趙雲は自分の邸(やしき)で頭を抱えた。
成都に戻ってきたのはいいが、例の天女さまは結局、

“趙雲が一目ぼれした想い人”

と劉備が思い込み、その思い込みが関羽に伝わり張飛に伝わったあと全員に伝わった。
“恋人”ではなく“想い人”という表現になったのは趙雲が恋人というのを全否定したからである。

「違うんです。絶対違うんです。ご本人にも聞いてみてください、絶対違うって言いますから」
「またまたぁ、照れるなって」

凱旋の帰途、馬超にそんなふうに小突かれて趙雲は嘆いた。
憤りで赤くなった顔は”恋をして頬を桃色に染めた”と形容された。
娘は一向と同じく都へ行くことになった。というのも以下のようなやり取りがあったからである。

「娘さん、親御さんはどちらにいるのだね」と劉備は尋ねた。
「おやごさん」と天女は首をかしげた。
「ご両親はいらっしゃらないのか?」
「わかりません」
「おお、おお・・・そうか。それはすまないことをきいてしまったね」

劉備は眉根を悲しげに寄せて、娘の頭を撫でた。聞いていた趙雲は劉備の勘違いに物申したかったが昨夜から何度「あの方は天女なんです!」といっても「うんうん、おまえにとっては天女だというのはよくわかったよ」と切り返されてしまい、諦めさえ感じていた。

「名前はなんというのだい?」と劉備は尋ねた。
「なまえ?」
「嗚呼・・・名前さえもつけてもらえなかったのか。つらい思いをしたね」

劉備は涙ぐんで娘をだきしめたのだった。





「趙雲様、頭がどうかしたのですか」
「・・・いえ、べつに」

傍らで寝巻きに着替えた娘が頭を抱える趙雲に声をかけた。
あの出会いから二日後、都に到着した。そして劉備の優しい気遣いという名の勘違いによって天女さまとひとつ屋根の下に住まうことになった。

「天女さま、その、いつ天にお戻りになれそうですか」
「上の者たちはみなのんびりしておりますので、迎えに来るのはいつになりますか」

と、やはりのんびりと答えた。

「自力で帰ることはできないのですか」
「羽衣がないことには舞い上がることができません」
「その節は・・・ほんとうにすみません」
「いいえ、先日も申し上げましたとおりわたくし人間になってみたいと常々思っておりましたからとてもうれしいです」
「天女様は羽衣がないと人間とかわらないのですか」
「人とたくさん触れ合うと人に近づくようです、そう、先ほどはじめて厠というものを使う体験をいたしました。身体の中が人間に近づいている証拠だと思います」

美しい姿から厠という言葉が出て趙雲はわずかに赤面してしまった。

「人の身体に近づけば近づくほどきっと上の者たちはわたくしを見つけるのが難しくなります。今はまだほら、透き通る」

天女が言うと、
彼女の姿は
水のように

透き通った。

人の形をもった水だ。
決して人ではない。
人の形を模したなにか。

”異形”という言葉を思いつき趙雲はぞっとした。
これは人間ではない、と背筋の悪寒が地を這うような声で告げる「おやめくださいっ」と趙雲は咄嗟に言った。
「なにを」と悠長な声が返る。

「すきとおるのを!」

声を荒げた。天女はもとのとおり美しい女の見てくれに戻った。
もし、
いまの姿を誰かほかの人間に見られでもしたらどうだろう。
”化け物だ”
そう叫ぶだろう。

―――化け物だ

自分は恐ろしい化け物を成都に引き込んでしまったのではないか。

「天女さま、ほかの誰の前でもいまのようなことをしてはなりません」
「すきとおることですか」
「そうです。ほかにも人間ができないことをしてはいけません」
「火をつくったり?」
「・・・そ、そうです」
「角をだしたり、牙をだしたりも?」
「絶対に、絶対にしないでいただきたい」

そんなことまでできるのか。
化け物め
疑いようもない、牙を生やして角をはやした炎の化身の姿になるのだ、コレは

「なぜ?」

化け物は首をかしげる。
吸い込まれるような深い色の瞳を見開いて趙雲を見ている。

いや、

観察している、
様子をうかがっている、
飛びかかる機会を見計らっている

猜疑心は増幅し、趙雲は無意識に懐の短刀に手をかけていた。いつか主君に牙をむくかもしれない。
人外の力で都を焼くかもしれない。コレは、攻撃すれば死ぬのだろうか。心臓が低く慟哭する、息は不思議と整っている、伏せて敵を狙い、襲い掛かる刹那に似ている。魔物は悠然と笑っている。
否、哂っている。

カラン、と

趙雲の鞘が乾いた音をたてて床に転がる。
「女」を「殺す」と思うのは間違いだ。
「化け物」を「退治する」のだ。

化け物の腕を掴み、おもむろに
ひとすじ
裂け目を刻む。
趙雲は冷徹にその様子を見下ろした。

化け物の白い腕
裂け目
裂け目から顔をだすのは悪霊か、
怨霊か、
異形の叫び声か

一瞬あとに赤い血玉がぷつりぷつりと現れる。

心臓がどっとひとつ打った

コレなら始末できると本能が叫ぶ
短刀を振りかざした
殺せる。コレならば殺せる。首を狙え。魔物は首を落とさない限り這いずり回るから



「あ・・・」



澄んだ声だった。
娘は傷口を凝視したまま動けないでいた。
趙雲に視線が向いた。

「これは、なんでしょうか。変な感じがします、なにかわからないのです」

娘は苦痛に顔をゆがめている。
血の漏れ出す傷口を片方の手のひらでおさえつけるが傷に直接触れた痛みにびっくりして放した。

「どうすれば、どうすれば」
「痛いのか」

趙雲は自分でやっておきながら驚いたように尋ねた。

「・・・いたい?」

娘は不安の中で震える言葉で音をつむいで、首をかしげた。
泉で趙雲が頭を下げたとき、その行動の意味を尋ねたのと同じように首をかしげた。
“おやごさん”の単語の意味を劉備に尋ねたときと同じように。
趙雲が透き通ってはいけないといったときと同じように。

「いたい・・・」

娘は自分自身に学習させるようにつぶやいた。
血をおそるおそるなぞる。

「痛い」

血をすくい上げて
見つめ
つぶやく

「痛い、痛い」

くりかえす

「趙雲様、いたい」

娘は両手を趙雲へ伸ばした。
とん、と
血の一滴が床に落ちた。
趙雲は無意識に一歩後ろへ下がってしまった。かかとが落とした鞘にぶつかって、一瞬視線をはずした。
すぐに視線を戻すと、娘は伸ばしかけた腕をゆっくり下ろして

ふっと透き通った。

墨汁を水に一滴落としたように薄まって、それなのに血だけが鮮やかに赤い。大きく見開いた娘の瞳は趙雲を真正面に見据える。
その様子が大怪我にびっくりした子供のようだと趙雲は思った。
痛みより衝撃にびっくりして一瞬の沈黙の後泣き出す、そんな様子に似ていた。

「かえる」

わずかにひらいた唇の隙間から零れ落ちるような声音だった。
途端、
透き通った娘の身体は人間の厚みと大きさを失って閉じた窓の隙間から外へ一気に流れ出た。
流れ出たのだ。

趙雲は反射的に短刀を掴みなおして身構えるが意味はなかった。
部屋は自分ひとりが刀を持って身構えていて、それ以外に人の気配はない。
窓の外を見ると夜が広がっている。
透き通った乙女の姿はもはやどこにもなかった。
垂れた血の一滴は床に残っている。

「なにが、どうなっているんだ」

あれは天女ではない、妖だ。ばけものだ。だが、まるで子供のように怖がって

「かえるって・・・どこへ」

羽衣が砂になってしまったから迎えが来るまで帰れないといったのは、妖のついた嘘だったのだろうか。
嘘だ、きっと嘘に決まっている。人間をばかしにきたのだ。
ではどうして刀を向けられて逃げなかった。
炎をだしたり牙をだしたりできると言っていたのに、どうして焼き殺そうと噛み殺そうとしなかった。
ただ透き通るばかりで「いたいいたい」といって泣きそうな顔をするばかりで。
こちらへ向かって手を伸ばした。
いたい、と。
手をとることを拒絶すると、「かえる」とつぶやいた。
どこにも帰る場所などないのに。
頭の中でめまぐるしく思考して、気付けば外套を掴み、馬を駆って邸を飛び出していた。






都の治安は安定しつつある。
しかし、こんな夜更けに若い娘がひとりで歩いていてはどんな場所だって安全とはいえない。
彼女が透き通っていない人間の女性の姿だったら、あっというまに悪漢に襲われて尊厳を奪われるだろう。
彼女が透き通っていたら、見つかった途端、守衛兵に追い立てられ退治されてしまうだろう。

やみくもに馬をはしらせるが小さな娘の姿はどこにもない。
一旦馬をとめてあたりをみまわしてもひっそりと静まり返った軒が立ち並ぶばかりだ。
明かりはない。
人もない。
町外れの小川まで行ってみたも手がかりはなにひとつない。
焦りがつのり、額の横をいやな汗が流れていく。
川はざわざわと、立ち尽くす趙雲をおきざりに流れ続けている。馬は急に夜に走らされて疲れたのか川の水に口をつけはじめた。
河川敷で趙雲はついにうつむいた。水面に顔が映る。
月のあかりのせいで情けない顔がよく見えた。
落とした視線の先に、石がある。
丸みを帯びた石の表面に不可解な点を見つける。なにかと思って指先で点をなぞると点はのびて指にも付着した。目を凝らす。
水、ではない。
趙雲は弾かれたように顔をあげた。
目を凝らせ
耳をすませ
神経をとがらせよ。
指についたこれは血だ、まだ乾いていない
まさか川に落ちた、あるいは川の向こうの林へ?町のほうへ戻

だまらせろ 腕をおさえておけ

声だ
言葉だ
聞こえた
趙雲は馬をおいて林に跳び込んだ。
鬱蒼とした針葉樹の木々の間に、何者かがうごめく音がする。
せせら笑う声だ。
数は三、四、五、
布擦れの音がする。
薄笑い、下卑た声、それから

「いたい」

跳びこみ躍りかかった。
木の幹を半円に囲むよう群がっていた男たちのうち、一振りで二人の足を薙ぎ払う。同時に別の男の頭に外套を投げつけて視界を奪った。
足首を失った二人がもんどりうって枯葉のなかに倒れこむ。

「なにしやがんだテメッ!」

ひっくりがえった声をあげた男は懐から短刀を取り出して趙雲に向けるが鞘におさまったままである。
それに気付き青ざめた男が鞘をとるより早く、頚椎に手刀をうけて前に倒れた。

趙雲はここまでの動作に一呼吸さえ要さない。

残るは二人
一人は趙雲の外套を顔に巻きつけられてそこから顔をだそうともがいている男、一人は・・・
木の根に女を開いている、男
呆けたように趙雲を見上げている。

激昂した。

外套からようやく顔をだした男は仲間の首が胴と放れる瞬間を目の当たりにした。
鮮血が噴出す寸前で趙雲は娘を抱きこんだ。
趙雲の頬には血飛沫がぱっと散ったけれど、娘はすこしも血濡れることはなかった。
最後の一人はまなじりを裂けんばかりに見開いてそこに立ち尽くしている。
趙雲は背を向けたまま、声だけが地を這う。

「失せろ」













河川敷まで出ると月の明かりがまぶしい。目が痛い。
肌蹴て娘の胸の輪郭が露になっている。
趙雲は抱きかかえた娘にかける言葉を知らず、黙って衿を正してやった。
目は見れなかった。

「いたい」

趙雲は目を閉じた。耳も閉じてしまいたかった。

「・・・いたい?」
「すまない」
「それはいたい?」

その声がなぜか問いかけているように聞こえて趙雲はゆっくりと彼女に視線をもどした。彼女は透き通っていない。
人の形をしている。人の声。人の柔らかさ。人のぬくもりだ。

「おろしてください」
「立てますか」
「はい」

娘は河川敷に素足で降りると屈んだ。やはり痛むのだろうかと思って趙雲も屈み、娘を覗き込んだ。
すると突然、趙雲の頬に彼女の手のひらが伸びてきた。
川の水で濡らした彼女の手のひらが趙雲の乾いた頬にあてられて、ゴシゴシとこすっている。

「こうすると、いたいが落ちていきます」

趙雲の頬には先ほどあびた返り血が飛び散っている。
娘はまた手を水に浸してから趙雲の頬をこすった。「血」が「いたい」の正体であるとでも思ったらしかった。

「さきほどここでわたくしもいたいを落としました、水で落ちると趙雲さまはご存知でしたか」
「・・・あなたは、どこが具合がわるくないですか」
「いいえ。もういたいは落ちましたもの」
「さきほど、あの者たちが乱暴をしたのではありませんか」
「このあたりとこのあたりをさわられて、木の皮でほらここにいたいが」

娘は指先に引っかき傷を負っていた。血は凝固している。指を腕のほうにたどっていくと、趙雲がつけた傷がある。
血はもうないけれど傷口に土が付いている。林のなかで引き倒された時だろう。
触られたのは肩と胸だと示した。

「それだけ?」

それだけだと言って欲しい。何もされていないと言って欲しい。
女性の身体の部位を言葉にする恥ずかしさと、保身のための祈るような気持ちがあいまって喉をつまらせる。趙雲は言いあぐねた。

「足を触られました、でも趙雲様がすぐにきてくださったから少しだけです」

微笑んで言いながら手のひらが趙雲の頬をぬぐう。
頬におかれたままのそれに重ねてみると、水の冷たさの奥に温もりがあった。

震えが来た。

今更になって

「ごめん」

なんだこのせりふは、吐き気がする。
趙雲は彼の知りうる限りの罵詈雑言をもってして自身をののしる。

「痛かったろう」
「もう大丈夫です」
「うん」
「趙雲様」
「うん」
「だいじょうぶ?」

優しい人だ。

夜の川原、空は濃紺、趙雲の震える息だけが白い。
冷たい小さな手のひらは
ただ
ひたすらに趙雲の頬の“いたい”を落とそうとしていた。






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