曹操の短刀をとった。
朝の紫色のなかで鞘をひくと刀身に顔が映る。
抜き身を握り、傍らに眠る曹操をしばらくじっと見下ろす。
音を立てないように寝台を下りた。
絢爛な屏風の向こうにはいり、房の隅へ向かって寝巻きの膝をつき刃を首にぴたりとあてる
力をこめたその一瞬、それよりはるかに強い力が柄ごとの手を掴んでいた。

「なぜ死ぬ」

曹操はわらっているように見えた。
愚かと思って嘲笑したのか、の逃避を阻めたことが楽しくてわらったのかわからない。
ただ、の顎は震え出しがちがちと歯が鳴った。
刀は手から優しく奪われ、ドッと恐ろしいほど速く強い動作で床に突きたてられた。びくりと跳ねた背中に体温が張りつく。

「一族を手にかけた男に精を注がれて、ここは地獄のようにつらかろうな」

慈しむ声音である。
息を引きつらせるの首筋を固い手が何度も丁寧に丁寧に、ばかにするように愛撫した。

「地獄で死んでどこに行くというのだ。んん?」

この姿のどこに興奮したのか、の薄いわき腹に昂ぶりはじめた陰茎がぶつかった。
頭を押され、床に額をこすりつける獣の交わりに至った。犬の息の合間、名器よなと妙に冷静な声が言う。
手の届かぬ場所に突き立ったままの刀身に、裏切り者の顔が映っていた。






***



の姫を交易通訳に」

若き陸遜青年の提案は一蹴された。
そればかりか周瑜への突然の奏上について、呂蒙からは浅慮なうえ分不相応であると厳重注意が下った。
きわめつけに、どの兵に尋ねても三国一とうたわれる美女の行方はしれない始末。曹操憎しとひときわ活躍した蜀の錦馬超あたりが求めて連れて行ったのかもしれない。
陸遜は都への帰途で失意のどん底に沈んだ。
この様子を少し離れたところから見ていたのは呂蒙である。
彼は、うなだれ歩く部下に助け舟を出さずにはおれない男であった。






呉、という集団のなかで陸氏とその当主たる陸遜の立場はいまだ”若造”である。
陸遜はのちに呉の丞相にまで上りつめる大人物であるが、彼が当主になった時分はまだ、数年前に孫策との戦に破れ帰順した豪族のなかのひとつにすぎなかった。
「・・・ただいま、戻りました」
若き当主は、久しぶりの我が家だというのに亡霊のように暗い影を背負っている。
「おかえりなさいませ、若さ・・・旦那さま」
召使い達はいたく心配そうに主を出迎えた。癖で未だに若様と呼び間違える家来が陸家にはたくさんいる。
廊下の奥から叔母と姉が現れると、陸遜は背を正した。彼女らは年若くふがいない当主を立てつつも、陸氏をきりもりしてくれている影の当主である。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい旦那様。どうしたことです、暗い顔で」
「お役目でなにかありましたか」
「いいえ。賜ったお役目はつつがなく果たしました。大河のほとりは涼やかなれど日差しをさえぎるものがなく、少々日に焼けました。暗く見えるのはそのせいでありましょう」
叔母と姉はふたり顔を見合わせ、視線だけで合意があったらしく、うんとうなずきあう。
「なにか・・・?」
影の当主らは長い袖を持ち上げ口元を隠してほほほと笑った。
「そうかえ、そうかえ。ならばさえた水を用意させましょう。冷やして火照りをお静めなされませ」
「そうします」とすごすご自室に戻り、扉を閉めてひとりになると溜め込んでいたものがザザアと黒い砂になって体から流れ出る心地がした。
陸遜は額に手をそえ、眉間に深くしわを刻み、つむったまぶたの裏に美しい人の幻が見えて髪をぐしゃりと握りつぶす。
目を開いてみれば使い慣れたすずりが姫に見え、
椅子が姫に見え、
寝台の銀細工が姫に見え、
水を持ってきた家来が姫に見え、
水を張った桶まで姫に見える始末。
「大丈夫ですか」
「ああ、すみません。大丈夫です。水は卓に」
情けない姿を家来に見られた。
陸遜は笑顔で言い直し気取られぬようすっと背を向けかけて、二度見した。

桶を持ってきた家来は、三国一の姫君だった。






この采配こそ、呂蒙の助け舟であった。
孫尚香の厚意あっては陸遜ら男たちよりはやく都に到着していた。尚香のまわりは武装した女たちが固めているために兵卒の目にふれることはなかったのである。
三国一の名花は炊事をするお女中の格好で陸遜の前に佇み、化粧も髪飾りもない。それでもなお美しい姿形をしていた。笑うでも悲しむでもなく見つめられると迫力すら感じる。
高貴な唇が開く。
「二度、救っていただきました。湖で希望をお授けくださり、お屋敷で雇ってくださった。有難う存じます。かならずご恩をお返ししてまいります」
ためらいなく床に膝をつき、陸遜を見上げて語られた言葉はあまりに謙虚だった。
「一所懸命にお仕えします」
最後は床に深々と額を寄せてそう言うと、は最初の仕事に水桶に浸した手ぬぐいをぎゅうとしぼって
「お体を拭きます」
などと言いだした。
「い、いえ、そのようなことはっ」
慌てて拒否したが、陸遜はまだ状況を飲み込みきれていなかった。がどんな思いで床に伏せたのかもわからない。
「交易通訳に」と夢を見させるようなことを言って叶わなかった。陸遜は雇った覚えがないがが着ている衣は確かに陸家の召使いのそれだ。いったいなにが起こったのか、これではまるで自分は甘い言葉で姫を騙して家に連れ込んだ不埒者ではないのか。
初仕事を断られたはしぼった手ぬぐいを構えていざという格好だったから、残念そうに手を下ろした。ぼたぼたぼた、っと絞りのあまい手ぬぐいから水が落ち、床をぬらす。
「申し訳ございません」
は床を前掛けで拭おうとしたから、陸遜はそんなことを姫君にさせられないと思い
「あ、私がっ」
と手を伸ばしての前掛けを阻もうとしたが、のほうが一瞬早かった。
「いいえ」
前掛けに水がしみ込む。
「”旦那様”のお召し物がよごれます」
ともかくいいから、とよくわからない理由でを部屋から追い出した。
手ぬぐいを手にとってみるとがしぼったはずのそれはまだ水気がだくだくで絞る余地がおおいにある。陸遜が絞ると、案の定水滴が雨のように落ちる。
夢だったのではあるまいか。
陸遜が救えなかった人が「救われた」と言って足元に伏せた。
これからこの屋敷に仕えて陸遜を旦那様と呼び、恩を返すと言った。
いっそ陸遜を篭絡しにきた女だったほうがまだわかりやすい。
本当に陸遜に恩を感じているなら、陸遜にとっては糾弾されているのと同じだ。






***



「御名は陸議様。むにゃ」
「陸議さま」
「けれど孫呉に加わった折に陸遜様と改められて」
「・・・陸遜さま」
「あざなは伯言様」
「伯言さま」
「むにゃ、ですがあなた様は基本的には若様と・・・むにゃ、旦那様と呼んでくだされ」
「旦那さま」
「屋敷を出て他のお方のお屋敷にお供したときには、陸遜様とお呼びなされませ」
湖で会った若者の名は陸遜だと、は知った。
目の前の老人は時折むにゃむにゃ言いながらに屋敷での暮らしの説明をしてくれている。
「お役目は炊事洗濯掃除に雑用、むにゃたくさんです。部屋は、えー・・・むにゃ、この客間を。給金は」
はこの屋敷で「雇われた」。
身体をひさぐわけではないし、誰かの妻となったわけでもない。ここで食事を作って洗濯をして掃除をして、召使いとして働くと給金までもらえるという。不思議である。いや、もしかしたら雇うというのは表向きで、実際にはそういうことに使われるのかもしれない。自分の美貌にうぬぼれてこう思っていたわけではなかったが、自分の使い道がそれ以外にあるとはおもえなかった。
ふと老人の向こうを見ると、扉の隙間から何人もこちらをのぞき見る目がある。肩車でもしているのか高い欄干の繊細な木細工の隙間にもいくつか顔があった。召使いたちだろうか。
わたくしも召使いだと、自分に言い聞かせるように手元を見る。
交易の役にと湖で聞いた言葉は、陸遜は近しい未来と思って言ったのだろうがには本当は、届かないまぶしい夢として聞こえていた。だから交易の役でないことに落胆はない。
二つ結んだ手の中にあるのは石一つ、着物すら借り物だ。
もうずっと前から失うものは何もない。

この身は”陸遜様”の”召使い”

心に杭を打つ。
椅子を降り、この国のならいにしたがって跪く。
袖をあわせ深々とこうべをたれた。



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