張遼軍は引き上げさせた。

夕餉も済んで身体も清め、夕方過ぎれば使用人たちもほとんどが各々の家に帰る。
はぼんやりと縁側に座り、庭を眺めていた。もう足元もおぼつかないほど暗い。

昨日の昼、瑞宮に司馬懿が怒鳴り込んで来た。



「なぜ張遼将軍と結ばなかった!」
「控えよ仲達」
「控えておけるか馬鹿めが!毒を食いすぎて好物にでもなったか馬鹿めが!」
「わたくしは兄弟と諍うつもりはない。張遼将軍は我が身に余る。姉上のどなたかと結ばれるがふさわしい」
「だから譲ると?将軍も今のおまえの言葉を聞けばあまりの卑屈ぶりにあきれて向こうから願い下げるであろう!馬鹿めが!おまえが諍いを避けたいという相手はおまえを殺そうとした者達だとわかっているのか」
「殺そうとしているのは母君だ。わたくしの兄弟に罪はない」
「なぜそう言い切れる」
「信じている」
「それは信じているとは言わぬ。おまえがひとりで信じたいだけだ」

司馬懿は正しかった。

「おまえは本当に愚かだ。おまえがもう子供ではないように、かつておまえを守った兄弟達も子供ではない。己の利益を考える、地位と権力を得るために策を巡らせ、欺き、出し抜こうとする」

これも、司馬懿はきっと正しかった。

「己の利益を考えろ」
そう言って、司馬懿は帰ってしまった。



ぼんやりと月を見上げる。

塀の上から槍の先が少しだけ覗いている。塀の外を守る警備兵だろう。月の光で槍先がチラと光る。
長い時間見ているとその槍先はゆらん、ゆらんと舟をこぐような動きをした。もう夜だから、眠くなるのも仕方ない。
塀の向こうでくしゃみの音がして同時に槍先がまっすぐになった。目が覚めたらしい。
は人形劇を見るように塀の上の槍先を見つめていた。

どれくらいそれを眺めていたか、舟をこいでいた槍はついに塀の上から消えてしまった。
眠ってしまった。別の場所を見回りにいったのかもしれない。
もう眠らなくてはと思ったとき、槍のあった場所に人間の頭ほどの黒い影がぬうっと上がってきた。

影は増え、とかげのように塀の上に這い上がり、姿勢を低くして庭を見渡した。
庭に面した廊下に腰掛けるのはひとり。
影の目と口が薄い弧を作った。
末端から血の気が引く。
土を蹴る音が迫る。



そうか、ここまで憎まれていたか



地鳴りがしたあとは月光の影に入った。
馬のいななきを間近に聞いて目を開く。
見事な艶の黒馬が視界をふさいで、身体から湯気を上げている。風は馬より二拍遅れてようやく今の髪を揺らした。
金属がぶつかる音で意識を弾かれた。

美しい黒馬の向こう、身の丈より長い槍を手足より自在にして、張遼が侵入者を迎え撃っていた。

着地し、賊に向かい立つ。
槍を持つ腕はだらんとして構えていない。
賊は各々二歩後ずさり、互いにチラと顔を見合わせて同時に張遼にかかっ、れなかった。
張遼の正面にいた男が握っていたはずの剣は月夜に高く跳ね、回転しながら落下した。
張遼がいつ槍先をもたげて、いつ踏み込まれて、いつ剣を手放したのか、剣を手放した本人さえわからなかった。

「次は首をはねる」







***



「姫様、ご無事ですか」

張遼は馬をのけ、の足元から頭の先まで怪我がないことを確かめた。
張遼の声も表情もまったく動揺している様子はないのに、無事とわかるとの手のひらを両手で包み込んで強く強く握った。
この動作は「よかった」と心の底から言っているのと同じ意味なのだろうと感じ取ることができた。

できたけれど、どう返せばいいのかには見当もつかなかった。
(わたくしのことばかり、わたくしのきょうだいのことばかり、ひいてはわたくしのことばかり、この人にひどいことを、姿を見て実感に変わるなんて、でも違う、彼は関係ない、関係がなくなるように離宮から遠ざけた、のに二度目死ねと誰かが、どうしてこんな、どれほど憎み、どれだけ)



「・・・わたくしはよい」

最初に出た声はそれだった。
考えるより先に出た言葉だから自分でも何を言っているのか、なにも

「わたくしはよい、から、西の部屋に侍女が」

は張遼の手をほどき、ふらふらと立ち上がると足が動くまま廊下を歩き出していた。
そういえば庭にはもう侵入者の姿はなかった。いつの間に

「お待ちください」

厳しい声、手首が引き止められる。

「向こうには私の兵を行かせてあります」
「・・・そうか、そう・・・では、外の、衛尉の者達の安全を確かめに」

は掴まれた手首を振って張遼を払い、土の上に素足で下りた。
三度目を引き止めた張遼に言葉はなかった。
は強い力で体幹を引かれて、投げ飛ばされたような錯覚さえ覚えた。
実際には投げ飛ばされるどころか張遼の両腕がしっかとの身体を抱きしめていた。

張遼の温みを感じて背筋をゾゾゾと何かさかのぼった。
は自分の心臓が動き出したのを感じた。

「深く息をしてください。落ち着いて」
「・・・っ」
「あせらずに」

声を出そうとして喉がつまった。
口の中がからからになっている。
さっきまでいらぬことをぺらぺらとしゃべっていたのに。
張遼の声はいつものとおり静かで、言うことをきかなくなった身体もまた彼にしっかりと支えられていて、は彼の言うとおり深く息をするよう努めた。

「そうです」
「・・・」
「大丈夫」
「・・・もう、よい。放しなさい」

末端の感覚が戻ってきて素足で立っている地面が冷たいとわかるようになった。
張遼の腕が緩んで結構な力で動けぬようにされていたのだとも気づいた。抱きしめるというよりパニックを起こしていたを拘束していたのだろうと。

「少し混乱していたようです。世話をかけました、ありがとう張遼将軍」

微笑もうと試みたが、頬骨のあたりの筋肉がヒクついてしまったので汗をぬぐう振りをして袖で隠した。
何事か言いたげな張遼は眉をひそめ、緩めていた腕をもう一度きつくした。

「何を・・・ぁ」

の首筋に張遼が顔をうずめて、唇が肌すれすれを這った。
耳元に吐息が触れる

「・・・ぁ、の・・・腕の傷が痛いから、放しなさい」

この言葉を言われては張遼が逆らうはずもなく、腕はゆっくりとほどかれた。
その直後バタバタと、寝巻きの姿の蘭旬が血相をかいて走ってきた。

「姫様!」
「蘭旬、無事でよかった。どこも怪我はありませんか」
「そ、それはこちらのセリフです。あたしは寝ていただけでなんとも。屈強なイケメンに叩き起こされて一瞬幸せなハーレム夢かと」

は張遼の目の前から逃れるように蘭旬に駆け寄り、蘭旬をたたき起こした屈強なイケメン達は張遼へ仔細を報告した。








「そうか。仲達が将軍に」
「はい。司馬懿殿が直前に此度の襲撃をつきとめ、一番足の速い我が隊にと頼まれました。間に合ってようございました」
「・・・仲達が動いたのであれば、確固たる証拠も得られているのでしょう」

笑みは苦笑だった。
泣く寸前にも見えて張遼は言葉をとめた。が泣くことはなかった。
賊は駆けつけた張遼軍によって全員生け捕りにされていた。







***







は自分のことを不幸だと思ってはいなかった

素行凶悪であった母は周りからひどく恨みを買っていて自分を生むと男児でないことに絶望し怒り狂い、宦官に斬られて死んだという。あざけり笑いと共に母君のどなたかが聞かせてくれた。母君達から暴力を受けたり、腹痛や下痢を起こすような毒に始まり、仮死状態になるような毒を盛られたりもした。
曹家後宮はそれを許容した。
一人の男を待つ女達と、男でなくなった宦官達だけが押し込められた後宮という場所は、曹一族の後宮に限らず一種異様な空間だったのである。

標的に選ばれ、せっかく衣食住に困らない曹一族の末裔に生まれたというのに、はちょっと不運だったのかもしれない。
しかし決して不幸ではなかった。
別の女の腹から生まれたきょうだいが味方したのである。
曹丕という兄君は、司馬懿と曹丕一対一の勉強部屋にをかくまった。
宦官に「姫はどこへ行った」と尋ねられると他の子供達は皆「知らない」ととぼけた。
曹植という兄君は、が毒で死んだりすることがないよう、毒をほんの少しずつ食べることを教えた。
毒が効かなくなってきて暴力に出ようとする大人達だったが、子供達は秘密基地で息をひそめてやり過ごした。
やり過ごせなかった時には、きょうだい総出で慰めた。
慰められて最後には笑って一緒に遊ぶのだ。
は不幸ではなかった。
不幸なんていった人を笑いとばせるくらい。

かつて曹丕がいった言葉の通りだ。
「大丈夫だ。おまえに母上がなくとも我らきょうだいの絆がある」
我らには我らきょうだいの絆があった。
あった、はずだった。






***






『曹家後宮の不穏は粛清された』

数日後、司馬懿からに届いた書簡には誰がどのように罰せられたのかは記されていなかった。
粛清されたのが母君かきょうだいか、それすら。



姫様」

ぼうっと文字を眺め続けていたので、書簡を届けた張遼は危うさを感じて声をかけた。
するとはごく短い書簡を閉じて、張遼に小さな笑みを向けた。

「仲達は、目上の張遼将軍に配達をさせる。今度会ったらわたくしから叱っておきましょう」

血色が悪い。頬や首筋は白いを通り越して青白い。
この報せがくるまで、やつれるほどぐるぐると思い悩んでいたのだろう。
司馬懿の言ったとおりだと張遼は思った。
書簡を預かった時、司馬懿はについて司馬懿の知るほとんど全てを話して聞かせた。
(きょうだいに支えられて優しく育ったこと。頑なにきょうだいの絆を守ろうと意地をはる、子供っぽい振るまいのこと)
張遼の想いなど、なるほど二の次にされたわけである。
怒りたい。

「お顔が真っ青に」
「よい」
「ですが」
「これ以上かまうな」

は立ち上がり、部屋の扉を開いて張遼に示した。
帰れ
そう促されているとわかる。

「司馬仲達に会ったなら、毒矢から一昨日までの一件についてその発端も聞かれたでしょう」
「・・・は」
「聞いたとおり、此度の件はわたくしと張遼将軍が結ぶことを良しとしない曹家の者どもの仕業です。もう、なんだか、面倒じゃ」

吐き捨てる。
張遼は思った。
は今危うい場所に立っている。
は陰湿な母君とともに善良な兄弟に支えられ育った。
はどちらにも行ける。



張遼は静かに立ち上がり、扉の前まで行くと部屋を出ずに扉を閉じた。

「黙って毒を飲めば万事丸くおさまると、陶酔に浸っておられるのか」

危うい目が張遼を睨みあげる。

「恐れながら申し上げる」
「言うな」
「自分をないがしろにすることは美徳ではないと存じます。考えるのを浅いところで諦めているだけだ」
「無礼者!」

の右手が振り上げられたから右手の手首を捕まえた。
左手が振り上げられたから左手を捕まえた。
両手をふさがれ、身をよじって振り払おうとしたので壁に押し付けた。

「・・・っ」

身をよじることもできないように身体を密着させる。

髪飾りを唇で食んで引き、兄君から賜ったというリボンはほどけて床に落とした。
結い上げていた髪がおりる。

「ぁ」

張遼の膝がふとももの間に割って入るとはっきりとうろたえた。

「怖いですか」
「放しなさい、張遼」
「お身内大事と毒殺を恐れぬ姫君に、これが怖くはないのかと伺っております」
「怖くなどない」
「手が震えておられるが」
「それは毒のせいじゃ!・・・っ、放せ」
「左手も毒を?」
「知らぬ!放せ、放せっ」

触れる箇所が、だんだん冷たくなっていく。
そのかわり首と心臓は早く脈打っていく。
は張遼の顔を見ぬように床に向かって「放せ放せ」と吐き捨てている。
腕をあげようとしても下げようとしても身をよじっても張遼が動かないと知るとやがて抵抗は弱まった。急所に膝でも来るだろうかと思えば、布越しに細い膝が笑っている。立っているのもやっとか。
唇を寄せる。

「あなたの身ぐるみも化けの皮もこの場で剥いでしまいたい」



唇が触れる寸前で小さな身体がビクンと震えた。
―――わたくしはこんなふうに斬られたら、すごく大きな声で痛いと言ってしまうと思います
ちっとも、言ってくれないではないか

張遼は身体を離し、それ以上なにもせずに瑞宮を出ていった。
放された途端には壁にそって崩れていき、しどけなく床に座り込んだ。



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