泉でふれた羽衣が砂になってしまったこと
彼女の力だけでは天へ戻れないこと
彼女は天女というよりはあやかしの類であろうということ
不思議な転変ができること
自分が脅かしたせいで邸を飛び出し、ひどい目にあわせてしまったこと


朝議の後、趙雲はそれらを包み隠さず諸葛孔明に伝えた。天才軍師はいかにも憔悴した様子の将軍の陳情を黙って聞いていた。
趙雲は最後に、彼女自身は趙雲や周りの人間に何ら危害を加えていないことを強く訴えた。
諸葛孔明は暫くのあいだ扇で口元を隠していたがやがて口をひらいた。

「そうですか」

趙雲は恐る恐る視線をあげて軍師の考えを読み取ろうと試みたが、軍師は眉ひとつ動かしはしなかった。
趙雲の話を信じたのか、あるいは趙雲の気がふれたと思ったのかさえわからない。

「身体が透き通って、閉じた窓の隙間から抜け出した、と」
「事実です」

孔明は再び扇を起こしてまた口元を隠した。趙雲のほうに顔を向けながら、意識は趙雲には向いていない。
彼が次の言葉を言うまでにしばらくあった。

「処分と措置はおって通達します。娘はどこにいます」
「は。応接の間に待たせています」
「わかりました。使いを遣るまであなたが見張っていてください」
「・・・はい。お忙しい中お時間とらせて申し訳ありません」

趙雲は拱手して深く頭を垂れてから踵を返した。

”見張”るとはそれが不穏の者であるということだ。
処分とはなにか
措置とは何か
趙雲が一度しようとしたように“退治”の命令が下されるかもしれない。







「趙雲様」

力なく押した応接間の扉のむこう、明るい声がした。
応接間の中央の椅子に腰掛けた娘が嬉しそうに趙雲を迎えた。
趙雲は苦笑いで「いい子にしていたね」と返して扉を閉じた。昨晩、趙雲が振るった刀のことを娘はまったく気に留めている様子がない。

彼女がもといた場所には「快」の行いしかなかったという。だから痛みがなにものであるかを彼女は知らず、昨日からは「血」そのものが「痛み」であると勘違いをし続けている。
ちなみにはじめて味わった「不快」は趙雲が与えた恐怖である。
白い腕の刀傷には化膿止めを塗って包帯を巻いてある。

それにしても緑糸の刺繍のはいった衣装は、城に上がるために邸の女中が借りたものだが、よく似合う。
とても人外とは思えない。

「この後はなにをするのですか」
「もうしばらくはここに居ていただきます」
「ずっと椅子に座ったままなのでしょうか」
「この部屋に居ていただければ立ち上がってもかまいません」

良いと言うまでずっと椅子に座っているように言いつけていた。
娘は言いつけどおりにずっと座っていたらしい。
立ち上がる所作など見る、流麗で良い生まれの令嬢と見まごうほどだ。趙雲は娘の動きを目で追う。
窓に寄ろうとした娘も視線が追ってくるのに気付いて振り返った。

「趙雲様、ここも趙雲様のお邸ですか」
「いいえ。ここは私の主君の居城です」
「劉備様ですか」
「そう」
「またお会いしたいものです。できます?」
「私にはなんとも」
「それは残念なことです、とてもよくしていただきましたから」
「殿は気さくなお方ですがおいそれとお会いできる方ではないんです」

「あ、あのお方。森にいらした方です、わたくし見ましたもの」

窓から見た先の廊下に人を見つけたらしく、娘は窓の桟に手をかけた。
趙雲はすばやくその手を窓から放させた。
窓から逃げるとは思わない。けれど趙雲は見張れと言われている。
逃げないように。
娘は掴まれた手首をじっと見た。
窓から見える向こうの渡り廊下にいたのは馬超であった。

「あれは馬超将軍です」
と視線を窓下に切り替えて趙雲は掴んでいた手を放した。娘の視線から逃げるために。

「おもしろい形の帽子ですね」
「こだわりがあるようですよ。友人です」
「そう、そうですか。ではいつかわたくしもお話できるとうれしいです」
「女性には優しい男です、喜び勇んでお相手すると思います」

あと数刻先に生きているかわからない娘に何を言っているのか。

「趙雲様もお優しいです、それは女性にだけですか」
「私は優しくなどありません」

早口に言うと、意図せず口調は尖った。

「誰があなたにケガをさせたと思っているのです」
「趙雲様」
「その通りです。お聞きなさい、人を傷つけるのはいけないことです。・・・いえ、こんなことを私が言うのはおかしいのでしょうが」

これまで何人殺してきたと思っている。殺した人間を数えるのをやめたのはもうずっと昔のことだ。そして目の前の白肌の腕に刃を立てたのも自分だ。
痛みにおどろいた娘は邸を飛び出してひどい目にあって、あと数刻あとには屠られるかもしれない。
退治という名目の殺害を命じられるのは趙雲自身かもしれないのだ。

「ひとをきずつけるのはいけないこと」

娘は復唱し、下を向いた。

「人を傷つけるのはいけないこと」

学び、上向く。
うなずく。

「では人に優しくするのがよいことですか」

趙雲が答えに困りながらもうなずくと娘は”こちら”の物事を学んだ喜びに頬を上気させた。

「そう、わたくしそういうことをたくさん知りたかったのです。趙雲様ありがとうございます、もっとたくさん教えてくださいませ」
「え、ちょ、ちょっと待ちなさい」

ずいずいと詰め寄られて趙雲はあとずさった。
深刻な趙雲の心境は一気に動揺し、背後にあった椅子にひざの裏を打ち付けて転倒した。

「うわっ」

盛大な音を撒き散らして趙雲が仰向けになったところに娘はさらに詰め寄ってきた。
顔が
もの
すごく
近い!

「おしえてくださりませ」

趙雲は真っ赤になる。

「は、はしたない!」



「おやおや、これはいった何の騒ぎですか」

趙雲は第三者の声にびっくりして身体をバッと起こした。
振り返ると諸葛孔明が扇で口元を隠して立っていた。
趙雲が女に押し倒された格好に見える。趙雲はすぐさま姿勢を正して拱手した。
傍らで横転している椅子に気付いてさっと戻した。

「申し訳ありません、不注意にも椅子につまずきました」

娘は目をぱちくりさせて趙雲と孔明を見比べていたが、趙雲に拱手をするように合図されて見よう見まねの拱手を組んだ。

「先日お会いした方です」

娘は趙雲にそう伝えた。
対して趙雲は「静かに」と諌めただけだった。

「三日ぶりですね、天女さま」
「はい」と娘は妙に小さな声で言った。
趙雲に言われた“静かに”の言いつけを守っているらしい。趙雲は呆れて、孔明は目を細めて笑った。

「普通の声で結構ですよ。さて趙雲、お待たせしましたね」
「いえ」

どく、と心臓が大きく慟哭をしたのを聞いた。

「天女様をこちらに引き渡していただきます」

趙雲は深く瞼をつむり肩をおとした。
陳情は甲斐なく終わったのだ。
こうなるならばいっそ陳情などしなければよかったのではないか。
逃げた、と偽ってどこかに逃がしてやった方がまだよかったのではないか。

「どうか。どうかもう一度考え直してはいただけないでしょうか。この人はなにも罪を犯してはいません、それにまだ小さい。連れて来た私が浅はかだったのです。罪を負うならこの私がっ」
「趙将軍」
「まだ子供なのです、善と悪は今から教えれば必ず理解できますし私がこの命に代えても他に危害を及ぼすようなことはさせません」

あの手のひら

「どうかお考え直しください」

昨日、川原で私の頬に触れたあの手のひら

「落ち着きなさい将軍。大きな声をあげるからびっくりしていますよ」

横を見れば心配そうに趙雲を見上げる瞳がある。

「・・・申し訳ありません、取り乱しました」
「将軍、彼女が角を出したり、牙をだしたり、炎をつくったりするのを見たことがありますか」
「いいえ」

「やってごらんなさい」

孔明は涼やかな目を娘のほうへ向けた。

「・・・趙雲様が、いけないと」

娘は趙雲の顔を窺って首を横に振った。

「少しだけです。よろしいですね“趙雲様”」

天才軍師の有無を言わせぬ微笑がこれ以上反抗することを許さなかった。趙雲はためらいながらも頷いた。
この美しい唇から虎のような牙をのぞかせるのか。人肉を食い破る禍々しい牙を。
あるいは角。すべらかな額を食い破って異形の証を見せやるか。
またあるいは炎で城ごと焼き尽くすのか。
趙雲は一瞬懐の短刀に手をかけるべきかと逡巡した。

手はかけなかった。

娘は趙雲をまだちらちらと窺いながらも恐々と両手を合わせた。
指で印でも組むのかと思えばすぐに合わせた両手を開いた。



牙だ。
獣の牙らしきものが手のひらにのっている。
床に落とすとカラン、コロンとか弱い音がする。
もう一度手を合わせて、放す。
牙だ。
カラン
コロン
もう一回合わせて放す。
牙、牙、牙。
カラコロ
カラコロ
カラ・・・

ぽろぽろと親指くらいの大きさの牙が現れては床に落ちていく。

「口をあけて趙将軍に見せて差し上げなさい」

娘は言われたままに口をあけて趙雲に見せた。
綺麗な歯並びだ。
“牙をだせる”と彼女は言った。
牙は無い。

「では次は角を」
「はい」

手を合わせて放して、
角だと思う。
小さな円錐がぽろぽろぽろぽろと。

「で、でも・・・。炎が出せるというのは」

趙雲はむしろ炎を盛大に出してくれと言わんばかりの心境になっていた。
娘はひとさし指の先に小さな小さな炎を作った。炎というよりは線香の先端にあるような熱の塊である。

「それで一番大きな炎ですか」
「もうちょっとでしたら」

娘は少し力んだ。すると線香の先端大の熱の塊が線香花火の先端位の大きさに膨らんだ。

「ご苦労様です。もういいですよ」

指先からぱっと熱の塊が消えて娘は疲れたように息をおとした。
趙雲は目を点にしていた。

「実ははじめて幕舎でお会いしたとき、月英には角やら牙やら出すのを披露していたそうで。炎を出したり透き通ることができることまでは知らなかったそうですが」

彼女を幕舎まで連れ帰ったとき、服を着ていなかった彼女はいったん月英に預けられて別の幕舎にはいっていった。
そこで「こんなことができます」といって牙をつくって角をつくって見せたのだという。

「手品だとしか思えませんでした。今見るまで、いいえ今見ても手品に見える。あなたが訴えた内容を聞くまでは気にも留めない些細なことでした」

天才軍師は頭をたれた。

「申し訳もありません趙将軍。そして天女さま。先に言っていれば」
孔明は娘の前に屈んで、手をとった。袖をめくると包帯がある。
「傷の具合はどうですか」
「趙雲様がお薬をくださいましたので大丈夫です」
「そうですか」

趙雲の拳は憤りに震えた。
今にも誰かに殴りかかりそうな気配でさえある。
ぐいと趙雲は腕をひっぱられた。

「ひとをきずつけるのはいけないことです」

蜀で最強をうたわれる将軍を捕まえたのは衛兵でも軍師でもなかった。

「ひとをきずつけるのはいけないことです、ひとをきずつけるのはっ」
「・・・」
「角を出してごめんなさい、牙も炎ももう出しません。透き通るのもしません。ごめんなさい、ごめんなさい」

趙雲の腕にしがみ付いて首を何度も横に振った。

「もうしません、もうしませんから」

趙雲の態度が急変した理由は角と牙と炎をだしたせいだと思ったのか。

「ちがうよ」

ちがう
ただわたしは自分に怒っている。身体がすきとおるから魔の妖だと浅はかに決め付けてあなたを切りつけた。
その結果、何も悪いことをしていないあなたがこわい目にあって。
だってそうだろう、あなたの不思議の力をきいたときにすぐに軍師殿に事情を相談すればこんな結果にはならなかったのだ。
だからちがう
ちがう

「ごめん」

拳の力は抜け気って小さな娘に膝を付く。

「ごめんね」

両手できつく頭を抱きこんで、同じ言葉ばかりあふれてくる。
娘の背骨がぽきんとおれてしまうのではないかというほどきつく力をこめる。
頭が熱い。
焼けそうだ。
耳の奥で音がする。
頭がいたい。
こんなに小さい。

娘はしばらくの間黙って抱きこまれていた。
黙って
黙って
その末にポツリと趙雲に尋ねた。


「この感じの名前をおしえてくださりませ」


声音は趙雲の腕の中、泉で聞いた清らな響きだ。

「趙雲様の触っているところが変な感じなのです。“いたい”が出たときと似ているのです」

趙雲は力をこめていた腕をわずか緩めた。
痛かったろうか。

「・・・痛み」
「いたみ」
「その感じを痛いというんです」

趙雲の声はくぐもっていただろう、喉が震えてうまく音が作れなかったから。

「そう、わたくしは間違えたのですね」

娘はなんとも晴れやかな声

「赤い水ではなく、これが痛み」

諸葛孔明が謝罪し、趙子龍がごめんなさいをくりかえしたそのあとで

「ありがとうございます、ようやく正しい理解にいたりました。趙雲様、どこか痛いのですか」

身体を少し放してもらった娘は、泣きそうな趙雲の頬に手を伸ばした。

「川へいかないと」

娘はいつくしむように微笑んだ。瞳はしっかりと趙雲を見上げている。
「川へ?」と、背後で若い二人を見守っていた諸葛亮が尋ねる。

「水があれば痛みがおとせますもの」

諸葛亮は首をかしげた。それは趙雲にだけ意味のわかる暗号だ。
彼女は趙雲を励ますために冗談を言ったのか、あるいは“痛み”の意味がまだ少し混ぜこぜなのか
知るのは小さな天女だけだった。







「帰りましょう」

趙雲は小さな子供にそうするように手を差し出した。
娘はその手をとろうとして別の手に捕まえられた。

「な!」

軍師の手のひらが趙雲との間に割って入ったのである。

「あなたのおうちはこっちですよ」
「な、なにを言っているんですか」
「この子は私の邸で面倒を見ます、さ、おいでなさい」
「どうしてです、私が連れてきたのですから私が引き取ります」
「この子につらい思いをさせた責任の一端は私にもあります、望んでお預かりしましょう」
「軍師殿は奥方がいらっしゃるではありませんか!こ、こんな娘ほども年のはなれた女の子を住まわせるなど非常識ではありませんか」
「趙将軍・・・」

諸葛孔明はなんだか生ぬるい視線をいきりたつ趙雲にむけた。哀れみともいうべき視線である。

「男女七歳にして同衾せず、という言葉を知らないわけではないでしょうに。未婚の男女が同じ邸に住んでいることのほうがよほど醜聞を呼びますよ。その点、身寄りのない娘を子供のいない夫婦が養女にとって何の不思議がありますか。彼女のためを思えばこそです」

趙雲は二の句が告げずに口をぱくぱくと無駄に動かした。
腕っ節だけで身をたててきた武人が天才軍師に口で勝てるはずもなかった。
そのすきに孔明は「今日から私がおとうさまですよ〜」とか刷り込んでいる。

「・・・し、しかし。その、月英殿が諾と言うかはわかりませんし・・・」
「月英は今頃はりきって女官たちと空き部屋の掃除をしていますよ。天蓋付きの寝台も発注済です」
「でも、本人の意思が重要で、そうだ!行きたくないですよね?」
「天蓋付の寝台を使うことが出来るのですか!」

娘は意外にも物に簡単につられた。
使える手をすべて使い果たした趙雲は心の中で地団駄を踏んだ。

「ええもちろん、すべてのものですよ」
「すでに名前まで!」



かくして天女は諸葛家の養女となり、趙雲は週一度は手土産などもって諸葛亮の邸に通うことになるのだった。





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