昼間の陸遜はぼうっとしがちだった。
呂蒙が執務室でしばらく陸遜を観察していると、一つ書簡を検めおわるとぼうっと手を見つめて、一つ木簡を書き終えると天井を仰いだり、そして突然口元をおさえたり。
呂蒙は注意すべきかと迷ったが彼の仕事の速度は平時と変わらないのだから末恐ろしい。
ついでに言えば、陸遜は普段から他の官吏の倍は効率よく職務をこなしている。
呂蒙のほかの部下が席をはずしたところで陸遜に声をかけた。
「昨日はよほど楽しかったようだな」
「あ、いえ、すみません。集中します」
陸遜はぽっと乙女のように顔を赤くした。
「はは、休憩時間だ。おまえも休め。うれしいのはわかるが休まんと夜は体がもたんぞ」
「夜だなんてっ、そんな。私たちはまだそういう関係では」
「落ち着け陸遜。そういうことではない。今日は孫権様の酒宴だとわすれたか」






夜の陸遜はもみくちゃにされていた。
お酌ついでにしなだれかかってくう女性を突き飛ばすことは彼の正義が許さず、言葉でどうにかかわそうとしたが、今度は逆側にいた女性からこめかみに口付けが送られる。
「かわいい」
という囁き付きだ。ぎょっとして身体を引き離そうとしたら、今度はまた逆から唇の端にやわらかいものが当てられる。笑い声こそあれ、呑み、笑い、舞い、歌う宴の場に注意する声などひとつもない。
男には二種類あって、女性に囲まれた場面で楽しめる男と、萎縮して楽しめない男がいる。と手をつないで喜んでいるような陸遜はまだ完全に後者で、たまらず席を立って廊下に逃げようとしたが、道半ばで腕を引っ張られてしりもちをつきかけた。
「陸遜っ、どういうこったよ」
因縁をつけるような口調でずいと迫ってきたのは凌統である。吐く息がすっかり酒臭い。
「おうおうおうなんだ陸遜」
凌統の正面には目の据わった甘寧が大きな酒壷を抱いて胡坐をかいている。
「おめえ凌統に味方するってえなら真夜中の長江泳いでみてえとこのオレ様に懇願してるのと同じだって知ってっか」
凌統のまわりに女性がいないのはこの二人がやがてケンカを始めるに違いないとみんな知っているからだ。
強引な異性からは逃れたものの、今度は強引な同性にからめとられてしまい、陸遜はいまだ若造扱いのわが身を呪った。
「どういうこったって聞いれんらろっ」
「凌統殿、いえ、ちょっと廊下に出て外の風にあたろうかと」
「そういうこっちゃねえっての!ちゃんどこだよっ」
飛び出した名前に陸遜は驚き、甘寧は興味をしめした。
ちゃんだあ?誰だそれ」
「ハア?城じゅうもちきりだってのに知らないたあさすがにド田舎者の水賊だ。いまは中庭の池にでも住んでんのかね」
「んだとゴラ」
「バカに教えてやろうじゃねえの。陸遜サマのお屋敷で囲われてる美女さ。ついこの前から姫さんとこのお付きやってんだ」
「はァアん?おめえまだ結婚もしてねえくせにそんなのとバコってんのかァ?カワイイ顔してすみにおけねえや」
ひどい言い様だがしょせん酔っ払いの戯言。まともに付き合ってはいけない。
甘寧にいたってはすでに会っているどころか、「三国一と名高い姫だ」と自ら声をあげて引き摺りまわしていたのだが、あの時も酔っていたから覚えていないのだろう。
がこの宴会場に一度も姿を見せていないことは陸遜にとって不幸中の幸いであった。
「凌統殿、甘寧殿、もうそれも残り少ないでしょうから別のおいしいお酒を持って参りましょう」
陸遜は甘寧がいとおしげに抱えていた酒壷を受け取った。まだ中身はだいぶあるが、酔っ払いの甘寧はおいしい酒と言われて「おう?」とちょっと嬉しそうにしている。ああよかったと立ち上がろうとしたら後ろを引っ張られて今度こそしりもちをついた。
「んなこと言って逃げようたってそうはいかねえよ。ちゃん連れてくるまで容赦しねえ」
「そんなにイイ女だってんなら俺に抱かせろ。朝までかわいがってやらあ」
はは、と陸遜は怒りを顔にださないように上っ面で笑う。
最近ようやく酔っ払いのいなし方もわかってきた。だからしりもちはまあよい。
だが、これ以上私の・・・我が家の客に対して不躾な言葉を重ねられ続ければ覚えたばかりの薄っぺらの上っ面などどこかに飛んでいってしまう。
「だいたいなあ陸遜、おまえがそんなイイ子な顔してる間に熊みてえな男にあのコが頭からぱっくり食べられちまってもしらねえぞ」
「食ってやろうか?」
「・・・すみません、私はそろそろ」
陸遜は膝を起こした。
「だってよおあのコの好きな男のタイプ、筋骨隆々な巨漢なんだぜ?」
「え」
立ちかけた膝が止まる。
「そいつぁいい。それじゃあ楽しんだ後は腕枕でもしてやるかな」
「黄蓋殿くらいが好みなんだとよっ、バ甘寧が」
「てっめえ・・・そのなよなよした筋肉で俺様の筋肉を小馬鹿にしようたあ身の程知らずが過ぎやしねえか」
「小馬鹿になんてしてないね。大馬鹿だろうが」
「いまは筋肉の話してんだろうがっあ゛あ゛!?」

が適当に「はい」と受け答えした内容が、まさか「筋骨隆々な巨漢が好き」と意訳されているとは聞いた陸遜も、言ったも思いもよらない。
「どっちの筋肉がかっこいいか」でケンカをはじめた凌統、甘寧には解放され陸遜はふらふらと宴席を抜け出して、ひとりになったところで呆然と立ち尽くした。
何に衝撃を受けているのか。
が自分の見てくれとは正反対の男が好みだということにだろうか。正反対の男が好みと知って一瞬動けなくなるほどの衝撃を受けたことに対して衝撃をうけているという可能性もある。
ともかくり、り、り陸家当主として冷静にならねばと視線を泳がせると手元に甘寧から預かりうけた酒壷がある。
冷静になれ
冷静になりたくない
冷静になれ
頭がこんがらがって、陸遜は壷のふちを口にあてるや壷の底を月へ向けてえいやと持ち上げた。







「若さm、じゃなくて旦那様お目覚めで」
両側から肩を担がれた屋敷への帰り道で陸遜はようやく目を覚ました。
「おみず飲むでしょう。どうぞどうぞ」
陸遜はうつろな目で差し出された竹水筒からごっくんと飲んだ。
「おいしいでしょう。殿が用意してくださったお水ですからね、ね?ひひっ」
「・・・どの」
「そうですよ。旦那様がこんなことになっている間もひとりで広ぉい厨房きりもりしてましてね偉いじゃあないですか。あとでちゃんと褒めてやってくださいよ。あと俺たちもね」
「私なんかに、褒められても」
「なにをおっしゃいますやら旦那様」
「こんな・・・きんにくでは・・・」
「おお、マジで何をおっしゃいます若様っ!?」














***



は料理をすべて出し終わった厨房で火の番を任されていた。
昼間から料理、酒、宴席の準備で忙しかったのは、昨日のことを鮮明に思い出さなくて済むからむしろよかった。
しかし、こうして嵐が去ってもうお湯のなかで熱燗が温められているだけといった有様になると、考える時間ができてしまう。
手のひらを見つめてみようかと、ずいぶん控えめな思いつきがあったとき、捕り物があった。

突然槍を携えた兵士たちが入り口に現れたかと思うと、あっという間になだれ込んでひとりの下男をねじ伏せたのである。
同じく厨房にいた女官や、休憩をしていた料理人たちは悲鳴をあげたり突き飛ばされたりして、騒然となった。
はなにごとかわからず、他の女官たちと一緒に厨房の隅で震えていた。
「逃げたぞ!」
声に振り返ると別の男が勝手口から飛び出していくのが見えた。
誰も追いかけないから向こうにも兵が待ち構えているのだろう。
一方の土間にねじ伏せられた男は獣のような声で暴れていたが、その顔を鞘が容赦なく打った。
飛び散った血が黒く土間に走る。
女たちは悲鳴をあげて目を覆い、にすがりつく者もあった。は震える腕で怯える女の頭を抱いてやり、しかし双眸は鞘をはらった周瑜からそらすことができない。
「宴ならば容易く毒を盛れると思ったか」
白皙の貴公子は、貴公子然とした笑みをたたえながら剣の切っ先を男の耳に寄せ、爪先に鉄の入った靴で顔を踏みつけた。体重がかけられ骨のきしむ音がする。
「曹魏の狗め」
鉄の爪先が男の頭を蹴飛ばすと耳障りな鈍い音がして男はそれきり静かになった。
「・・・連れてゆけ。ご婦人方、騒ぎ立ててすまない。このことは他言無用だ」
周瑜の目は、唯一顔をあげていたを見ている。
こくんと頷くと、周瑜は同じ笑みで「よろしい」と言い、兵と泡を吹いて気絶している男を引き連れ立ち去った。

驚き、真っ青になっている女官たちの背を撫でてなだめ、湯を飲ませて落ち着かせる。
料理人たちに頼んで女と腰をぬかした者たちを運び出してもらい、はひとり残って火の番を続けた。
手が寒くて燃える炎に手のひらをかざす。
「もし、そこの方。我が主に酔い覚ましをくださいませんかって、おや、殿」
またなにか来たかと一瞬緊張したが、見慣れた陸家の家来だった。明るくておしゃべりな男だ。
「やあ丁度よかった。若様、っじゃなくて旦那様が失恋でもしたのかというほど飲みすぎて吐くわ寝るわの大惨事に」
「・・・」
「どうかしましたか、なんだかお疲れだ。まあ仕方もない。宴の厨房はさぞや慌しかったでしょう。それにしてもあなたが裏方なんてもったいないなあ。宴席で姿を探して嘆いた男は旦那様だけじゃなかったはずだよ。俺もそのひとり。なんつって」
「・・・旦那様はご無事で」
「ハハッ。出すもの出してだらしなくお休みです、大丈夫。でもあんまりあのお姿でほっとくのもかわいそうだから持って返りなさいって呂蒙様が」
竹の水筒に水をいれて預けた。
「ああそうだ。殿が持って言ったほうが旦那様ったら喜ぶかも。行きますか?」
「火の番を仰せつかっておりますれば」
「やあ、やっぱり真面目だなあ。それじゃあ水だけ。俺は男どもと若様をお屋敷に放り込んできますんで。がんばって」
「お気をつけて」
始終明るい陸家の家来と陸遜に珍しい酔いぶりを想像して、すこし気分が落ち着いてくる。
それなのに手足に血が戻ってくるときゅうにぶるっと大きな震えが来てその場にはうずくまった。
帯越しに石に触れて必死に絶えた。



<<  >>