昼過ぎに瑞宮に到着したら、なにやら庭の方がわあわあと盛り上がっているので張遼は馬小屋から声の方へ向かった。
庭に足を踏み入れたところで

「参りました」
の声がした。

「まあなんて人!姫様には負けるべきです!」
侍女長の蘭旬もいるようである。



「あ、ああっ、そうですよね。俺はなんということを!申し訳ございません姫様っ」
「申し訳ございません姫様、ほら全員頭下げろ」
「「「申し訳ございません!」」」
「よい。真剣に相手をしてくれたことは幸いなことです。蘭旬もどうか怒らないであげてください」
「恐れ多いことにございますれば」
「わたくしは楽しかった。ありがとう」

休憩をしているはずの兵が数名、庭を臨む縁側に集まって中心を覗き込んでいる。その中心には姫がいるらしい。
負ける?相手?楽しかった?
なにをしているのか。

「蘭旬も碁をうってみてはどうだろうか」
「ええ!?あたしはそんな、碁の決まりごともさっぱりで」
「では彼らに教えてもらうと良い。わたくしも昨日習ったばかりです」
「・・・ひ、姫様のご命令とあらばいたし方ありません。そこの背の高い方、手とり足とり教えてくださいませ」
「足は使わないよ、蘭旬」

また笑い声があがる。
楽しそうだ。
背後に来ている軍団長・張遼将軍にも気づかないほどであるから。



兵士は張遼にこっぴどく叱られて、瑞宮から城まで走って往復するペナルティが科せられた。
交替要員がいなくなったので、いま警備をしている兵士達は休憩時間がなくなった上、服務時間が3時間延長された。
連帯責任というやつである。

本来ならば棒打ちの罰が与えられる。
棒打ちと聞いたは青くなり、張遼を説得しにかかった。

「ただ碁を教えてもらっただけです。無礼な振る舞いはありませんでした」
「私や蘭旬殿は殿より許しをいただいて姫と話すことができています。兵卒達はその許しを得ていません」
「わたくしから囲碁を教えてと言ったのです。どうか無体をしないでください」
「なりません」
「そんな」
「規律の守られぬ隊は戦場でも統率を失います」
「・・・」
「ご理解ください」
「・・・わたくしが命じました。囲碁の相手をせねば、その、く、首を斬ってしまうぞと」

張遼は嘘だとわかっていた。もバレていることは承知で言っている。
しばらく無言で視線が交わって、張遼が先にため息を落とした。
おかげで兵士達は棒打ちの罰を免れたわけである。



***



ぽかぽか陽気の日、庭へ行って見るとが途中の廊下に倒れていた。

駆け寄って声をかけようとすると、が眠っているだけだとすぐにわかった。
張遼はほっと胸をなでおろす。が倒れているところはひなたになっていて、そよぐ風も心地よい。
起こそうかと逡巡して、伸ばした手をひっこめた。
よい夢でも見ているのだろう。
見ているこっちまで眠たくなってくるような寝顔である。
風になびいて頬をくすぐっていた髪を耳の後ろにかけてやる。起こさないように、起こさないように。
触ったらすべすべしていそうな頬と、首筋。
重ねた襟の隙間からわずかに鎖骨の線がのぞいている。
この肌に赤黒い毒矢がうがたれた。
傷は肩から着ている物をずらしてしまえばすぐ見える位置。
ぞくっと疼いた。
何が
いや、いかん
張遼はすくと立ち上がり、早足にその場を離れた。



「向こうの廊下で姫様が眠っておられるので報せに参った」
「あらまあ、さようで」

台所で女達が何人か働いていており、中に声をかける。
前掛けで手を拭いた女の一人が台所を出て行こうとして、いつの間にか張遼の背後に来ていた蘭旬が女を引き止めた。

「お待ちなさい」
「蘭旬殿、ちょうどよかった。向こうで姫様が」
「襲ってくださいまし」
「・・・?」
「襲ってくださいまし」

蘭旬は当然です、と言わんばかりの態度で言い切った。台所の女達も「ああそうか!」という表情で顔を見合わせ、

「「「襲ってらしてください」」」
と声を合わせた。

「人払いはお任せを」
「かんこう令もバッチリですので」
「さあ張遼様!お早く!」
「チャンスはピンチ!ピンチはチャンス!」
「・・・」



そう押し出されてまた姫の寝ている廊下まで戻ってきてしまったわけだが。
腕組みをして寝顔を見下ろし、少し考えて

「やはりここは女性に頼みたいのだが」
「「「意気地なし!」」」

何もせず台所に戻って頼みなおしたら凄い剣幕で怒られてしまった。気圧される。

「・・・?すまない」



***



また別の日、

「ああ、張遼様。南の端の部屋の中で待っているようにと、姫様の仰せです」
「承知した」

蘭旬から言われたとおり張遼は瑞宮の南の部屋まで行って扉を開いた。

白い背中があった。

板の間で、傍らに水を張った桶、白い布で身体を拭っているのはまぎれもなくの後ろ姿だ。
が服を着ているのは腰から下だけ。
髪はすべて肩から前に流していて
うなじが、
しなやかな背骨の線が、
くびれが
あああ

「来たか蘭旬、背中を頼みます」
「・・・」
「どうしました」

ピシャン!

が振り返る前に張遼は高速で扉を閉めた。



張遼は最近わかったことがある。
この宮の侍女たちは、(恐らく曹操か司馬懿あたりから)張遼とをくっつけるようにと密命を受けている。
さもなくば嫁入り前の姫君の傷の手当をさせたり、襲えといったり、が体を拭いている部屋に入らせたり。
ああ、そうと気づけば、張遼とが庭で会うとき絶対に誰も通りかからないのもそのせいだったのか。
張遼の気苦労は日に日に増していくのだが、表情に乏しい張遼の変化に気づいてくれるのはくらいのものだった。
に相談できるはずもなく、張遼の気苦労は日に日に増していくばかりなのである。






***






「将軍様ってお暇なのかしら、蘭旬」
「お暇では無いと思いますわ。戦のない時は練兵をなさっていますし、朝議に顔を出さねばならないときもありましょうし」
「ではどうして張遼将軍はこちらに来られるのかしら」
「時間を無理やり作っていらっしゃるのかと」
「どうして?」
「それは姫様に気が・・・いいえ、姫様が張遼様に直接お聞きしたほうがよろしいかと存じます」
「きっとわたくしにケガをさせたからだとおっしゃると思います」
「そうしたら、目をこう、上目遣いにじっと見つめて指先をちょこんと張遼様の胸板にあてて、物足りなそうになさってみてください」



ちょこん

「・・・姫様、何をなさっておられるのでしょうか」
「物足りなそうな顔をしてみています」
「はあ」
「なんともありませんか」
「なにがでしょうか?」
「・・・なにがでしょう?」
「誰かにそうするように言われたのですか」
「変なことをしてすまない。どうぞ季節のせいと思って忘れてください」

どうやら侍女達はにも下世話なことを吹き込んでいるらしいと張遼は悟る。

ちょこん、の指先が離れ、は散歩を再開した。
張遼は後に続く。
綺麗に整えられてはいるが、所詮は土塀に囲まれた屋敷内の庭だ。歩き回るというほどの広さでもない。すぐに一巡りしてしまって、は大きな庭石にもたれた。
退屈と口では言わないが、なにをするでもない。
年長者として、男として、気の利いた会話をしなければならない義務感にかきたてられて、かきたてられるだけでなにもできなかった。
カタ、と硬質の音がして見ればの手には横笛があった。
そういえば、そう。笛を吹いてもらえればこちらから会話を切り出す必要もなくなるし、耳も心地よい。

「・・・」
「・・・」
「・・・」

両手は笛に置かれている。
ところがいつまでたっても持ち上げて吹かない。
それどころか、吹かぬまま笛を袖の中にしまってしまった。
張遼の方をちらりとも見ず、睫はいつもより伏せられているように見えた。
心配になって声をかける。

「姫様」「将軍」

声が重なり、に先を譲った。

「誰か来ています」

の視線の先を辿ると瑞宮警備にあたらせている張遼軍の兵士が急ぎ足でこちらに来るのが見えた。



張遼は兵と二、三言話して戻ってきた。
兵はに拱手したままその場に留まっている。

「なにかありましたか」
「は。召喚の命令があったようですので、今日はこれにて失礼いたします」
「そうか」

強い風が吹いた。
のリボンと袖が舞う。

「張遼将軍」

すぐそこの兵士にも聞こえないほどの声では続けた。


「あなたは遼来々と恐れられていると聞いたが、わたくしはあなたが来てくれると嬉しいばかりです」


張遼はびっくりして、睨まれているわけでもないのに視線を交わしていられなくなった。
袖をあわせて頭を下げて

「もったいないお言葉でございます」

と、できる限りシンプルに振舞ってその場を後にした。







「将軍、馬は門前に用意しておりますのでこちらへ」
「・・・」
「口元をおさえてどうかされましたか?」
「いや、城へ急ごう」
「?」



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