張遼は突然に瑞宮警備からはずされた。
わざわざ曹操から呼び出されて告げられ、張遼はその理由を尋ねた。

「昨晩遣いが来てな。のたっての願いだそうだ」

張遼は動揺を表情にも声にもあらわさなかった。
曹操と交わしていた視線をわずかに下へ直したくらいである。

「あれがわがままを言うのは初めて聞いた」

言いながらも曹操は文官から書簡を渡されては何事か指示し、また別の書簡を渡されて読んでいる。
昨日好きだと告げて、今日これである。これは振られたと見るべきか。

「なにか機嫌をそこねることをしたか、張遼よ」

言葉が見つからず、しかし書簡を持った官僚が曹操の横に列をなしているこの場で長々経緯を説明するのもふさわしくない。(経緯を説明しても結論づけることができない)

「まあ、よい」

張遼が珍しく決断力に乏しい態度を見せ、曹操はそれを面白がるふうであった。

「あれの機嫌が直ってからもう一度会え。それまでは、悪いが別のわしの娘達が会いたがっている。もうしばらくモテてもらうぞ」

また別の書簡が運ばれてきて「下がってよい」と声がかかる。
張遼は速やかに退室した。
曹操は「娘に何してくれとんじゃワレ」という態度ではなかった。むしろ「喧嘩するほどなんとやら」とにやにやする態度だった。
「喧嘩」と心で呟いてひとり首をかしげる。
はたして喧嘩しただろうか。いやしていない。
「張遼様」
本当に振られたのだろうか。
こちらばかりが姫との未来を思い描いて高ぶって、姫が迷惑がっているのを見落としていたのだろうか。
「張遼様」
衝撃だった。
剣の稽古をつけてやると不機嫌な呂布殿に言われて相手をしたら、開始3秒でボディーブローされたあの時の感覚が一番近い。

「張遼様ったら」

「・・・失礼いたしました」
「なにか悩み事ですか?わたくしでよろしければお聞かせくださいまし」
―――もしわたくしに話して楽になるのならそうしてほしい
両肩に置かれた手のひらを思い出す。
―――ここは休憩をするのにはちょうどぴったりの離宮なのです
ね、と姫は微笑って、愛しかった。

「いえ、なんでもありません」
「そのようにつれないことを仰らないでくださいませ、わたくし、張遼様のお力になりたいのです。聞かせてください、どうか」

と話したのと同じ庭園の休息所での異母姉君とお見合い中だ。
張遼の力になりたいと言って張遼の手に手を重ね、恥らうように俯いた。鮮やかに彩られたまぶたを上から覗き込む格好になった張遼は、姫とはあまり似ていない、とかぼんやり考えていた。

「なう」
「これは」
「あら、どこから入ったのかしら、猫」

張遼は思わず声をあげる。足元に猫がきていた。姫の猫だ。
両手を伸ばして張遼は猫を膝の上まで持ち上げた。に教わったとおり顎の下を撫でてやると猫は気持ちよさそうにして、張遼の膝の上をしばしの住まいと決めた。異母姉君は妹御の猫とは初対面のようだった。

「張遼様は猫がお好きですのね」
「ええ、最近になって」
「そうですの。意外ですけれどそんなところも魅力的でいらっしゃいます。扱いもお上手で」
「以前様に教えていただきました。こうして」
「え」
「よし、よし」
「・・・」
「おまえ、少し痩せたのではないか」
「・・・」

張遼の腕にぐにと柔らかいものが押し当てられた。
異母姉殿がもたれかかってきたので、猫は張遼の膝から逃げて行った。胸の谷間あたりに左腕が埋もれて、異母姉殿は赤い頬、潤んだ瞳で張遼を見つめた。張遼は尋ねる。

「どうかされましたか」
「・・・少し、気分が悪くて」
「それはいけません。宮へ戻りましょう」

張遼が立ち上がると、むこうの足がもつれた。
倒れる前にがっしりとした張遼の体に抱きとめられる。

「立てますか」
「あぁ・・・申し訳ありません、張遼様・・・足がすくんで」

立てないそうで、豊満な胸を張遼の厚い胸板で押しつぶす格好を継続した。

「失礼」

張遼は彼女を抱きかかえて休息所を出た。
彼女が心の奥底でガッツポーズをした。のも束の間、

「お加減が優れないご様子だ。典医のところまで頼む」
「まあ大変」「お気を確かに」「風邪かもしれませんわ」
「御身お大事に。では私はこれにて」

貴婦人の玉体を控えていた三人の侍女に引き渡し、張遼は一礼を残すと庭を出て行った。



***



練兵場、
ドォンと音がして向こうのほうで何人か吹っ飛ぶのが見えた。

「惇兄ぃ、ありゃあ張遼の軍か?一段と気合はいってんなあ」

痛そうな音を立てる張遼軍の訓練を見て夏侯淵がアチャーという顔をする。
夏侯惇は含みのある笑い方をした。

「ふん。一日に孟徳の娘四、五人と見合いさせられてるらしいからな」
「殿の娘と見合い!?そりゃあストレス溜まりそうだなあ。じゃああれ八つ当たりか」
「いや、手本のような正しい練兵をしている」
「張遼将軍の半分は自制心でできています、ってか」

感心した夏侯淵が唸る。
しかしふと首をかしげた。

「あれ?そいやあいつ殿んトコのなんとかっつう姫さんとねんごろなんじゃなかったっけか。姫さんがなんとかっつう離宮に移ったら、その離宮の警備を申し出たとかって」
「振ったか、振られたか」
「まっさか!張遼振る女なんかいるわけが」

ドォンと音がして、また向こうの方で張遼軍の兵士が空高く吹っ飛ぶ。

「・・・振られたかな」

夏侯淵は張遼軍の方向に向かって手を合わせた。



その後、張遼は一人で悩んでいてもの考えがわかるわけではないと思い、彼女の師である司馬懿に相談しに行った。
「司馬懿様は外出されています」
というわけで、夏侯惇と夏侯淵は翌日もまた練兵場で張遼軍がドォンと吹っ飛ぶのを見かけるのだった。



***



夕暮れ時、
人目につかない宮廷の一角で女官がこんな声を聞いた。

「嗚呼!張遼殿、そのように強くされては」
「強くしているつもりはないのだが。これくらいではいかがだろうか、張コウ殿」
「嗚呼!嗚呼!さすがです、張遼殿。飲み込みが早くておいでです。嗚呼!そのなめらかで華麗な指さばきは大変魅惑的ですが、穴をなぞる時はもっと、こう・・・」
「・・・こう、だろうか」
「嗚呼!華麗に素敵!素敵に無敵!」

聞いていた女官は、張コウ将軍と張遼将軍の悩ましい声の方の覗き込む勇気はなくて、

(ままま真昼間から将軍のスケベ!張コウ様も張遼様も清潔そうでカッコイイから好きだったのにっ!ひどい!変態!最高!)

とスキップしながらその場を離れていった。



張コウは「嗚呼!」という感嘆詞を多用する以外は、優れた横笛の師匠となってくれた。
張遼の勤勉さ、肺活量と腹筋が備わっていたのもあいまって、数時間の間に簡単な曲が一つ吹けるようになった。
とはいえピアノで言うと、一本指で弾く「かえるのうた」ができるようになったレベルだ。

「ところで、張遼殿ともあろうお方がどうして笛を」
「・・・ある方の気をひきたい、という不純な理由です。正直なところ、何をしたら良いのかわからなくなりまして笛など手にとってみたのです」

珍しく張コウが目を丸くして言葉を失った。
その表情を見て、やはり似合わないか、と張遼は苦笑する。

「ですが、音楽の道とは武の道と同じかそれ以上にけわしいと思い知りました」

はは、と小さく乾いた笑いを張コウに向けると、張コウがそっていた。
そって

・・・そって?

張コウは背中をエビぞりにし美しい弧を作り、静止。
かと思うと爪先立ちのまま高速で張遼の周りをスピンした。
戦場でも感じ得ない種の恐怖を感じて硬直していると、エビぞり高速スピンをピタと止めた張コウは、両手で張遼の手を握った。

「美しい!」
「・・・お、お気持ちは嬉しいのだが、心に決めた方がおりまして」
「嗚呼!愛!」
「はあ」
「なんと美しく切ないお話でしょう。この張儁乂、美しき張遼将軍の美しき恋物語のためならば一肌も二肌も下着さえも脱いで協力いたしましょう!」
「で、できれば下着は着たままでお願いしたい」
「それで、将軍の心を射止めた美しい私、いいえ、美しい方というのはどなたです」
「え」
「どなたです!!」
姫様です」

勢いに圧されて思わず言ってしまった。
隠すことでもないと思うが、周りに言いふらすべきことでもない。
また張コウがそった。
そった背中がバネのように跳ね返ってきて、顔をものすごく近くに寄せられた。

「嗚呼!姫!あの姫!曹家随一、すなわち都随一ともうたわれる美しき姫君!嗚呼!あまりに美しくてゾクゾクいたします!嗚呼!」

どうやらエビぞりは感激した時の表現らしい。
あと声でかい。



「あの、あのぅ・・・張遼将軍」

「あぁ!あぁ!」と叫び続ける大興奮の張コウの声の合間をぬって、一人の文官が張遼に恐る恐る声をかけた。
張コウが高速スピンしているすきに張遼は彼の元に行った。

「あの、お忙しいそうなところ申し訳ありません」
「いや、何か」
「は、はい。司馬懿様が張遼将軍を探しておいででして、火急の件だそうです」
「火急?」
「用件は司馬懿様から直接将軍にとのことで、存じ上げないのですが」
「そうか。すぐに参ろう」
「司馬懿様は執務室でお待ちです。ご案内いたします」
「頼む」

スピンしている張コウに拱手をして、早足にその場をあとにした



<<  >>