捕り物の記憶もようやく遠ざかった頃、尚香自ら使用人の控え部屋まで現れてを呼んだ。
明るい笑い声がたえなかったそこに一瞬だけ空白がうまれる。
は駆け寄った。
「あなたに頼みたいことがあるそうなの」
誰からの頼みかとは皆が耳をそばだてるその場では聞けず、尚香もその場であえて言わずに歩き出す。
は従順に尚香のあとをついて歩いた。
「たのまれごとは周瑜からよ」



あとは周瑜の部下に案内されてひろい房の前にたどり着いた。周瑜の執務室だ。
周瑜の卓を中央奥において、その左右に机を並べる補佐官たちは驚いたように場違いなの登場を見ていた。
「やあ、姫君。お久しぶりです」
久しいというほど日は離れていない。
あの捕り物の間のことなど眼中になかったのだろう。
震え出しそうになるのを必死に堪え拱手をして、顔が見えないように深く顔をうずめた。足音が近づいてきてと並んだところで立ち止まる。
「急に呼び出してすまないな。うん?震えている」
背に周瑜の手が置かれ、は見てわかるほど身体が跳ねた。
「はは。なにもとって食おうということはない。ただあなたに見てもらいたいものがあってな」
前線総司令官の卓に導かれた。卓の上には広げられた竹簡がある。

懐かしい文字が並んでいる。

この国の文字よりもずっと線の少ない、その竹簡は故郷の言葉を綴っているのだ。
なにがなんだかわからず息がつまった。
もしかしたら間者と疑われてこれから詰問されるのではなかろうか。あの男と同じように耳を切られ、殴られるのではなかろうか。恐る恐る周瑜を見上げると、周瑜は不気味なほど美しく笑んで
「わかるね」
と囁きかけた。
は頷くこともできずに細い肩を震わせる。周瑜は笑みを深くしての両肩に手を置くと、椅子に座らせた。周瑜の椅子だ。
おそれ、は立ち上がろうとしたが両肩に置かれた男の手はその風のような容姿と相反し、の身動きができないほど強い力で彼女を椅子の上に縫いとめていた。全身から油汗がにじみでる。
「遠方からの返答なのだが読めるものがいまは別の場所にいてな。来るまでにひと月はかかる。そこで以前陸遜が言っていたあなたのことを思い出したのだ」
は「はい」と返事をしたかったが、喉がからからになっていて声はうまく出なかった。
「われら孫呉に大きな利益をもたらす商団との交渉だ。一刻も早く返事を読みたい。読めるだろうか」
肩にある手が重い。たくさんの見開かれた視線が向けられている。
身体が冷たい。全身が震える。息がつまる。喉が
「さあ」
はごくんと生唾を飲み込んで、石のように固まったまま冒頭の言葉を震える声にのせた。
の小さな声を拾おうと、周瑜の顔はすぐそばまで寄せられる。白皙の美男子などと浮かれる余裕はひとつもない。は教育こそ受けたが十三才で曹魏に攫われたのだ。大人の書く言葉には慣れていない。読めない言葉が出てきたらどうするだろう。意味を間違えたら。交渉ごとの返答だと周瑜は言った。ならばその返事が周瑜の意に沿わぬものであったなら
いくつか読めない言い回しはあった。
そのたび心臓が止まる。
周瑜に「飛ばしていい」と言われ、長い時間をかけて書簡の内容を最後まで読み終えると、トンと軽く背を叩かれた。
「助かったぞ」
文字を音にすれども意味はひとつも入ってこなかった。周瑜の表情からしてよい内容であったらしい。やっと解放される。
「緊張しているところすまないが、返事を書いてもらえるか。なに、短いものでいい。良い知らせに感謝する。孫呉は近い西方使団来着を歓待すると、それだけでかまわぬ」
読み終えた竹簡にぽたりと汗が落ちた。












***



夜が来て、蝋燭の火も小さくなった頃、呂蒙の執務室にはもう陸遜しか残っていない。
「陸遜殿、少々よろしいか」
そろそろ切り上げて帰ろうかというときに突然周瑜の使いが現れた。
事情を聞かされ驚き、陸遜はほどんど走るような速さで城内を進み、至極立派な造りの周瑜の執務室までたどり着いた。廊下から朱色格子のしきり越しに周瑜のすらりと高い背が見えた。側近三人も彼に並び、卓を取り囲むように立っている。
「周瑜殿っ、お呼びと伺い参じました」
「来たか」
周瑜が半身を開くと卓についていたと目があった。その瞳が助けを求めるがごとく見張られていたから、陸遜は礼もわすれて「あ」と声をあげてしまった。
何かに怯えると、困惑する陸遜の間で美周郎は椅子にかけていたの背を紳士的に促し、陸遜のそばまで歩かせる。
「陸遜、おまえの姫君を借りた。屋敷まで送ってもらえるか」
陸遜は色々を尋ねたかったが、の憔悴した様子を見たら事情を置いて一刻も早く連れかえらねばならないとそう思わずにおれなかった。
「それからすまないが明日も借りたい。せっかく話がまとまったのだからほかにも作っておきたい書簡があるのだよ。鉄は熱いうちに打たねばならぬ。朝議の後にこの扉の前にいてもらえるか」
周瑜は主たる陸遜にそう伝え、陸遜は、はいと応じたが彼の意識は機嫌のいい周瑜と憔悴したとですっかり二分されていた。陸遜の散漫に気づき周瑜は下弦の月のように笑った。
「今日はゆっくり休ませてやりなさい」
ぞくりと背を走ったのは、同性ながら周瑜が美しかったからか。あるいは恐れか。陸遜には分からなかった。周瑜はあの笑みのまま人を殺すこともできる男だから。



送り出され、すっかりひと気のなくなった静かな廊下をの歩みにあわせて歩く。
執務室の角を曲がったところでの身体はかくんと膝からくずれた。まるで操り人形の糸を切ったようだった。
目のうつろなを心配していつでも支えられるように気をはっていたから、転ぶまでは至らなかったのは幸いだ。
「大丈夫ですか」
線の細い背中を支えると服越しにもじっとりと汗ばんでいるのがわかった。手のひらは水に浸していたように冷たい。
「申し訳ありません」
は立ち上がろうとしたが膝が笑っている。それを誤魔化そうと膝をはらう真似事をしは息をとめて立ち上がった。
腕から離れた冷たいぬくもりを陸遜は我知らず目で追った。わざと顔が見えないように立つの首筋に陸遜の目は吸い込まれる。汗で髪が。
「なにかあったのですか」
思わず尋ねた。
まだ周瑜の執務室は近いというのに。
「・・・故郷の文字を読む必要があって微力ながらお手伝いをしておりました」
「あなたの」
「はい。畏れ多いお方々のご約定でしたし、久しぶりにその読み書きをしましたので少し緊張していたようです」
苦笑にも似た小さな笑みが差し向けられて陸遜もまたつられて小さく笑い、頷いた。
「そうですか」
嘘つきをみた。
馬超に手篭めにされたあと、なんとも思わないと陸遜に笑いかけたときと同じ顔だった












***



「こちらにかけて待っていてください」
翌朝、周瑜の執務室の前でに椅子をすすめたが、陸遜の表情には不安げな色があった。
一方のは礼を述べながら座って、表情に動揺はないし背はぴっとまっすぐである。
「・・・では、私も朝議に行ってきます。すぐに終わるとは思いますが、何かあれば知らせてください」
「はい」
「絶対ですよ。朝議の後は呂蒙殿の執務室にいますので」
「はい。いってらっしゃいませ」
陸遜は二度振り返ったががしっかりしているのを確かめると、自らの落ち着かない様子を恥じたのか、官帽を少し直してそれからは振り返らずに行ってしまった。

ここに来る前に女官長へ事情を話しに行くと、彼女はすでに周瑜から話を聞いているそうだった。
「大役です。そちらへ集中なさいませ。こちらはほかの女官たちにはありのままに伝えます。あなたが向こうの生まれであることは承知していますから、変に言うものはいないでしょう」
女官長は女の悪口や陰湿ないじめを嫌うひとであるから冷静にこう言ってくれたが、陸遜のみならず周瑜とも特別な交わりをもったとなれば、いくらか疎まれるのは避けられまい。一年かけて陸家の家来としての環境に順応し、女官のつとめはこれから基盤をかためようというときに、六輔の足元は急に不安定になったのだった。
ときおり、朝議に出ない末端の官吏が周瑜の部屋の前を通りかかると、不躾ともいえるほどに目を丸くしてを見、通り過ぎても振り返ってを見ていた。なにか盗みを働いていると思われないようには微動だにしない。
不安を表情と態度に出さずにいられるのは帯の内の石に心の預けどころがあるから。それから自分以上に陸遜がこの身を案じてくれているからだった。彼の心労を増やすのは本意ではない。

いままたひとつ靴音が近づいてくる。
は心を強く張った。

「珍しいのがいる」
の目の前で足が止まった。
「女がこんなところでなにしてんだ」
声に顔をあげようとしたがそれより先に顎に手がかかってくいと上向けられた。
「お」と男は一瞬驚いたように目をみはり、もまた同じになった。
男は甘寧である。船上の祝いでの身体を引きずり回した、その者である。
「見たことあるな」
顔をそらして顎にかかる手を払うと甘寧は唇の端をきゅっと持ちあげた。
「思い出した。凌統の野郎が言ってたのおまえだったのか。久しぶりじゃねーか。なにしてんだよ、間者か?」
「・・・いいえ。周瑜様に用事を賜り」
「しゅーゆだあ!?陸遜のイロだって聞いてたけど、つぎは大都督様の寝床にもぐりこもうっての。次は一回俺んトコにも頼むわ」
あまりに無礼で不躾で下品な物言いには言葉も出ず、しかしカッと顔が赤くなったのは辱める言葉を向けられたからばかりにではない。きっと他の者達にもそういわれている
しかし相手はこれでも将軍。は唇を引き結んだ。
「変な髪の色」
遊んでいた甘寧の手がまた伸びて突然髪の一房を触り、が弾かれるようにのけぞると甘寧が髪を放さなかったせいで髪型が片方だけ綻びた。
「あーあー・・・、そんなに嫌がるこたあねえだろ。俺はただこの色があいつの、なんつったか蜀の、正義がどうのとかいう、おまえと寝たやつ。あれの髪っぽくて珍しいつっただけだろ」
「こら!甘寧!おまえ朝議をサボってなにをしとるかっ」
「うわ、やべおっさんだ」
廊下の遠くから呂蒙の一喝が走るや甘寧は一目散にその場を逃げ去った。
朝議が終わったらしくぞろぞろと廊下の向こうから官吏がやってくる。そのなかからのもとまで早足で一早くたどり着いたのは陸遜だ。
「大丈夫ですか甘寧殿になにか、あ、髪が」
「自然とほどけてしまって。結ぶのがゆるかったようです」
船の上での望まぬ行為の記憶まで呼び起こされての心臓は低くバタついていたが、陸遜には笑顔を作って見せた。下手に詮索されても、陸遜に聞かせられるような話ではない。
なのにの笑顔を見た瞬間、陸遜は目に怒りの色を宿して甘寧の逃げた方向へズンと足を向けた。
「おまえは行くな。わしがあとできつく言っておくから」
怒った陸遜は呂蒙に後ろ襟を引き止められ、「おはよう殿。お待たせした」と周瑜も現れてその場は一応の事なきを得たのだった。




<<  >>