昼と打って変わってひと気のなくなった井戸場では木刀を振るっていた。
髪をまとめきつく括って、服も袖が邪魔にならぬよう縛っている。
ふりかぶって、おろす。
剣に見立てるならば振りかぶりすぎだし、切っ先をおろしすぎだ。手首もそんなに曲がっていては力が入るまい。
なおもふりかぶって、おろすの繰り返しを月明かりのなかでやっている
月がかげっても影のからだの輪郭が見える。陸遜の目は、影が見分けられるほどもうずいぶん長い時間その姿を見ていたのだった。
「むにゃ・・・若様、乙女の姿を盗み見とはじいは感心いたしかねます。むにゃり」
腹まで白いひげを伸ばしたよぼよぼの老人は陸遜がまだ正真正銘傍系の若様だったころから付き従っている「じい」である。むにゃむにゃいうのは、年寄りの口の中には乙女心に勝るとも劣らぬほど色々あるから、だそうだ。
他の誰かが突然闇から現れたら驚くが、この「じい」だけには陸遜は驚かない。に気付かれない霞のような声で「うん」とだけ応じた。壁にもたれ、まなざしを再び影へとおくる。
「あれはなんのために」
「むにゃり。身体を鍛えているそうでございます」
「どうして」
「むにゃ・・・詳しくは存じませぬが、あれが始まった頃、むにゃ、どれくらい前でしたか。ここに来たばかりのころ」
「一年まえ」
「まだ一年でしたか。も少し長く思っていました。あの頃は洗濯かごを落とすわ、井戸のつるべはあがらぬわ、買出しの荷物を落とすわ。むにゃ・・・まあ使い物にならず叱られていましたゆえ」

影の特訓
隠れてやっているふうで本気で隠れきろうとしていない。
これ見よがしにわざとだろう、健気ぶって、あざといことだ。
そういう風にもいえる。

「屋敷のほとんど皆知っております。若様以外は」
「・・・」
「むにゃり。若様、ちょっとこっちへ避けてください」
じいはおもむろに陸遜を窓のそばからずらし、自らは窓の桟に手をかけ身を乗り出した。
殿、殿、精が出ますな」
ぎょっとした。
陸遜は窓の横の壁に背を張り付けた。
草を踏む音が近づいてくる。
離れの床にひとの影が落ちた。
「先生、こんばんは」
喜ぶでも笑うでもない、しかし悪意のないの声が間近だ。
「むにゃ?きょうは大奥様はご一緒ではないのかな」
「はい、今日はひとりです」
「お痩せになりたいからと仰せであったが無念や、三日坊主。むにゃ、さても殿、国語の時間はいかがなさる。屋敷の女中なら知らず、女官のつとめとなればすきまの時間でちょっと、とはゆくまいて」
「かなうなら続けたいです。女官長様は、姫様は武芸を好んでおいでですがお側仕えこそ率先して学問に親しんで、姫様にも興味を持っていただくのがよいだろうと仰せでした」
「よいとも。むにゃ、七日に一度ならばできるかしら。休息日はいつかしら
「五日後です。ありがとうございます、先生」
「ではまた五日の後に。邪魔をしましたな。お続けなされ」
「失礼します」
足音は遠ざかり、じいは白いひげの奥で「どうです。むにゃ」とえばったふうに笑った。
陸遜はなにも言わず床の、の影があった場所を見つめつづけていた。







その夜を境にの姿は陸遜の目によく映るようになった。
この変化を陸遜は、肌の色や髪の色が目をひくからだと自分に言い聞かせている。ついでに言えば彼女を見るまわりの目もだんだんとわかってきた。屋敷の者達はをもう仲間として受け入れている。では新参の宮廷内ではどうか。
「おい、あれ」
朱塗りの渡り廊下で前をゆく二人連れの文官、うちひとりが隣の男を肘で小突いた。
急に呂蒙の元に県令の客が来るとかで書記の役として呼ばれた陸遜は呂蒙の執務室に向かう途中であったが気になった。あたりを覗うと小さな中庭をはさんで向かいの廊下、男が顔の向きを変えないようにあごで示した先に女官が連なってカラになった膳を運んでいる姿がある。そのうちのひとり、に彼らの視線が送られていることは声にされなくてもわかった。
「なんだよ」
「別に」
その列がすっかり通りすぎると語尾にいやらしい笑い声がにじんでいた。
文官二人が屋内に入って行ってから陸遜は不意に足をとめる。
あの見た目では仕方のないことだと思っても我が家の客を軽んじるような目で見られるのは主たる陸遜にとって面白くない。
面白くないと、思う権利があるのかどうか陸遜にはわからないが。
言い分も聞かず分不相応と叱り付け、乱暴に掴んだ手首は思ったよりもずっと細く、折れてしまいそうだった。
どうにか謝りたいと、しかし陸遜は動き出すことができないままだ。
少し肌寒い風が中庭をふきぬけて立ち止まる陸遜の裾を後ろへとたなびかせていた。







***



、呂蒙将軍のところへお茶を運んで頂戴。遠方からお客様がお見えなの」
「かしこまりました。いくつお持ちしましょうか」
厨房に顔を出した年配の女官長に声をかけられて年の近い女官達の休憩の輪から立ち上がった。一番の新入りだから急な雑務を振るにはがちょうどよい。
残りの女官達は(見かけたからといって休憩をしている者に言わなくても)と女官長に気づかれないように目で会話をする。
「四人よ。将軍と陸遜様と県令のお客様とそのお付きの方。頼むわね」
「し 「承知しました」
の返事はほか女官達の声で遮られた。全員立ち上がっている。
女官長はあきれ顔でため息を落とした。
「誰が行ってもよろしい。けれど将軍とお客様のご迷惑とならぬように」
「はーい」
、あなたはまだ休憩時間でしょう。私はもう終わりだから、あなたは座っていて」
「そうね、いいの、気にしないで。あなたずっと働きすぎよ」
「そうねそうね。いいからいいから、私たちにまかせて」
強制的に座らされ、女官五人は奪い合うように湯を沸かし、軽く化粧を直し、前の四人はお盆にそれぞれ湯のみを一つずつ、最後の一人は急須を盆に載せると、ツンとすまして軍の行進のように一分の乱れもなく厨房を出て行った。
あっという間に自分と五人分の昼食がおき去られた厨房を見渡して、は改めて陸遜の人気ぶりに驚かされる。
圧倒的一番人気は美周郎こと周瑜であるが、将来有望の陸家の当主ながらまだ未婚の陸遜は二番手につけている。
とんでもない人と「ハーレクイン」な噂がたっていることはもちろん知っている。その噂が悪いように受け止められたらはすぐにいじめに合い、雑巾の絞り汁でも飲まされるのだろう。それならまだいい方だ。間諜の嫌疑をかけられる、か曹操の妾であったことを主張されれば容易く殺される。
これを避けるためには女官達が陸遜や周瑜に黄色い声援をおくる場面ではも同じように振る舞うようつとめていた。
手慰みに仕事を探す。出て行った五人が戻るまでに虫が来ないようは小さな編みカゴを探し、逆さにしてそれぞれの昼食にかぶせてみたりした。

「こんにちは」

軽やかな男の声に振り返る。
「凌統将軍」
すぐに土間へ下りて迎えた。
わざわざ将軍が厨房へ顔を出すなどただごとではない。と思うのだが、そのわりには凌統はニコニコひらひらとこちらに手を振っている。ちなみに彼が人気三番手だ。近くに立つと香を焚きしめているのか、いい香りがした。
「いかがなされましたか」
「白湯をもらえるかい。喉が渇いてて」
「かしこまりました」
幸い、先ほどお客様のために沸かしたお湯がまだ熱いまま余っていたので、それを手早く注いで凌統へ差し出した。
「ありがとう」
凌統は喉仏のあたりをごくりと鳴らして一気に飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。
「あーうまい!生き返る。本当に喉が渇いていたんだ。助かった、きみのおかげだ。この恩はひとときも忘れないよ」
正真正銘ただの白湯である。
今日はそれほど暑くないし、感謝されすぎてはおずおずと空になった湯飲みを受け取った。
「ところで君、なまえは?」
急に話が変わる。
と申します。尚香姫様にお仕えし」
「へーちゃんか。綺麗な子は名前まできれいなんだ」
「は、はあ・・・ありがとうございます・・・」
「お礼に食事をおごらせてくれないかな。次の休みはいつだい?」
お礼、とはまさか白湯のお礼だろうか。いや、わかっている。これはいわゆるナンパである。の立場を危うくするもののひとつだ。
断れば将軍に恥をかかせてしまう。しかし断る方向へ持ち込むべきだ。尻軽という噂は曹操の妾だからと、カンタンに悪評の連鎖を生む。自分が殺されるならまだいいが、連鎖はを客としておいている陸家に及ぼう。
「恐れながら、わたくしはいまだ見習いの分にございますれば」

「おーうガキンチョがいっぱしにナンパか」

また別の顔が出てきた。黄蓋である。
黄蓋は出入り口付近に立つに言うにはあまりに大きすぎる声で「おい、そこの!」と声をかけた。怒号のようだが怒ってはいない。
「悪いが水をくれんか。鍛錬でちとしごきすぎたわい。ったーくおまえもわしにならっても少し筋肉をつけんか、筋肉をお」
「痛て!ケツ叩かないでくださいよ黄蓋殿」
「お水でございます」
「おう。・・・ぷはぁ!こんくらいで痛いだとう?鍛え方が足りんからそういうことになるんじゃ。よし、わしがひとつ足腰の筋肉のつけ方を伝授してやろう」
「いや、いいですって」
「遠慮はいらんて。なあ娘っこ、お?なんだずいぶん別嬪さんだな。あんたも筋肉のある男のほうがなよなよしいのよりも好きじゃろ」
「はい」
「え!?」
「そうじゃろそうじゃろ。聞いたか、美人にモテたいなら一に筋肉、ニに筋肉。ほれ、行くぞ」
黄蓋の強引さにか、の「筋肉好きか」「はい」の即答にか、ともかく凌統は驚いて口をぱくぱくするばかりで言葉の出ないまま黄蓋にしょっぴかれていった。

将軍がこんなところにまで直接出てくるなんて、曹操の近くではまずありえない自由さ、親しさである。
呉は大きな一族が集まって国の形を成している。たとえば陸遜は陸氏の一族を束ね、陸遜に従う私兵団を持っている。周瑜は周氏で非常に大きな一族だ。私兵団も大きく精強である。なかには甘寧のように水族をひとまとめにしている者もいる。そういった集団が集まっていてそれを束ねるのが孫家である。彼らは、色がばらばらの集団を互いに仲間だと思わせるための体制作り雰囲気作りに手を尽くし、成功しているのだろう。
の故郷の民は忠に厚く、王とその近親者を神様のように見ていた。しかしの父、先王は神格化されることを好まずよく城下を出歩いたり、城に市井から客を招いたりしていた。それが真に良政であったのかまだ子供だったにはわからなかった。曹操軍の侵攻で城は陥落したのだから、愚王だったのかもしれない。
「・・・」
ひとりでじっと立っていると心にあいた穴に冷たい風がとおりだす。
風に気づくまいと、は厨房の隅を熱心に掃除しはじめた。
五人の女官が「かっこよかったー!」と大騒ぎしながら帰ってくると、ススだらけになっていたは驚かれて笑われた。
その笑いに嘲りがないことには誰にも気づかれずに息をつく。



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