失敗した。
は手のひらを水からあげて月に照らした。
屋敷に戻ってから井戸水を桶にあけて何度も手を洗ったが、指先についたススがどうしても消えない。
明日は幸い休息日であるが、あさっての出仕で孫尚香の側にあがるのにこの有様では汚らしい。
(女官長に裏方の役目をさせてもらえるか尋ねてみよう)
声がかかったのはそのときだった。

「手が痛むのですか」

井戸に一人だと思っていたものだから、びくっと肩が跳ねる。
陸遜だ。墨をするときに水差しに使う小瓶を持っている。水をつぎにきたのだろう。
家来に命じればよいものをこの若く気の優しい当主はたいていの身の回りのことは自分でやってしまうところがあった。家来泣かせであるものの、家来達はこの親切で気取らない主をなかなかに誇りに思っているらしい。
はまだそんな親のような視点には立てず、萎縮した。先日叱られたばかりだったから余計に。
「旦那様、お水でございますね、すぐに」
慌てて立ち上がり、つるべを井戸の底に落としてからぎゅっと気合を入れて引いた。はじめてここに来た頃は、つるべをあげることすら出来なかったが、日々の訓練の甲斐あっていまではもう
「貸してください」
の頭の上から手が伸びて、陸遜は糸でも引くように水の入った桶を引き揚げた。それも家来の仕事だが、がなにかいうよりも水が汲みあがるほうがはやかった。
「・・・手を怪我しているのですか」
「え」
陸遜の目線がの手へ向けられた。怒られる気がして思わず手を背に隠すような仕草をしてしまったが、それが余計に陸遜の不審を呼ぶ。
「・・・見せて下さい」
「い、いいえ違うのです。これはススが」
言い終わる前に手のひらを暴かれた。濡れ手を触らせてしまったことを申し訳なく思う。そして汚い指先をさらすのが嫌で手をひっこめて、早口に弁解した。
「掃除をしていてとれなくなってしまっただけです。お目汚しを。申し訳ありません」
陸遜はもの言いたげであったが、「いえ、ケガでないならよかったです」と陸遜らしい物言いで収める。どこか不機嫌そうに。きっと言いたかったのはそれではないのだ。
ぎくしゃくしている。
なのに、陸遜は目を合わせず立ち去ることもしない。
へんな沈黙が落ちてきて「あの」と口火を切ったのは陸遜だった。
「この前は、すみませんでした」
「この前」で思い当たるのはひとつだった。
「手首を強く掴んでしまったのでその時に痛めたのかと思って」
はポカンとした。
このひとはのことを花の茎とでも思っているのだろうか。不意に湖でのことを思い出した。馬超に抱かれ身を清めたくて水に入ったのに、陸遜は入水自殺するのではと心配して遠くに行かないでと震えた声を発したのだった。
陸遜はもう覚えていまいが、あの夜に渡された”一番いい石”は小袋にいれて、ずっと帯の内側に結んでいる。
心の糸がわずか、ゆるんだ。
ゆっくりと手のひらを上向けて広げて見せる
「本当にススがついただけです。わたくしのほうこそ、大奥様のご采配とはいえ旦那様の知らないところで勝手をして申し訳ありませんでした」
「それは・・・いいんです。私が、私こそ少し私の預かり知らぬことがあったからといってあんなふうに責め立てて、お恥ずかしい」
はにっこり笑うのは得意でないけれど、微笑むような唇の形を作った。
「旦那様、まだ書きものをなさるようでしたら飲み物を部屋にお持ちしましょうか」
目の前の優しい主をこれ以上少年のように辱めまいと話を切り替える。
陸遜もまた肩の荷をようやくおろせたように小さな笑顔を見せた。
「大丈夫です。今日はもう休むので」
「そうですか」
ならばなぜその墨を磨るための小瓶に水をつぎに来たのだろう。
あるいは、謝るきっかけを作るための小道具だったのかもしれない。

「あなたもはやくお休みください」
「おやすみなさい」






「おはようございます」
「・・・」
木枠の内側に砂をひいたノートを用意し、老先生を待っていたは大きな瞳をまるく開いて言葉を忘れていた。
陸遜が視線に耐えかね咳払いしてみると、はさっと座椅子の横にずれてひれ伏した。
「おはようございます、旦那様」
「この時間は先生とお呼び下さい。
「せん、せ・・・?」
不安げな顔にそう呼ばれるとギクリとした。動悸がはじまって陸遜は慌てて訂正する。
「いえ、あの、呼び方はなんでもいいんですが、ともかくっ、今日からは私がじいの代わりです。きょ教科書はこれを」
陸遜はわざわざ自分の書架から持ってきた大切な蔵書を広げ、そこねて、よりによっての顔の上に取り落とした。
ぎゃっと思って「すみません!」と拾い上げると、の顔が間近である。
「あ・・・」
ぶつかって赤くなった額と鼻のあたまから唇に意識がすすんだところで陸遜の目は、やわらかそうで艶のいい唇から離れられなくなった。
「し、失礼しました。痛かったですか」
煩悩を振り払うように大げさにのけぞる。から身体を遠ざけながらを気遣う言葉を口にした陸遜を、開け放たれた扉の両端から、叔母君、姉君、じいがニヤニヤと見守っていた。



呉の空がひとつ高くなった。
七日に一度の国語で陸遜は自分のとっておきの蔵書を惜しみなく教材として提供し、はその心遣いに毎回感謝を述べながらよく漢語を学んだ。の文字はそのまま写本を書かせたら売れそうなほど整っていて、幼い頃に上等な教育を受けていたのだろうことは容易に想像できた。
世が世ならこれは確かに姫だったろう。美しく聡明で民に愛されていただろう。もっと笑っていたかもしれない。
もっと笑ったらどんなにいいだろうと思った。同時に、泣いたらいいのにとも強くそう思った。
曹操のもとで乙女とともに涙も奪われたのか。
そう思うと悔しくてしかたなかった。
交わす言葉が増えてゆく。
口数がすくないからこそこの人をもっと知りたいという思いがつのりつのって、あられもない姿にひん剥きこの腕に抱く夢さえ見る始末。

疑いようもない恋であった。












***



「異民族の討伐、でございますか」
「ええ」
幸福な七日に一度の授業のおわり、片づけをしながら陸遜は異民族討伐の指揮を任ぜられたことを話して聞かせた。
「四日後からしばらく家を空けますのでその間はじいがこの時間を代わります」
仕度を手伝わせるのは他言しないと信頼のおける家来だけだ。陸遜は信をあらわすためにあえてに言ったのだが、その想いが伝わったかどうかはわからない。
はしばらく考え込むように手元を見つめてから
「その者どもはおそろしい振る舞いをしてきた者どもなのでしょうか」
と尋ねた。
「ええ、そうですね、もとは山賊のような集まりだったのですがだんだんと勢力を強めて、いまでは組織的に麓の村を襲って略奪を繰り返している連中です。これまでにも何度か軍を編成して討伐にあたってはいるものの」
そこで陸遜ははっとした。
「すみませんっ。あなたのまえで異民族の討伐などと・・・軽率でした。ですが、私たちは曹操とは違いますっ」
「わかっております」
はゆっくり首を横に振って、そういう意図はなかったとあらわした。
「乱暴な相手で旦那様の御身に大事があれば、わたくしども家来は悲しいからです」
「・・・そう、でしたか」
「どうかお気をつけて」



その山越討伐では、完全掃討とまではいかなかったものの成功と呼べる成果をあげた。
しかし陸遜の表情は明るくない。
異民族の討伐などいまの世では、殊、呉ではよくあることだが陸遜はどうしても彼の故郷と重ねずにおれなかった。その迷いが陸遜の心を鈍らせたのである。しかし幸か不幸か、頭と心がまったくの別物であるかのように陸遜の指揮は微塵も鈍らなかった。
効果的で効率的に寄せ集めの兵を用い、討伐は速やかに遂げられたのである。

都に戻り孫権の労いの言葉を聞いても、罪の意識は若く真面目な陸遜を苛んだ。
身体は疲れているのに眠れない日が何日か続き、酒にも女にも逃げずに陸遜は生真面目に解決策を模索した。
そして律儀に、無理やりに、導き出した。

が心穏やかにこの場所で暮らしてゆけるようにすること

それが罪滅ぼしになる、ような気がした。
決して論理的な結論ではない。は陸遜に罪があるなどと思っていないだろう。それでもが嬉しそうに笑ったならば陸遜の心はもうひとつあかるい場所へいけると確信めいたものを感じていたのだった。
「・・・具体案を練らなくては」
思い立ったが吉日。陸遜は寝台から身体を起こし月明かりさす窓際で筆をとった。うーんうーんとデキの良い頭をひねり、彼の手元を照らす明かりが朝日にかわっても筆が置かれることはなかった。さらには職務の間も隙間の時間を見つけてはが嬉しそうに笑うのはどんな時か、なにをすればいいのか策を練り続けた。

「もうっ、買い物でもしてめいっぱいうさばらししたーい!」

そんな、見知らぬ女の声に弾かれたのは、都督府から認印を貰って帰る途中のことであった。
「ちょっと、はしたないから大声出さないの」
「あのエロオヤジときたら毎度毎度酒宴のたびに調子乗って、あ!孫権様の酒宴ってもうすぐじゃないっ!?絶っ対いやー!」
「はいはい、わかったから・・・あ!」
向かいから歩いてくる陸遜に気づくや、二人連れの女官はポッと顔を赤くして豹変と言っていいほど突然につつましやかな歩みに変わった。しかもなにやら陸遜が目を見開いてじっとこっちを見ているから恥じ入って袖で顔を隠したりしている。
陸遜は彼女らとすれ違う寸前で、まるで上官を前にしたときのように力強く拱手を組んで
「ありがとうございます!」
とハツラツと言うなり、廊下の向こうへ駆けていった。
女官はポカンと口をあけて、もう見えなくなった背中の方をしばらく見ていた。







「よくやった」
孫権の言葉を折り目正しく立派に賜る姿を呂蒙だけは複雑な心地で見守っていた。
討伐に出る直前に急に気落ちした陸遜に気づき声をかけ、相談にのっていたのは彼だったのだ。
「あの、呂将軍」
「おお、殿か」
お茶を運んできたが珍しく呂蒙に話しかけた。この口数の少ない美しい女官は、女官の格好をしていてもやはりどこか違和感があって二人きりのときに目などあったりすると、どうしてもどきりとするものがある。
「・・・あ、ああ、陸遜に用事か?今日は人手がなくてな、あいにくあれは都督府に遣いに出しているんだが」
「いえ、将軍にお伺いしたいことがあって参りました」
「わしに?どうされた」
期待に胸がざわめく、ようなことはさすがにない。
「陸遜のことか」
図星らしい。呂蒙はちょっと笑った。
曰く、陸家の家人たちは陸遜が山越の討伐の任を受けたところから少し元気がないことに気づいていたそうで、お役目を果たしても浮かないから心配をしているのだそうだ。
呂蒙は言うべきか言わぬべきか思案して、に目をやった。
無礼はないが、将軍を前にして愛想笑いもない。強いて読み取れる感情をあげるなら心細いように見える。
呂蒙にはこの姫君が陸遜を恋しく想っているから彼を気にかけたのか、家人皆が心配をしているからそれを代表して勇気をだして呂蒙に尋ねたのか、ちょっと観察したくらいではわからなかった。
「そうさなあ・・・」
あご髭を撫で、重そうに口を開いた呂蒙には真剣なまなざしをそそいでいる。
「原因はあなたやもしれぬ」
大きな瞳が見張られた。
予想だにしていなかった、なんのことかわからない、なにかしてしまったろうかという顔だ。
頬を染めるよう反応はなかったから、陸遜の想いの道のりはまだしばらく長いらしい。
「いや、なに。山越討伐の折、討つべき相手にあなたのような家族がいる者もあるだろうと思って迷っていたそうでな。これでは自分は曹操とかわらないのではないかと」
は言葉より先に身体が動いたという様子で驚いたまま首を横にふった。
ほう、と呂蒙は思う。人間らしい仕草もするものだ。
「そのような・・・、そのようなことは決してありません」
「はは、そうか。そうだな。あれは真面目すぎるところがあるから肩の力の抜き方をそろそろ知らないといけない」
は長いまつげを哀しげに伏せて、唇を引き結んでいる。このときは授業の終わりのやりとりを思い出して、自分が不用意な言葉を発したからと思い当たったが、さすがにそこまでは呂蒙にも想像が及ばなかった。
だが、思いつめたような表情を見下ろして、こっちもこっちで真面目そうだと呂蒙は聞こえないようにため息する。と、そのとき走ってくる足音が聞こえてきた。
誰かと開け放ったままの扉のほうを見ていると、執務室の前をすごい速度で通り過ぎていったのは陸遜だった。
ほどなく走って戻ってきて呂蒙より先にを見つけるや「あ」の形で口を開く。
「どうした陸遜そんなに急いで。あと廊下は走るな」
「すみません!呂蒙殿!」
「で、どうした」
殿を探していましてっ」
肩でしていた息をすっと落ち着かせ、困惑の色を見せたのもとへつかつかっと歩み寄る。
殿」
すこし低くなった真面目な声音に、決意の燃える瞳に、見上げるは少しおののいて身をそらす。



「次の休息日に買い物に行きませんか!」



時が
とまった
「・・・」
「行きたくないでしょうか」
沈黙を拒否と思ったのか陸遜はかなしげに眉根をよせる。
その表情にははっと今聞いたばかりの呂蒙の言葉を思い出す。



「参りますっ」



自分が陸遜のことを曹操と同じなどと決して思っていないことを伝え、陸遜に肩の力をぬいてもらわなければ。
にしては大きな声で前のめり。売られた喧嘩を勝ったような風景に似ている。
「ゴホン」
二人の間で空気の役割をしていた呂蒙が勇気を出して咳してようやく、二人は常の二人にもどり、青ざめて平伏した。



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