それから一年のあいだ主従の関係で、陸遜とは一つ屋根の下で暮らした。
これが呂蒙の采配であり、姫の境遇を哀れんだ叔母と姉が当主に断りもいれずに受け入れたところにも怒りは湧いてこない。
陸遜は追いかけてくる罪悪感から逃れるようにを避けた。
召使いの一番の新入りが当主である陸遜の身の回りの世話をすることが無いことは陸遜にとって幸いで、へ言葉を教える約束は多忙な陸遜のかわりに「じい」にやらせた。
が自分から陸遜に声をかけたり、夜這いして来たりすることもなかった。わかってはいたものの目的は篭絡ではなかったのだ。
教育係のじいにそれとなく様子を尋ねてみると、は不満も言わず働いて大きな問題を起こすこともなくよくやっているそうだ。
陸遜にはますますの心がわからない。
しばし筆を止め、陸遜は考えた。
「陸遜、書き損じか」
呂蒙から声がかかって陸遜ははっとした。ここは呂蒙の執務室であり陸遜は彼の見習いとして配属された下級役人だ。女のことを考えてうつつを抜かしている時間などない。
「いえ、申し訳ありません。続けます」
一言一句誤ることなく木簡の入城証明符を量産する作業に復帰した。
ひとしきり書き終えて、さて次の証明札に取り掛かろうという合間、(ただひとつ)と思い出す。
(水面をはねる石に嬉しそうに笑ったあの姿のなかには、わからないものなんてなにもなかった)
「陸遜」
「は、はい!」
陸遜の腕の筋肉が強張った瞬間にボタリ、と墨が札のはしに落ちた。
「あ」



一日の仕事を終えて迎えた夕方は眩しい。
陸遜の眉根は眩しいからひそめられているわけではなかった。足取りも重いし、顔も暗い。
「なんだよ陸遜。元気ないじゃんか」
背後から忍び寄ってがっちり肩を組んできたのは凌統であった。陸遜が帰順してからの初めての大仕事であった賊軍の平定の頃からなにかと陸遜を気にかけて世話をやいてくれたり、世話が行き過ぎて生真面目な陸遜をからかってくる先輩だ。
「凌統殿。そんなことはありませんよ」
するりと腕からのがれて何事もなかった顔で陸遜は笑みを向けた。おかまいなしに凌統はもう一度肩を組んでくる。一応注釈しておくと、そういう趣味があるお人ではなく、むしろ女性と戯れるのを好むお人である。陸遜はそれ以上は振り払わず出方を見ることにした。
「なにに落ち込んでるんだか知らないけど気力を上げたいときには瑞々しい花を愛でるってのが一番だ」
「花、ですか」
そういわれて見渡せば、回廊から見えるのはみごとな睡蓮だ。軽薄そうに見えて風雅なひとである。
「そ。四対四でな」
そうでもなかった。
「また合コンですか。そういったお話はお引き受けできかねますと何度も申し上げたはず」
「んなこと言うなって。おまえが来るとひとつもふたつも質の高い女の子が来てくれんだから。あんなふうに」
遠くで何人かの女官達がこちらに手を振ってきゃあきゃあと楽しげだ。
「やあ、お嬢さんがた。ほらーおまえも手ぇ振れって」
陸遜はうながされてまず顔を向ける。
城で女官として仕えているのはみな良家の子女たちだ。無視するわけにもいかず、しかし凌統のように軽薄に愛想をふることができる精神状態でもなく、陸遜は苦笑でぎこちなく手を上げるにとどまった。たちまちに池の水面が波紋をつくるような黄色い悲鳴が上がる。
変に嫌われると怖いからそうなさいとは白皙の貴公子、周瑜の助言であった。
「きゃあ陸遜さまー!」
「目があっちゃった、ねえどうしようっ」
「いつものハツラツとしたお顔もかわいいけれど、憂い顔もステキ!」
凌統は女性に笑顔を振り撒きながら、死角で陸遜をこずく。
「もっと笑えよ。撒き餌は重要。ほら、あの奥の子とかすげーかわいいし、コンチハー」
ひきつる笑顔の裏でふと、楽しげな女性たちの姿に我が家でもてあます美女の姿が重なった。
せめてもっとしっかりした後ろだてがあったなら、ああして女官として身をたてる道もあったかもしれない。
「陸遜さまー!」
「陸遜様」
再び罪悪感が胸を薄く刺し、これ以上声援にこたえることはできそうになかっ・・・

の声がした。

女官のなかに女官の格好をした三国一の美女の姿を確かに認めて、陸遜の帽子が天へ飛んだ。












***



「これは、いったいどういうことですっ」
あの場では人が多すぎたので、屋敷に戻ってきたところでの手首をとっ捕まえて部屋に引き込んだ。
「なぜ城に」
一年ぶりのまともな会話がコレだ。
陸遜の問い詰める剣幕に驚き、は身体を石のように硬くした。
「十日前から姫様の、尚香様の側女としてお仕えしておりますれば」
「な、なにを言っているのです!」
「うっ」
細い身体がすくんだのを見、掴んだきり無意識のうちに締め上げていた手首を陸遜は慌ててはなした。
白と赤でくっきりと色づいた圧迫の痕が冷静さを呼び戻す。
「っ・・・すみません」
陸遜は手をおろし、落ち着いた声で言えるよう息を整えた。
「誰がこの決定をしたのか、お聞かせ願えますか」
はそこで逡巡を見せたが、もう一度陸遜に同じ言葉で問われると重い口を開いた。
「・・・大奥様です」
「叔母上が?」
「ですが旦那様をたばかろうという考えではございません。てっきり旦那様からご高配をたまわったものと思い違いをして」
なぜ叔母がそんなことをしでかしたのか、陸遜は真意を読めない。
「過分な役目をお授けいただき、お礼を言いにあがらねばと思っていたのですがなかなかお目にかかる機会に遠く」
確かに、ここ最近は遠方へ出ることもあったし、都にいても帰りは遅く家をあけがちだった。
「申し訳ございません、わたくしがはやく御前にあがっておりますれば」
頭を下げられて、陸遜はいまの話題とは別のところにも少しの驚きをもっていた。
つい一年前に湖で見たあの姫君はまるで精霊のように神秘的で近寄りがたい空気すら纏っていたというのに、いまの彼女はどうだろう。
髪と目の色が際立っていておもだちが美しいのは変わらないが、異国の言葉だろうに礼儀正しい言葉を間違えずに使って、なによりこの自尊心の低さ。陸遜を完全に上として扱っている。
陸遜はこのひとを姫として扱っていいのか、捕虜なのか、客なのか、家来なのかわからなくなった。
「一度、部屋に戻っていただいて結構です。叔母には私から聞きに行きますから」
「・・・はい」
は言葉をのんで一礼すると静かに扉を出て行ったが、その行く方向に気づいて陸遜はすぐに呼び止めた。
「どこへ行くのですか」
「部屋に」
「客間はこちらでしょう」

「わたくしは召使いでございます」

七年にも渡り曹操の寵愛をうけた三国一の美女である。






血風ほとばしり炎の鱗粉が舞うなかで敵として出会い、陸遜が想いを寄せた姫君がいまは身よりなく窮地にあると呂蒙将軍から聞かされた。姫の境遇を哀れみ、また「なんたるハーレクイン!」と雷に打たれた影のご当主二人は、即座にこの姫君の陸家預かりを(主に聞いてもないのに)承諾した。
若い弟と甥を当主として立てようと常日頃から心を砕いていた二人だったが、時々こうして前のめりになってしまうところがある。
ところが連れ込んだ恋人に陸遜は一年経っても指一つ出せていない。
影のご当主はこの事態を一族の大事と判じて再び立ち上がった。

二人の推測によれば、陸遜の思いはこうである。

いとおしい。
しかし私は再興を目指す陸氏の当主。第一の結婚に婢女を妻とするわけにはゆかない。
いやそれにも勝って、曹操のもとでひどい扱いをうけてきたあの方を助け屋敷にかこって私は曹操とおなじ振る舞いをするつもりだったのか。断じて否。
想えばこそできようはずもない。してはならない。するものか。この矜持のあかしとして指一本、触れまいぞ。
・・・ああ、だがせめてあの方が少しでも世に認められるような後ろ盾を得られれば、私の体はたちまちに炎の龍となってあなたを迎えにゆくのに。

若き陸遜の葛藤はまたたくまに呉の上流階級女性ネットワークに伝播した。
この話が巡り巡って孫策孫権尚香の母君・呉夫人に伝わり、「すみやかにを尚香付きの女官とせよ」との下知があった。奇しくも呉夫人は大のハーレクインファンだったのである。

世間的に見れば”曹操の寵姫””捕虜”を姫様のおそばにつけるとは、戯れも度が過ぎる。万が一あれが暗殺者で、孫尚香が害されることがあればを推した陸家は一族ごと罪を問われる可能性だってある。勝手をされては困る。
陸遜が苦言を呈すと、叔母と姉は一応黙って動いたことは謝罪したものの、
「旦那様はが暗殺者で尚香姫を害すとお思いと」
と伯母君は静かな声音で尋ねてきた。
「それは・・・思っていませんが」
「思っていないのですね」
「ですが、他の者達は曹操のめかけだと彼女を見ましょう。それを我が家から推挙したとなれば」
ざばっ、と音を立てて銀扇を広げ、叔母が陸遜の言葉を遮った。
扇は叔母君の目から下を隠し、目はひやりと陸遜を見据える。
「小さきことを」
陸遜はもとは傍系の子、この叔母君は亡くなった先代当主の正妻だ。迫力でいえば陸遜を遥かに上回る。
「わたくしどもはこの一年、あれをよっく見てまいりました。旦那様がことさらに見ぬようにしていたあの娘をです。知らぬ土地で知り合いもなく心細かろうに涙も見せず、そのかわり笑いもせずに必死に役にたとう好かれようと、人としてあろうと努めていたことをわたくしどもはこの両の目に見て知っております。嘘だと思うなら今宵離れの窓から井戸場をのぞいてご覧なさい。それが、おまえが放っておいた娘をわたくしが推挙した理由です」
しまいには「おまえ」呼ばわりされたが陸遜は鐘つき棒に打たれたような心地で言い返せず、叔母の部屋をあとにした。






夜になっても腹が減らない。
頭はさえていて眠くもない。
(なんだか、きょうはさんざんな日だ)
さんざんな出来事のひとつひとつにあの姫君が関わっている。
月明かりで読もうと窓際に椅子を寄せ、開いた書の文字を目が追うが意味がちっとも頭に入ってこなかった。
顔をあげると月がたいそう美しかった。
しばらく見上げてから、陸遜は立ち上がる。
静かに歩き出したその脚は北の離れへと向いた。



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