ここで少し昔話

「歌をおうたいなさい」
曹操の妻のだれかが幼いにささやいた。

曹丕と甄姫の婚礼の宴でのことである。

「歌わねば殺してしまうよ」
「おまえの死んだ母がわらわに嫉妬して毒を盛ったように」
「おまえも毒で殺してしまうよ」

がびっくりして振り返ると、礼装の女達が袖を口元にあててを哂っているだけだった。

「ほら、お行き」
爪の長い手が何本も伸びてきてを前へ前へと押し出した。
最後に突き飛ばされ中央の絨毯の上に飛び出して、顔をあげるとちょうど曹丕と甄姫を前に平伏した格好になっていた。

「妹君が歌を披露されるそうですよ」

退路はなかった。
列席する賓客の視線が注がれた。
空気が濁っていく。
そんなことをさせられるなど思ってもみなかったので、練習だってしていないし、は人前で歌を歌ったこともない。
祝い歌を知らない。
童謡しか知らない。
辱めであった。



は震える、か細い声で童謡を歌い切った。
お祝いの式で泣いてはいけないとその一心だった。
まばらな拍手があって、クスクスとせせら笑う声も混じっていた。笑う女声は曹丕に睨みつけられて立ち消える。
甄姫は曹丕に何事か耳打ちし、曹丕はうなずいて

、こちらへ」

羞恥と恐怖で固まっていたを呼び寄せて二人の手が届く場所に座らせた。
甄姫は婚礼の衣装に使われていた美しい布をとって、の髪にリボンのように結び付けてやった。

「かわいいお歌をありがとう、お礼にこれを」

はがばと伏せて、美しい情景にもう一度拍手が起きた。
恥をかかせるどころか名誉を与えてしまったのが気に入らない母君達の一帯だけはギスギスした空気のままであった。







「大丈夫だよ
「そうだよ、兄上も甄姫様も褒めてくださっただろ」
「泣くことないってば」
「じゃああたしのお菓子をあげる。婚礼のお祝いにでたやつ」
「ぼくのもあげる」
「おれのもやるよ」

婚礼の宴が開かれている宮の外、腹違いの兄弟達が小さな輪を作っている。
綺麗な布に包まれた祝いの菓子がいくつも差し出される。
誰かが前髪を撫でてくれている。

がいつまでも泣き止まないから、よりも年下の兄弟達がつられて泣き始める。
それにつられて同い年くらいの兄弟も泣き始める。
弟達と妹達を泣き止ませようとあたふたしていた年上の兄弟まで、その場を収拾できなくなって涙を浮かべた。年上の意地か、泣くまいと必死に我慢している。
そこに小さな兄弟達を探しに来た少年期の兄姉がやってきて

「どうしたのおまえたち」
「ああ、みんな泣いて。今日はお祝いの席ですよ」
「兄上達の分のお菓子をあげるから、泣き止んでおくれ、ね」



泣く子供達の花びらの輪が広がってゆく。






昔話は終わる。



***






まだ、張遼が訪れたことに気づいていないようだった。

ざあと風が大樹の木の葉を揺らした音
の髪と装いが風をはらむ。
つやの美しい髪に枯れ葉が降りてくる。
目で追える緩やかなはやさで降りてくる。
張遼は遠くからその後ろ姿を目にとめて、のまわりだけ世界がゆっくり動いていると知るのだった。



はおもむろに袂から横笛をとり、唇にあてた。
カランと落ちた。
土がついたのを払ってもう一度唇にあてた。
カランと落ちた。
土がついたのを払って、袂にしまう。



張遼は一旦馬小屋まで引き返し、五分ほどしてからまるで今庭へ来たように装った。

「今日のつとめは終わったのですか」
「はい、姫様」

いつも通りのだった。
離れた場所からまず拱手して挨拶をする。近しくなっても敬意を払うことを怠らない張遼にも慣れて、は落ち葉を踏み鳴らして気さくに歩み寄る。
張遼はの肩の上にのっていた枯葉をとって落とした。

あとは庭の中をゆっくりと並んで歩いたり、庭の大きな岩に背を預けてみたり、縁側に腰掛けたりしながら、他愛もないことを話す。
練兵場で夏侯惇と夏侯淵が木剣一本を持って一騎打ちをして、最終的には夏侯惇が淵を一本背負いして勝ってしまったとか、
おととい都に戻った許チョが久々に朝議に参加して、一人で三人分の範囲を占めてしまい、文官が二人立ったまま会議を続けたとか、
市場にこんな物が売っていたとか、
あんなものが売っていたとか、

「今日の張遼将軍はよくしゃべる」
「そうでしょうか」
「よいことでもあったのですか」
「いえ」
「ではかなしいこと?」

張遼は困ったような顔をするだけで答えなかった。
張遼は決しておしゃべりなほうではなく寡黙の部類に入る男だった。
今日努めて話すようにしたのは、囲碁を取り上げてしまったし、右手が完治していないから笛も吹けないし、しょぼくれているくせにその姿を張遼に見せないし・・・、そういうのがはがゆくて、努めて話すようにしてみたのである。
それに、何か話していないと目の前の人の指先も髪も唇も、艶めいたものに映る。
良くない。
何か話していないと
会話が途切れる。
何か話していないと
ざざあと風が大樹の木の葉を揺らす。
何か話していないと
抱きしめてしまいたくなる



「もう道が見えなくなってしまいますね」

はっと我にかえる。
そんなに時間が経っていたか。
そうだあたりはすっかり夕暮れで、道が見えるうちに屋敷へ戻らなければならない。
今すぐに帰らなくてはならない。これ以上揺さぶられたらどうにかなってしまう。
立ち上がる。

「では私はそろそろ。風が強い。姫様は中へお戻りください」
「夕餉を作っているところですから、なにかおみやげにできるでしょう。蘭旬、蘭旬」
「いえ、結構です」

張遼が遠慮するのは社交辞令と思って無視し、は廊下の向こうにむかって声をかけた。
廊下はしんとして誰の足音も返らない。
ざざあと風の音ばかり。

「皆いつも張遼将軍がいらっしゃる時だけ遠ざかって。将軍の事が怖いのでしょうか」
「・・・」

侍女達が必死に張遼とをくっつけようと謀略をめぐらせていることに気づいていないのはだけだろう。
張遼の兵だって今や自然と感づいている。

「張遼将軍は怖い方ではないと、よく説いておきますから」
「・・・」

笑いかけるに応じず、が先に馬小屋の方へ歩き出したのを張遼は追わない。
張遼はその場に立っていた。



「侍女達は」

先を行ったが振り返る。

「侍女達は姫様と私が恋仲となることを望んで気をまわしておられるのです」
「・・・」
「私はあなたが好きです」
「・・・」
「曹操殿になにもお伝えしていないまま勝手を申しました。お許しください」

は言葉を発せないまま、徐々に赤く、恥ずかしそうになっていった。



その時、侍女が司馬懿からの書簡をに渡しにきたのは幸いだったのかもしれない。

「また参ります」
「気をつけて」

心中穏やかならざる二人は、侍女から見れば何事もなかったように挨拶をした。
侍女達は張遼とが会っていると決して近寄らなかったのにその時は割り込んできたから、至急のしらせであろう。



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