月夜に瑞宮に来た。

寝巻き姿のは大きな庭石の上にうずくまって座り、顔を膝にうずめていた。
遠目に、泣いているというよりは泣きつかれているという雰囲気だった。

「そなたの任務は重大だ。よく果たされよ」
張遼は身を屈め、小声で鼓舞して送り出した。






「なうー」

鳴き声に気づいたがゆっくりと顔をあげた。

「なうー」
「・・・おまえ」
「なうー」
「どうしてここにいるの。城から来たの?迷わなかったの?・・・ああ、いい子」

の膝に飛び乗って猫はぞんぶんに再会を喜ばれた。
の声はかれて、まぶたが腫れていた。

「なうー」

猫は飛び降りて、の視線を張遼の足元まで連れてきた。
気づかれて張遼は拱手した。
は困ったような怒っているような難しい顔をして、石の上にとどまった。
張遼が庭に足を踏み入れると、土を踏むザリという音が妙に大きく感じた。
夜は静かだ。

「庭で寂しがっていたので、連れて参りました」
「・・・ん」

目もあわせてくれない。
ずいぶん嫌われてしまったものだ。
昨日したことを考えれば当然といえば当然。

張遼は庭石のはす向かいにあたる縁側に腰掛けた。いつもがそこに腰掛けて、訪れた張遼に微笑みかけた場所である。
猫はが遊んでくれないので、石の下で降りて来てくれるのを待ち構えた。

「誰も門から入れぬようにと申したのに」
「おもては通してくださいませんでしたので、裏から参りますと申しました」
「それならよいと、蘭旬なら言いそうです」
「おっしゃいました」
「裏は壁です」
「壁を登って」
「・・・そうか」



は膝に顔をうずめることをしなかった。
30秒沈黙して、目を合わせずに言う。



「昨日は、すまなかった。身勝手なことを言った・・・そなたが怒ったのも無理はない」
「いえ」

張遼の応答は短かった。
立場を考えたなら張遼が3時間くらいは謝り続けるべきなのだが、今はの話に耳を傾けておくべきだと考えた。

「仲達も将軍もちゃんと考えなさいと言った。正しい。正しいことを言われたから、言い返せなくてあんな態度を」

は陰湿な母君とともに善良な兄弟に支えられ育った。
どちらにも行ける。
でもきっと、もう大丈夫だろう。



「張遼将軍」

語尾に泣き声が混じる。

「わたくし達兄弟はとても仲がよいのですよ。わたくしは嫌いな兄弟など一人もいません」
「ええ」
「本当に、仲違いをしているのはわたくし達ではないのです。後継者争いなんて嘘です。権力争いなんて嘘です。大人たちが勝手に私はこっち派だ、私はあっち派だと言っているだけなのです」
「ええ」
「だって、大人の見ていないところで私達はお菓子をわけあっていたもの・・・っ」
「そうでしょう」
「本当なんです、本当なんです」
「そうでしょうとも」

「・・・でもわたくしは大人になってしまった。わたくしの兄弟も。だから気づかない間に争いをする側になっていたのでしょうか。上り詰めなさいと押し上げる大人達の指から怨念が乗り移ってしまったのでしょうか。わたくしはいやです。兄上の結婚式で歌わされた時だって、あのあとに、みんな、母上達から離れたところでこっそりみんなが慰めてくれた」


の言うことのいくつかは真実で、いくつかはもう嘘になってしまっていると思う。
の異母姉君と見合いをした時、姫の名を聞いた瞬間から居心地が悪そうにして、張遼を射止めんとしなだれかかってきた。あの方もきっとかつて結婚式の後にを慰めた一人で、今は上り詰めなさいと押し上げる大人達の指から怨念が乗り移ってしまった一人であろう。
それを指摘するのは、少なくとも今であるべきではない。




庭石の上、ボロボロと涙が落ちる。
今夜泣き終わったら彼女は一段と美しくなるに違いない。
いま抱きしめにいくのは間違っている気がして、張遼は隠し持っていた笛を取り出してみた。



ピアノならば指一本でひけるような、カエルのうたと同レベルの曲だ。
張コウ将軍に教わってようやくこれだけ
吹き始めてしまってから、これでは元気づけるどころか衛兵が何事かと駆けつけるのではあるまいかと冷や冷やした。
いや、今は何も考えるな
吹く。
指がつりそうになった。
吹く。
音が震える。
吹く。
最後の音の位置に指を動かして、
慎重に
吹く

ピョロ〜・・・

最後、音がひっくりかえってしまった。
音楽は難しい






張遼は唇から笛を離し「はぁ」と小さく息をついた。

いつのまにか姫が目の前に立っていることに気づいた。

は張遼でなく張遼の笛をうつろに見下ろしていた。

「習って?」
「・・・はい。張コウ殿に習って」
「上手ではない」
「なかなか。姫様のようにはゆきませんでした」
「指が堅い」

すいと矢傷を負ったほうの袖が持ち上がって、

「手はこう」

と張遼の笛の持ち方を直した。
の指先はまだ震えがあって気をとられた。
くちづけをされた。
唇はすぐはなれ、姫が仰せになることには

「唇は、こう」
「・・・」
「わかったか、張遼」

声を振り仰げば、は笑おうとして目からボロと涙が落ちて失敗した。
まともに動く左手を小さなぐうにして白い額にあて、袖の奥に顔が隠されてしまった。



張遼は立ち上がりを頭からそっくり抱きしめた。

「明日の朝議の前、曹操殿にお願いに上がります」
「・・・はい」
「家族の絆をつくってゆこう」

途端に張遼の服をぎゅうと握り締めて、張遼の腕の中、小さく一度頷いた。






おしまい



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