げの命令が下るでしょう。そもそも、あの曹操様が何のお考えもなしに張遼様に離宮守護を仕切らせるなんてありえませんわ。張遼様がそりゃあもう使い物にならないくらい責任を感じてしまって、発散させてやらなくちゃと思し召して姫様のおそばに置いた可能性もございます。ともすれば姫様に課せられた使命は張遼様の気遣いを素直に享受なされて、二人きりで遠駆けしたいとかわがままを仰ってみることではないかと思うわけです、ええ」
「そうでしょうか」
「そうですとも!絶対そうです!」
「そ、そうか。努力してみます」
「宜しくお願いします!」

いつになく力説する侍女長に押し切られた。






***






「張遼将軍、少々お時間をよろしいですかな」

会議の後、張遼を呼び止めたのは司馬懿だった。
軍議で必要なことを必要なだけ話したことはあるが、呼び止められるのは初めてだ。
人づてには、司馬懿に呼び止められるとその後2時間は重箱の隅をつつくように小さな失敗のことを迂遠に責められ、なにか言い訳しようものなら言い訳の六倍の長さの揚げ足取りと嫌味が襲い掛かってくると聞いている。

「かまいません。何のお話だろうか司馬懿殿」
「では場所を変えますか・・・」

まわりにはまだ数人の文官が残っていたが、司馬懿が鋭い視線をめぐらせると一斉に議場から出て行った。
人目を気にする必要はなくなった。



「さっそく話にはいりますが、なんでも貴軍は現在瑞宮の警備に兵を割いているとか」

なるほどそのことかと張遼は納得した。
日頃、司馬懿に文句を言われるような行動はしてこなかったが、確かに瑞宮警備は兵を私物化しているともとられるであろう。

「仰るとおり」
「ふむ。丞相がそうお命じに?」
「いえ、私から丞相に申し出てお許しをいただきました」
「賢明なご判断です」

内心「え?」と思ったけれど態度はおろか、張遼は眉一つ動かさなかった。
てっきり嫌味を言われると予想していた。あるいはこの称賛も嫌味表現の一つなのかもしれない。

「元はといえば此度の一件は廷内に曲者の侵入をゆるした宮廷警備、巡察の不手際によるもの。不手際どころか宮廷警備と曹家令嬢暗殺未遂の黒幕が何らかの取り引きをしていた可能性も浮上してきたのです。不手際にせよはかりごとにせよ、黒幕がわからぬまま離宮も同じ者達に警備させていては馬鹿どもにもう一度姫を殺しなおせと頼むのと同じこと」
「はあ」
「そこにあって張将軍おん自ら護衛をなさるとあらば、いかな馬鹿でもそう易々とは手を出せなくなりましょう。今頃、姫に手を出した馬鹿どもめはさぞや悔しがっているに違いない。末席の姫と侮ったか、いい気味だククク、フハハハハハ!」

張遼はフハハハハが終わるまで黙って待っていた。
どうも司馬懿の話は要領を得ない。
褒められているような愚痴を聞いているだけのような。
フハハハの語尾が収束していき、息継ぎの沈黙があってから司馬懿は「コホン」と咳払いをした。



「ところで、その、ついでなのでお伺いしますが」

ここまで一切言いよどまなかった司馬懿が、突然勢いを弱めて視線をはずす。

「姫のお加減は・・・、い、いえ!これは魏の発展に曹家のご息女の血は不可欠ですので姫の体調について伺っただけのことです」

普段は冷静で実年齢より上の振る舞いをする男だと思っていたが、今は顔など赤らめて張遼よりも年若いとはっきりわかる。

「姫は右腕に矢傷を負われています。矢先の毒のせいで傷口がなかなかふさがらないのと、右手に痺れが」
「痺れ!?どの程度の」

食いついてきたところを見ると、張遼に聞きたかった本題は姫の体調についてだったらしい。

「最初は動かせなかったそうですが、だんだんと快方に向かっているとのことです」
「然様、ですか」

ほっとした様子。
が言っていたとおり、にとって司馬懿は先生であり、司馬懿にとっては愛弟子なのだろう。

「ご自身はお怪我のことより、本来の任務ではないからとわが軍の兵たちにまで気をつかってくださっておいでです」
「なんと愚かな。丞相の息女に気など遣われたら兵の方こそやりにくい。今は自分の傷だけ心配して休めばよいものを」
「気立ての優しい姫君に育てられましたな、司馬懿殿」
「な、なぜこちらに振りますか、張遼将軍」
「以前、姫様が貴公とは懇意であるとおっしゃっていたのを思い出しました」
「こここ懇意などと何を馬鹿な!あれは別に、曹丕様から姫が后達にいじめられているからかくまえと命じられただけでそれで曹丕様のついでに教育を」

語尾はごにょごにょ言っていたので聞き取れなかった。
つまり曹丕と一緒ににも教育を施している間に情が移ったと、そういうことらしい。
「后達にいじめられて」は初耳だった。言った本人は失言に気づいていない様子なので張遼は聞き流すことにした。

「ゴッホン!」と司馬懿は大きく咳払いをした。
「まあ、その・・・もともとあのような鈍くさい性格だったことに加えて、母君もすぐ亡くされて曹家ではなにかと肩身の狭い思いをしてきた娘です。不幸中の幸い、息苦しい場所から離れられたのですから、す、少しは羽を伸ばすように姫に伝え・・・いえ、そこはかとなく羽を伸ばさせてやったほうが、いえ、これは曹魏の未来を考えればこその言葉であって」

以下省略。



この後も延々続いた司馬懿の言葉を要約すると

一つ、姫は元気か
二つ、手塩にかけて育てたうちの姫に手を出そうとした「馬鹿めが!」は必ずこっちで見つけ出して処罰するから安心しろ
三つ、離宮では姫に羽を伸ばさせてやってほしい
四つ、張遼さえよければ結婚しちゃってくれ

ということらしい。



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