毎日でないにせよ、四日に一度は瑞宮を訪れた。
離宮守護任務にあたっている兵と職務上のやりとりをし、それが済むと庭へ向かう。
は天気の良い日はたいてい庭に面した縁側に腰掛けていると、繰り返し訪れるうちにわかった。



「張遼将軍、こんにちは」

はぼうと庭を眺めていた姿勢を正して、快く迎えた。張遼は一度立ち止まって立礼をする。
意外だった。
気性は穏やかで、可憐な姿をしているというのに、司馬懿の失言によればこの姫君もなかなかに危険な戦場に身を置いていたらしいと知ったからだ。

「それは?」
「司馬懿殿から姫様にと。預かってまいりました」
「仲達が」

張遼は、風呂敷で包まれたジャンプ6冊分くらいの大きさの荷物を抱えている。
が立ち上がり、受け取ろうと両手を伸ばしてくる。

「なにかしら」
「お運びします」
「わたくしが持ち・・・ぁ、いえ、では頼みます。こちらに」



に案内され、張遼が通されたのは恐らくの寝室だった。
部屋の扉が開いたときに、ふわとお香のかおりがかすめる。
さすがに足を踏み入れるのははばかられ、張遼は廊下に膝をついて荷物だけを寝室の床に置いた。

「遠慮せず中に入、るのはよくないか」
「はい」
「中身はなんだろう」

細い指が包みの結び目をほどこうとして、できなかった。
毒矢を受けた利き手はまだ物を握れない。
結び目の上、が少し焦った様子で二度目ガリと指先を滑らせたのを見るや、張遼ははっとした。

「申し訳ございません。持ち運ぶ時にきつくしめすぎていたようです」
「・・・ありがとう、将軍」

張遼が結び目を解いた。
一瞬気まずい沈黙があった。



「本、こんなにたくさん。嬉しい」

包みの中は全て本だった。
瑞宮は出入りする人もたかが知れているし、利き手が使えないのでは景色を眺めるくらいしか娯楽がない。
はぱっと明るさを取り戻して本の表題をそれぞれ確認した。張遼は(さすが司馬懿殿)と心で賛辞を送った。
・・・しかし、孫子の兵法、呉子、荘子、墨氏、戦国策に。女性への贈り物にする本という観点から考えると、どうも司馬懿に素直な賛辞をおくりかねるところがあった。

「どれも欲しいと頼んでも譲ってくれなかったものばかりです、こんなに嬉しいことはありません」
「・・・さすが司馬懿殿」

ヒラと本の一番上に置いてあったメモが落ちた。































「・・・」

「・・・」

「身内の恥を見られた心地です」

冷たい目でメモを見つめ呟いたに、張遼は思わず喉で笑ってしまった。
張遼は「あ」と思って平伏する。

「申し訳ありません、姫様」
「よい」

短かったが、落ち着いた声が返る。
顔をあげてみれば、は膝の上に手をおいて、いっとう穏やかな笑みを張遼へ向けていた。

「ようやく笑ってくれて嬉しい」

張遼は時を止めた。すぐさま返答できなかった。

「このあとは城に戻るのですか」
「・・・いえ、本日のつとめは済ませておりますのでこのあとは拙家へ戻ります」
「ではちょうど曹丕様からいただいた葡萄がありますから持って行くとよいでしょう」
「は。ぁ、いいえ、そのようなお気遣いは」
「みずみずしくておいしいですよ。でもちょっとすっぱい」

「蘭旬、蘭旬」と侍女長の名前を呼んで、はさっさと寝室を出て行ってしまった。
張遼も追いかけようと膝を立たせて、ふと扉が開いたままの寝室に目が行く。
奥にかけてある寝巻きにドキとして、扉を閉めてから追いかけた。






***






張遼の心は千々に乱れた。

―――ようやく笑ってくれて嬉しい

自分はそんなに悲壮な顔を姫に向けていただろうかと思い返してみる。していたのだろう。
姫を守りきれず怪我をさせたことを気に病むあまり、逆に姫の心を悩ませていたのだ。なんて配慮のないことだろう。
日ごろ、感情が表情にでない奴だと知人に散々言われてきたが、あの方の前だとなんてざまだろう。
改めよう。

火がなくとも月光で寝室は青く明るい。
長いすに座り窓に肘をかけて、もう片方の手は葡萄の粒を見ずにもてあそぶ。

姫の傷が癒えるまでひとつの不安もないよう守護することは当然だ。
それ以外に心をお慰めする術はないだろうか。
―――本、こんなにたくさん。嬉しい
司馬懿殿が羨ましく感じる。
何か他に元気づける方法はないだろうか。



いや、よくない。
雑念は捨て、瑞宮守護に万全の体制で臨むことこそが肝要。
姫君のご機嫌とりと並行できるほど器用ではない。
くだらないことを考えるな。

葡萄を食む
果肉がみずみずしい。
すっぱい。

・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
なぜ会う前に縁談を断ってしまったんだ、私は。
いや、愚か者、瑞宮守護に万全の体制で臨むことだけ考えろ。






翌日、
朝議に出、
午後は練兵場で自軍の鍛錬をし、
夜が来て、
屋敷に帰る途中でなんとなく横笛を買って、
就寝前、笛の入った箱を正面に置いて座った。

10分ほど笛と一対一でにらみ合い、そっと手にとる。
あとは見よう見まねで指と唇をあてて息を吹き込んでみる。

ヒュー
ヒュー

息の音がむなしく笛の穴からもれる。さっきよりも強く息を吹き込んでみると、

ヒュー!
ヒュー!

とさっきよりも強く息のもれる音がした。
もっと強くしても、もっともっと強くして酸欠気味になっても音はでなかった。

姫様はこんな扱いの難しいもので演奏して見せたのか。
姫の好きな笛でお慰めできないだろうかと魔が差して、それは大それたことだったと思い知る。
笛を箱に戻して箪笥の奥深くへ押し込み、張遼は寝床に入った。






翌日の夜、
張遼邸の使用人が主の寝室を通りかかった時、中から
ヒュー
ヒュー
というかすかな音が何度も続いた後、
ピョロ〜
という情けない音を聞いたという。



張遼の心は千々に乱れているのである。






***






「寝不足だろうか」

に指摘された。
瑞宮の庭は今日も穏やかだけれど、は縁側で横に座る張遼の顔を覗き込んでそんなことを言うのだった。

「くまでもあるでしょうか」
「なんとなく疲れているように見えただけです。大丈夫、凛々しい顔です」

楽しげであった。
雰囲気を盛り上げようとしてくれているのだとわかる。

「もしわたくしに話して楽になるのならそうしてほしい」
「痛み入ります。些細な事にございますれば姫様のお心をわずらわせるまでもありません」
「そうか。城でのつとめのあとにこの宮まで来るのではゆっくり考える時間も少ないでしょう。せめてここでゆるりとなされよ」

は縁側から立ち上がって、庭に歩き出した。
張遼も立ち上がろうとしたら、が戻ってきて張遼の肩に手をおいて座らせた。

「ここは休憩をするのにはちょうどぴったりの離宮なのです」
「・・・」
「ね」
「・・・有難うございます」

優しい声音と笑顔ひとつで張遼は心がやわらいだように感じた。
張遼は(この方は私よりずっとうわてだ)と素直に思った。
浅はかに笛など買って小細工で姫を励まそうとする己を省みて(この方のようにありたいものだ)とそう思った。
思ったときには手を伸ばしていた。
あとから思い返せば大胆な事をしたと恥ずかしくなる。


「しばらく」


「ん?」
「しばらく姫様に隣りにいていただきたい」
「・・・」
「あなた様の声は人の心を落ち着かせるよい声です」

張遼が袖を掴んだままでいると、はみるみるうちに赤くなって、

「・・・あ、ああ。これは仕返しですね。さっき凛々しい顔だとわたくしが言ったから」

としどろもどろになりながら早口で言った。

「そうですね」
「・・・っ、あの、それでは、その・・・楽しい話をしますから聞いていてくださいっ」

は赤いまま張遼の横に座りなおして、恥ずかしさを振り払うように話し始めた。

「む、むかし仲達が兄上の教育係だった時に」

は相手を攻めるのは得意だが、不意を突く攻撃をされると防御がもろいらしかった。
大の大人の心をかきたてるようなことをしてきたら、今度はこうやって回避してみよう。
まったく、かわいい。






ちなみに、張遼が微笑ましくそんなことを思っている間にが聞かせてくれた楽しい話は次のようなものであった。



むかし、司馬懿が曹丕少年の教育係を務めていたころ、孫子の兵法を習っていた曹丕が司馬懿に尋ねた。

「呉子、孫子、墨子。世に兵法書は多くあるが、これをすべてできた指揮官はどれくらいいるのか」
「全て真似をしたら良いというものではありません。これはあくまでテキストであって法律ではないのです」
「全てできた者はいるのかと聞いている。今まで一人もいなかったのか」

曹丕が食い下がるので、司馬懿は面倒になったのかこう言った。

「・・・まあ、三人くらいはいたかもしれません」
「ほう」
「しかしテキストのとおりに動けてもそれが必ず勝利をもたらしたのかといえば否で」
「仲達はできぬのか」
「だから猿真似をすればよいというものではないんです。それに、私はやろうと思えばできますが”しない”のです」
「なんだ。仲達は真似が”苦手”なのだな」
「なっ!」
「そうであろう。、仲達は偉そうに孫子の兵法を我らに教えるが実践することはできないつまらぬ男だ」

曹丕が横に座っていたに、仲達にも聞こえるよう耳打ちした。

「こ、この・・・黙っていればいい気になりおって!」
「あにうえ、仲達は何でもできますからつまらなくないです。は仲達をすごいと尊敬いたしております」
「フ、フハハハハ!幼い妹君のほうが目が肥えておられるようですなっ」
「だからは仲達はきっと孫子のモノマネができると信じております」
「フハハ・・・はぃ?」
「仲達はなんでもできるから、孫子のモノマネができると信じております」
「あの、姫様?」
は仲達は孫子のモノマネができるとかたく信じています」

「・・・・・・・・・・・コ、コンニチハ、孫子デス」







「苦労をなされたな、司馬懿殿」
「?」

翌日の朝議のあと、張遼はそっと司馬懿の肩に手を置いて励ましたのだった。



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