陸家の門前に美女が佇む。
横にいる門番が気まずそうにしながらも、お出かけ着のを横目でちらちらと見ては緩みそうな頬に力をいれ、唇を波打たせている。
は大それたことをしてしまった。してしまっている、と頭痛がする思いであった。決意して承諾した昨日、あの瞬間は逢引の「あ」の字も頭なかったがこれは完全なる逢引である。
陸氏の当主と、客といえば聞こえはいいが単なる捕虜と言われても仕方のないが二人で街へ繰り出すなどあってはならない。
殿」
あってはならないのだが
「ま、待ちました、か?」
陸遜が向こうからやってきて緊張の面持ちでセリフを棒読みした。
「・・・ぃぃぇ」
蚊の鳴くような声では地面に向かって答えた。
曹操に尊厳を奪われてから七年、には逢引などはじめてのことだった。



絶妙な隙間をあけて、陸遜とは盛大な門前市のたった街を行く。
喧騒の只中にありながらたった数十秒の沈黙すらとこしえの無音のように感じ、先に声を喉から絞り出したのは陸遜だった。
「きょうはいい天気ですね」
朝の近所のおばちゃんみたいなことを言った。間違ったと思いあたって自分に絶望したが口から出た言葉はひっこまない。
「はい」
極めて短く答えて会話を途切れさせたも悪い。
「そ、そういう服も持ってらしたんですね。似合っています」
とりあえず褒めろ、とは「こうみえてむにゃ、昔はブイブイいわせとりました」と豪語するじいの助言である。
「これは・・・大奥様が貸して下さいました。だんなさ・・・陸遜様のお好きな色と伺って」
この震えるの声にも幾人もの支援者の助言が反映されている。
真面目すぎる二人のバカなやりとりを目の当たりにした呂蒙は、あまりにも心配でこの話を陸氏の影のご当主二人のお耳に入れた。聞かせた瞬間「うひょ」という顔をしたお二人だったがすぐにピリっとデキる女の顔になって胸を叩き、家来を集めた。
なかには嫉妬する者もいたが、(あぁ!これじゃまるで逢引だ!どどどどうしよう)と気づいてから陸遜とが動揺しすぎて二人して気分が悪くなっている様子を目の当たりにしたら、こいつら本当に大丈夫か、という親心が台頭してきて、せっせと若人に助言など与えたりしはじめたのだから不思議だ。

逢瀬は男が迎えに来る待ち合わせから始まらねばならない。
という下男の持論を受け、陸遜は外から自分の家に恋人(ではない)を迎えにくる羽目になったのである。
「服は私の若い頃の勝負服を差し上げましょう。陸そ、ではなくて旦那様は服を褒めるでしょうから、あなたの好きな色だと聞いたから着てきた、と恥らいながら言うのですよ」
と陸家の大奥様は貸し出しではなく服をに贈って、は萎縮するあまり言葉の意味も効果も考えないままに、ただただ大奥様の仰ることを完全に履行しようとセリフを暗記して練習してきた。逢瀬では陸遜と呼べと、これも指示通りである。
じいと陸家の私兵団、下男たちのいうとおりにやっていると、陸遜は今日のうちにを抱くところまで行くらしい。陸遜は「不埒な」と赤面を押し隠して一蹴した。今回の買い物の目的はに楽しんでもらうことだ。彼女が楽しげに微笑んだなら山越討伐の後ろめたさもいくらか薄れる。陸遜が楽になるための、小ざかしい催し。
「・・・殿、なにか見たいものはありますか」
え、との目が泳ぐ。
特に見たいものはないのだろうが、無理やりに「では、あれを見てもいいでしょうか」と恐る恐る指差した。何の変哲もない、編んだ笠がいくつも並んでいる。お互い色々吹き込まれていることは知っていたから、何でもいいからわがままを言えと、そう指示があったのかもしれない。
しかし思いのほかは本気で興味深そうに編み笠を覗き込む。
手は出そうとせず上から見たり横から見てみたり、膝を折って屈んで下から見たり。
(掬い取って見ればいいのに)
陸遜は思って浅い円錐の形をしたそれを一つ手にとった。の視線が陸遜の手を追う。
「・・・手にとっていいのですか」
「いいと思いますが、店主、いけませんか」
「もちろん、どうぞどうぞ」
陸遜との金持ちそうな身なりをみて、笠屋は目じりを下げてスカスカの歯を見せて笑っている。
の頭の上にぽんとのせた。
まるではじめて露店を見るような口ぶりだ。一応尋ねる。
「こちらに来てから、買い物をしているのですよね?」
「買い物は・・・一度荷物持ちをしたのですが落としてしまい、それきりです」
笠の影で口元しか見えない。買い物はやらせてもらえなくなった。聞いたことのある話だった。
「まさか、ではこういう買い物は」
「はじめてです」
笠のまえをくいとあげて、すこし興奮しているような赤らんだ頬に目はわずか、弧をかいて。陸遜は顔を店主の方へふいと向けた。
「これを」
「まいど」
金銭の受け渡しを見たは驚いて笠を頭からとる。陸遜が歩き出してしまっていてどうすべきか店主を見ると、店主はご機嫌で陸遜の背を手のひらで指し示した。
「だんなさ・・・陸遜様、あの」

陸遜は不安げなの声を聞いたが、振り返らずに人を避けて進んだ。これもまたを不安にさせたが、彼ははじめての買い物をするがいたくかわいらしく思えて、唇を噛んでいたのだった。
(かわいい)
(かわいい、かわいい、かわいい、かわいい、かわいい)
ずんずんすすんでいるうちに、はっと気づいて振り返った。
あるのは見知らぬ人の波、編み笠をかぶったの姿はどこにもない。
慌てて踵を返した。



その頃は、見事に悪漢二人組に絡まれていた。
上半身に派手な刺青を彫っていてその風体は甘寧に似ている。さらにはを頭のてっぺんから見下ろすほどの巨漢である。
通りを行く人は肩がぶつかるほど大勢いるのにの姿は巨大な身体に隠されて、すっかり見えなくなっていた。隣の露店の店主や気づいた人も男らの風貌を見ると見てみぬふりを決め込んでいる。
「そう睨むなよ。あんたみたいな別嬪に睨まれたら気持ちよくなっちまうだろう?」
ヒヒヒと不快に笑い、を壁際に追いやりにやにやと猫なで声を発した。
「ああごめんね。こいつデカいなりしてそういう趣味なんだァ。で、俺たちとゴハンでもどうよ?」
は笠を胸の前で抱いて
「いいえ」
と答えた。
「そう」と男は短く言うや、きゅうに声音が低く変わる。
「じゃあそこの路地裏で遊ぼうか」
熊手のような手がの手首を掴む。ぞっと鳥肌がたっては逃れようと身をよじるがつかまれた一点が離れない。の抵抗を見て、手首を握る手に必要以上の力がこめられた。手首の骨にはしった痛みに身体がびくりと震えはうすい背を丸める。
「その方にご用ですか」
言葉こそ丁寧であるが、目は巨漢二人を低く見下ろすがごとく冷たい。
「陸家の客に用向きとあらば当主たる私がうかがいましょう」



陸家の名はこのように使ってよく通じるくらいには有名である。
「怖い思いをさせてすみません。大丈夫でしたか」
は大丈夫とうなずいた。
「失礼」と言い置いて手をすくい、袖をあげるとの手首には内出血をしてるような様子はなかった。
ほっとしたが、同時にまじまじと見る細い手首に、とった小さな手のひらに不謹慎な思いがよぎった。小さな手には少しだけザラとするところがある。彼女の水仕事でできた勲章か、夜な夜な棒を振ったまめかもしれない。愛おしい、気がした。
「これ、かぶりましょうか」
陸遜はがきつく胸に抱きしめていた笠をとり、ちょっとつぶれてしまった形を整えるとの頭にのせて顎の下で紐を手早く結んだ。
困ったようなの表情が見えた。
(人の目をひく)
初対面でない陸遜でさえ時々ぞっとする。裏腹に笑った
「今日は日差しが強いですから」



そこからは緊張をおしてもに気を遣りながら市を見て歩いた。
は、へたに興味をもつとまた物を陸遜が買ってしまうのではないかと気にして、まんべんなく眺めるだけになった。それが見て取れて、陸遜には教訓が刻まれる。
ふがいない。
「はじめてのお買い物」に妙な興奮を覚えて当のをおいてけぼり。そもそもを辿れば交易通訳をなどという豪語から発し、約束をたがえたところから陸遜はもうずっと、に対してふがいないままだった。
「・・・お茶でも飲みましょうか」

「いやあ混んでるもんで、おもての長椅子でよろしいですかね」
申し訳程度に屋根の影に入ってはいるものの末席中の末席に案内されたこともまた、この身のふがいなさから生じたものか。陸遜は我知らずため息をおとしていた。
「お疲れでいらっしゃいますか」
に声をかけられはっとする。
「い、いえ」
陸遜は首を振ってぴっと背を正し、胸を張ったが信じてもらえるはずもない。二人でいるときにため息なんで失礼だ。
「こうして、少し後ろにもたれると楽です」
は陸遜のきゅうくつな背に触れて、後ろの壁へもたれろと促す。
そこへお茶とつまみの塩豆が運ばれてきたことは、陸遜をすくった。
「・・・ここはいつもこのようににぎやかなのですか」
お茶でほっと息をついてから、は混みあってにぎやかしい通りを見つめる。
その声があまり落ち着いていたものだから、陸遜はすこしの反省をしてしずかにとおりに行く人に目を移した。屋根の影のこちら側とそちら側、すぐの距離なのに喧騒はどこか隔絶され遠い気がした。
「そうですね。ここは商いが盛んな街ですから。この豆の塩もそうです」
塩豆をひとつとって口に放る。
「塩の取引は昔からありましたのでおかげで料理はとてもおいしいのですよ。絹の商人もやってきます。ここよりずっと西からひっきりなしに。絹の商人はほかにも色々珍しい品を運んでいるのです」
「これもですか」
は膝においた笠に大切そうに触れた。
「それはありふれたものですから、きっと近くで作られたのだと思いますが。気に入りましたか」
「はい。ありがとうございます、陸遜様」
「よかった」
ここしばらくの落ち込んだ心に、社交辞令かもしれないありがとうがそれでもひどく優しく染みわたる。
弱い心を隠そうと笑ったら、自嘲をはらんだ陸遜の笑みは彼が思うよりもずっと力ないものになっていた。
「あなたが嬉しいなら、ほんとうによかった」

「・・・陸遜様」

陸遜の手に手が重なった。の両方の手のひらだ。
「わたくしは陸遜様を応援しています」
「へ」
おどろきのあまり、変な声をあげてしまった。一方のは真剣な表情ですこし身を乗り出してさえいる。
「ご家族も、お屋敷の方もみんなそうです」
色っぽく手を重ねられているのではない。強い。けれど優しい。
「わたくしは陸遜様を尊敬しております。ふるさとをはなれてのち、もはやふたたび人として生きるとは思っていませんでした。もしあなた様がわたくしを交易通訳にできなかったことを悔いておいでならそれはちがいます。叶わないほどわずかな希望でも、それをかなえようとしてくださったことがなにより嬉しかった」
これは励ます手の圧力
「本当です、本当です」
言われなくても、強い感情をあらわさないこのひとのこの姿に、熱い手のひらにどうして嘘だと指をさせるだろう。
違うよと言うとしたら、こう言う。
あなたは美しいし、知れば優しい。あなたに親しめば男たちはこぞってあなたの願いを叶えるために動くでしょう。私もその男のひとりにすぎない。ただ、曹操のもとから逃れて最初にあなたに会う幸運を得ただけだ。あなたに最初に会えて幸いだ。そして同時に、これ以上どの男の目にも触れないように隠してしまいたい。
言えない。そんな歯が浮くような言葉。
伝わったか、伝わったかと大きな瞳がじっと陸遜を見つめている。
「ありがとう」
いまはまだ、つめられるかぎりの感情をこめてそう言うのが精一杯だった。
陸遜の頬にわずかな生気を見て、はどこかやりきった表情で重ねていた手を浮かせる。
しかし、下になっていた陸遜が手のひら一つ、つかまえた。
は一瞬なにかの手違いのように思ってか陸遜に目で訴えかけたが、陸遜が人ごみをじっと、見てもいないのにじっと見ていると知ると、指先がひくと一度動いたきりその手から逃れようとはしなかった。
もまた見てもいないのに、通りを見た。
二人の間に置いた塩豆はいつまでたっても減らなかった。






それきり繋いだ手ははなれなかった。
夕暮れの街を歩き、帰路は一緒だ。陸遜は手をはなす時を悩みながらも、はなすのが惜しいくてならない。
行くひとはまばらで長い影が落ちている。
惜しい手は市場の入り口ではなした。
来たときと同じ、税妙な距離をあけて屋敷に戻り、ひやかす視線をうけながら別々のへ部屋に帰った。
「なにを買ってもらったの?」とと相部屋の女中が興味深深で尋ねた。
「編み笠を」とがはにかんで笠を見せると「それだけ?」と女中は目を丸くする。
「髪飾りとか、宝石とか、服とかは?」
首を横に振ると「もったいない!せっかくお膳立て頑張ったのに」と批難が浴びせられた。
そうは言うがは未婚の陸遜とどうこうなれるとは思っていない。
名門陸氏の主に正妻がないまま曹操の妾ごときがどうにかなれようはずもないのだ。
陸遜ももそれをよく理解していたはずなのに、互いに手を振りはらえなかった。
呂蒙に話したなら、若さゆえだと苦笑しながら同情してくれるにちがいない。



<<  >>