趙雲が妙な娘を伴って幕舎へ戻ってきた。

その数刻前、幕舎では戦の勝利に呑めや歌え、踊れや吐けの大騒ぎであった。
張飛に勧めらるまま酒を飲みすぎた趙雲は、酔い覚ましに近くの森の小川へ行くと告げるとその場を離れた。
今宵は満月、夜だというのに足元も明るく、外套を羽織るとたった一人で行ったのだった。

帰ってきたときにその外套を羽織っていたのは趙雲ではなく傍らの娘で、外套がすっぽりとその身体をおおっている。
出ている部分は首から上と足首から下だけだが、肌は月光のもとに白く発光しているように見えた。
髪の色さえよくわからない。馬超は兵の頭の上から顔をだして娘をよく見ようと目を細めた。
月が明るすぎるせいか、何もかも白灰色に見えてしまう。

呑めや歌え、踊れや吐けの大騒ぎが一瞬でしんとしずまった。
趙雲はばつが悪そうに頭をかいてそっぽをむいている。
傍らの娘は宴会中のつわものどもを見渡して目をぱちくりとさせている。
沈黙を突き破ったのは張飛の大声だった。

「おうぃーい趙雲!戻ったな戻ったなコノヤロウ!」

完全に酔っ払って顔は猿のように真っ赤、足は千鳥足、腕にはなおも酒筒をふたつ持った張飛が躍り出てきた。
張飛は趙雲の前まで危なっかしくやってきて、趙雲の胸に酒樽を押し付けた。

「ずぅーいぶん長ぇ小便だったじゃねえか!だしたら飲む、飲んららだす、さあ飲むぞ!」

呂律の回らぬ張飛の下品な言い様に趙雲は慌てた。張飛は傍らの娘の存在に気付いていなかったが、いま気付いた。
「お」と目を見張る。
「張飛殿」と趙雲はなんとかこちらに視線をもどさせようと声をかける。千の敵を前にしても怯まぬ趙将軍が狼狽を見せている。

「おお」
「もしもし」
「おおお!」
「張飛殿っ」
「なんだこりゃ!美人だこりゃ!天女さまの郭でもこの辺にあったってか」

娘の目の前で大声を張り上げる張飛に危機感を覚えた趙雲はかばうように娘の前に出た。
う、酒臭い。と一瞬怯んだが主君の義兄弟に強いことはいえない。

「よさんか翼徳」

義兄弟のひとり、関羽がやってきてあきれたように張飛をいさめた。
趙雲は関羽に目礼で感謝を述べ、無言で頷いて返した関羽の後ろからもう一人現れる。

「皆、我らの勝利を祝いに天女様がおりてきてくださったぞ。さあ宴をつづけよう!」

途端、勝ち鬨のように明るい声が広がって再び宴会がはじまった。
杯を酌み交わす音と笑い声とどこからか太鼓と笛の音が響いてきて、皆の意識は天女さまからすっかり宴のほうへ戻っていった。
機転を利かせてくれた主君に趙雲は礼を述べた。

「よいよい、事情は天幕で聞くから。娘さんをいつまでも裸足でおくわけにもいくまい」

娘は枯葉の上に真白い素足で立っていた。



関羽に酔いつぶれた張飛をまかせ、天幕まで案内される途中、じっと劉備を見上げる娘に劉備は子供にそうするように笑んでみせた。
すると娘もにこりと微笑んで返したが趙雲はそれを無礼と思って主君に詫びた。

「かまわんよ、きれいな娘さんに笑ってもらえていやな心地がするものか」

劉備は軽く笑った。
娘は外套の下が裸だというので月英に娘の着替えを任せて別の天幕へ、諸葛亮の天幕には劉備と趙雲が座した。

「・・・実は、さきほど」

趙雲は重い口をひらいた。






趙雲は飲みすぎを自覚して張飛の勧める酒から逃げるように小川へ向かった。
月明かりの下で足元は明るく、木々の影と光が交互に道に落ちている。山は神聖な空間に見えた。
吐く息は白い。
趙雲は満月を見上げた。きれいな白い月だ。
濃紺の夜空には幾千、幾万の星が。

「あ」

流れ星を見た。
しかし動きが妙だ。月のあたりから一直線に下へ落ちてくる。
落ちてくる。
来る

森に落ちた!

趙雲は子供のように興奮して光の落ちた方角へ走った。そう遠くないはずだ。倒れた木を跳び越えて、盛り上がった木の根をくぐって枯葉を踏み分ける。だんだんと周りに並ぶ木立の幹が太くなっている。

樹齢何十年であろうという木々を通り抜け、
樹齢数百年の木々を仰ぎ見、
樹齢数千年かという大樹にたどり着く。

興奮した身体は熱く、逆にあたりは冷たく澄んでいる。吐く息は先ほどよりもずっと白い。

「たしかこのあたりに」

趙雲はあたりを一周見渡して、空の光がどこかに落ちていないか探してしまった。どこにも光を見つけられず、少し恥ずかしくなった。
帰ろうと踏み出したとき、水のはねる音がした。
いや耳を澄ませ、聞こえるではないか。
何かが水の中で動く音だ。
熊か、
狼、
あるいは大きな魚。
いや、でも、きっと

”動物”という可能性が大いに考えられるのに、あの落ちた流れ星が水の中にいるのだとそんな気がした。
そうであってほしかった。
趙雲は念のため短刀に手をかけて音のほうへ進んだ。大樹を三つ通り過ぎたところで眼前の窪地に小さな泉を見つけた。
窪地の上から泉を見下ろすと秘密基地を見つけたような幼い喜びがあった。
湖面は月と夜の色を溶かした蒼だ。
趙雲は独り感嘆した。

「見事だ」

不意に湖面が揺れた。
―――泉の化身に違いない
心が躍った。

水の中から一糸纏わぬ白い裸体が現れて月光に照らし出された。
趙雲は自分の心臓が跳ね上がって喉元まできたのを感じた。
慌てて心臓を元の位置まで押し戻して背を向けた、ら、すべった。

「わっ!」

五虎将軍のひとりはいとも簡単に窪地へと転がり落ちた。
斜面の中腹でなんとか若木にすがって池ポチャを免れ、すがった若木の枝に垂れ下がっていた布を掴んで立ち上がる。

このとき彼は非常にまずい状況におちいっていた。
女性の沐浴を覗き見て、こっそり立ち去るどころか盛大に転んで存在をバラしてしまった。
もとより女性の扱いが不得手な趙雲であるから動揺と羞恥と罪悪感もひとしおである。
趙雲は泉におそるおそる目をやり、女性がこちらを向いているのを目の端で確かめるとそれ以上見ないよう視線を足元へやった。
女は乳房や下肢を隠そうというそぶりさえない。

「申し訳ありませんっ。お、音がしたものですから何事かと思いまして」
「・・・」
「その・・・み、見てません!あ、いえ見たのですけれどほとんど見ておりません!ああ、だからその」

趙雲は自分の語彙の乏しさと表現力の非力さに絶望して顔に流れる冷や汗をぬぐった。
手に、
さきほどつかんだ布を掴んだまま趙雲はあれ、と思ってその布を見直した。

薄くてきらきら光っている。

月明かりに照らされて反射しているのではない。
その布自体が発光しているのだ。

「え・・・」

趙雲はその不思議な布を広げて見る。着物だ。しかも女物。とすれば思いつく持ち主は泉の裸体の人以外ない。
二重三重の失態に趙雲は顔が赤くなるのを通り過ぎて青くなった。


「こまったこと」


まったく困ったふうでない涼やかな声は趙雲の目の前からだった。
上げかけた視界に女のふとももが映って顔をそむけた。
いつの間にこんなに近くに寄られた。
もう数歩の距離である。
趙雲の視線は女の足首とむこうの森の間をいったりきたりしていたが、意識は完全に別の方向に吸い寄せられていた。彼もまだ若い。
女がゆったりと言う。

「その衣はこの世の人間に触れるとたちまちに、ほら、砂に」

趙雲は手のひらにあったはずの布の感覚が一瞬で細かい砂になったのを感じた。
見れば手のひらに残ったのはわずかばかりの砂だけで、あとは足元に小さな砂山をつくって着物は消えていた。
しかし、女の声にはまるで慌てるそぶりがない。

「衣がなければわたくしは向こうに帰ることもかないません」
「は、はあ・・・、申し訳ありません」

趙雲は女が何を言っているのかわからなかったがとりあえず謝った。
どうやら自分のせいで家に帰れないといっているらしいから。
いや、お嫁にいけないとか、そういう意味かもしれない。

「かまいません、わたくしはずっとこちらに住んでみたいと思っておりました」
「あ、あなたはどこか遠い土地の方なのですか」
「そう。とおいところです」
「服を台無しにしてしまったようなので、とりあえずこれを」

趙雲は女のほうを見ないように自分の外套を差し出した。

「ありがとうございます」

女は受け取るとそれを趙雲がかけていたのと同じように羽織った。
着込んだらしい布すれの音を聞いて、趙雲はようやく女の方を向いた。

「ままま前を閉じてください!」

女は上着の前をひらいたままだったので胸の輪郭や腹や、その下まで趙雲は目の当たりにしてしまった。

「とじました」

五虎将軍のひとりはその声に深く安堵の息をおとしてから、改めて姿勢を正して娘に頭をさげた。

「・・・それはどういう意味があるのですか」
「女性に対し、色々無礼をはたらきましたので」
「そう、こういうふうにするのはそのような意味があるのですね」

娘は趙雲を真似るように頭を下げた。
趙雲は怪訝に思って娘を見つめ、赤面した。
ものすごい美人だ。
趙雲はこれ以上の醜態をさらさぬ為に自らの理性を奮い立たせた。
美人だが子供だ、子供。これは童だ。
自分に言い聞かせる。

「無礼をどうかお許しください。お詫びに家までおくりましょう、こんな夜更けにおひとりで出歩くのは危険です。お住まいはどちらですか」

娘は上を指差した。
山の上ではなく、まっすぐに上である。
垂直方向に上である。

「衣をなくしたから人の力では帰ることはかないません」
「そんな。天女ではないのですか、ら・・・」

趙雲は天女という言葉を使った。
その言葉でここまで彼が疑問に思ったすべてが解決すると気付いてしまう。
月から落ちてきた光を見つけてそれを追いかけてこの娘を見つけた。少女の衣に触れると衣は砂になってかききえて、娘は衣がないと天に帰れないという。
趙雲はまずいことをしたのである。
彼は沐浴を覗いてしまったことをまずいと思った。
しかし実際もっとまずかったのは天女の羽衣に触れたことで、天女が天に帰れなくなってしまったことだった。






「かくかくしかじか、というわけでして・・・」

趙雲は恥ずかしさをこらえて、ありのままに劉備と諸葛亮孔明に伝えた。劉備は神妙な顔でなにか思案するように腕を組んで聞いていたが、話がおわると大きく頷いた。

「趙雲、おまえの言わんとするところはしかとわかった」

「おお、殿!信じていただけましたかっ」

趙雲は理解ある主君に感激して声をあげた。
劉備はにっこりと微笑んでうなずき、趙雲の肩に手を置いた。



「彼女を愛してしまったのだね」



趙雲は感激した表情のまま凍りついた。

「わかる、わかるぞ。おまえもまだ若いから一目ぼれくらいそれはするだろうね。うんうん、あんなにきれいな娘さんだ、
無理もない。娘さんはだいぶお若いようだから親御さんにはよくご挨拶をしたほうがいいぞ。だがこの時代だ、親御さんがなければ私が喜んで後見人となろう」
「・・・と、殿。ですからあの方は天女で」
「そうだとも。おまえにとっては心に舞い降りてきた天女だろう。だがな趙雲、そんなにいっぱい言い訳を作らなくても私はおまえの恋愛は諸手をふって応援するぞ、なあ孔明。そうだろう」

諸葛亮は口元を扇で隠したまま目元だけ笑って見せた。
趙雲は白くなった。
これはもう、絶対信じてもらえてない。信じてもらえる気がしない。

だって殿がノリノリだ。

ノリノリだ。




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