もう一日借りるという約束は一日ずつ伸びて、十日目を迎えた。
さすがにすぐさま殺されるような恐怖感は拭われたが居心地がよいとは決して言えない。陸家の家来、姫付きの女官、文官、どれでもない。宙ぶらりだ。
「ここは孫権様や大喬様にもお出ましいただくことにして、箔をつけるほうがよいのでは」
「規模こそ大きいとはいえしょせんは行商。厚遇が過ぎればつけあがりましょう」
「さすらば、酒と食事と美女でどうか」
「いや、連中は金だけはあるのだ。こちらで用意せずとも」
「だがのちの交渉に響きやしないか」
周瑜の卓につかされているをとり囲んで、行商への返事や滞在時の仔細についてやいのやいの言い合っている。
は筆を持ったまま頭上の会議で返事の方針が定まらぬ限り、その竹簡を書き終えることが出来ない。よほどの大事なのか、胆力のあるあの周瑜がおし黙って思案している。
殿」
喧々諤々を一閃する軽やかな声音に呼ばれて、は顔をあげた。
「すまないがもうしばらくかかるから今のうちに休憩に行くといい。帰りに東の蔵書庫から一昨日送られてきた目録をとってきてもらえるか」






***



休憩といっても立ち尽くすばかり。
女官の仕事をしてないのに女官の休憩場所へ行くのは気が引けた。では官吏たちのたまり場へ行くことができるか。いや、それはもっと気が引ける。
人のいない東の蔵書庫で書架を背に、小さく息をおとした。薄暗くて誇りっぽい。
明り取りの窓に架かっていた布を上げてみると、外は見事な庭園で見たことのない力強い枝振りの木が植わっている。名は知らぬ。人はない。窓の枠に額を寄せてこの静けさにしばし心をあずけた。
ガタン、と突然物音がした。
暗がりに目を凝らすとぬう、と書架の間から凶悪な魔獣が顔を出す。
目を剥き、こちらを凝視している。
「埃にまみれた書庫に佇みなさる、」
赤い口が蠢き、ぎぢぎぢとひび割れた声もまた恐ろしい。
「荒れ野に咲く一輪の薔薇のごとくですな」
「・・・」
「音もなくすべり落ちる朝露のため息を聞き申した。お困りごとでしょうか」
「・・・」
「うん?お加減が優れませんか」
はやっとのことで「大丈夫です」と声を絞り出した。

少し話してみると丁奉という武官はその見た目に反してとても親切で穏やかな男であった。上官を威嚇した、と難癖をつけられて一日暇をだされここにいたのだという。
窓にかかった布を取ってくれて、大丈夫と言い張るに窓際のあたたかい場所をすすめた。ほこりにまみれていた窓の桟には男が使うにはかわいすぎる刺繍がはいった手巾が置かれていた。が腰掛けるためのものであった。
「・・・ありがとうございます丁奉様」
腰掛けてみると、背がじんわりと温かく自分の身体が冷えていたのだとはようやく気づいた。
「わたくしは尚香姫様付きのと申します。いまは・・・周都督のお手伝いを」
「存じておりますとも。あなたの美しさは戦場に桃色の花弁を見つけるがごとく苦しく引き絞られた兜の緒をほどいてくださると、某の隊でも評判です」
丁奉のこの大袈裟な褒め言葉に誘う色がないことがには心地よかった。

三国一凶悪な顔と三国一美しい顔が並び、丁奉は大好きな詩篇のこととこれまでに見た美しい風景のことを大仰な言葉で語って聞かせた。
は聞いているばかりだったが、暗い表情のを喜ばせようとする可笑しい誇大もあって楽しいおしゃべりであった。
ふと、陸遜のことを思い出す。湖でお面のように表情を変えないに困って石は水を跳ねた。
帯ごしに石のところへ手をおく。
「・・・そうして優しいお顔をなさると飾りつける言葉もなくお美しい」
気づかれないように帯から手をずらす。この種の褒め言葉に一言一言いいえと否定するのは、「いやいやご謙遜を」といういいえ合戦を生むからはあまり否定しない。だが自身は気にいっている顔などひとつもなかった。曹操はこの顔と身体が気にいっていたから。
「絹で覆われたとてその美貌は衣越しに輝きましょう。このあたりでは珍しい御髪の色と瞳の色をしておられるのもどこか神秘的なものを感じます。あなたのふるさとはどんな場所でしたか」
は微笑むような唇をつくった。
「幼いころでしたので忘れてしまいました」
「そんなことはないはずです。某の好きな詩によれば、双眸の美しさは美しいふるさとを見つめた色がその瞳に宿るからだといいます。あなたの故郷の一番きらめいた季節はどのような景色が広がっていたのでしょう」
「・・・故郷、は」
記憶は子供の頃のものだ。
大自然が美しいとか、風のにおいがどうとか、そういう感慨はたいてい大人が言うもので、には家族が鞠で遊んでくれて特に楽しかった瞬間や、お気に入りだった綿の入った人形や、怖い顔の門番がつきあってくれたままごとや、焼ける人間
は何度か咳をした。
「埃を吸いましたか、大丈夫ですか」
「・・・」
うなずく。
「もう戻らなくては。書簡をとってくるよう頼まれていたのです」
「・・・そうでしたか。探すのを手伝いましょう」
「おととい自分で置きに来たものですのでこれに。お話をしてくださってありがとうございました」

竹簡を抱いて去った背を心配そうに見送り、丁奉はつぶやく。
「・・・今まさに咲きほこる花と見えたが、固くとじて冬に耐える蕾であらせられたか」
窓外に広がる庭はまだ色のない梅林である。
「春こん、こん」







***



もう十日借りるという口約束はさら伸びて、三〇日目を迎えた。

「あなたの故国を、あなたの国ではどう呼んでいただろう」
周瑜の部下が出払っているさなか、突然の世間話にははたと顔をあげる。
「・・・」
「どうした」
言葉の出が遅れていたのは周瑜がどういう理由でこれを尋ねたのかわからず耳を疑ったからだ。
いま、国の名を問われたか。
「無いということはあるまい」
「フウナ、でございます」
あわてて、しかし顔色をうかがいながら答える。
「ふうな。かわった音だ。わかった」
その日の正午には周瑜の部下たちへ一斉にの故国はフウナと呼ぶよう通達がでてはひどく気まずい憂き目にあった。故国を恥じるつもりはないが、わざわざ周大督の口から布かれる必要もないことだ。
「どうしてお達しをされたのでしょうか」
批判ととられないように気をつけながら夕方、また他の者が出払った機に尋ねてみると、周瑜は一度上げた顔を筆にもどし、書き物を再開してしまう。
ただの気まぐれで、周瑜にとってはとるにたらないことだったのだろう。
言葉はもらえぬと諦めかけたときだった。
「我らがあなたの国を呼ぶ言葉は蔑称だ。わけのわからぬやからという意味がある。悪口を言いたい者ならよかろうが、言いたくない者には呼ぶ名が便利だ」
筆はよどみなく動く。
「私には便利だ」
笑うでも怒るでも哀れむでもない。

周瑜は敵に容赦がない。こと孫策の死に係る者どもには残虐と言っていい。
は一度は無慈悲な行いを見て恐れたが、いまは白皙の貴公子、美周郎と呉の民がもてはやす理由に得心がゆく。
彼は味方と思った人々にはどこまでも公平、公正な男なのだ

味方、である。

「・・・」
「・・・」
「周瑜様」
「うん?」
「ありがとう存じます」

周瑜は一瞬いたずらな色を混ぜて笑み、すぐに真面目な顔に戻った。







***



の主たる役目は届いた書簡を読んだり、その返事や返事に添える資料を向こうの言葉で書くことだ。
移動する行商団から書簡が届く時間は定まっていないし、書くほうも周瑜たちが会議を開いて内容をまとめ終わったところで指示がくるので時間はまちまちである。待機時間は長かった。
「まだ暫く時間があるからこの内容を三部写しておいてもらえるか」
ある日突然そう言われ周瑜からひょいと渡されたのは漢語の文書だった。
皆忙しそうな周瑜の執務室でひとり暇そうにしているのは居心地が悪く、かといって「なにか手伝います」などと差し出がましいことを言うのも生意気だと思われる。それで居心地の悪さも我慢していたが周瑜の命令であれば少なくとも表立っては誰も文句を言わない。一にニもなく承って、は執務室の端っこに小さな机を貸してもらい翻訳以外の仕事もするようになった。
その仕事ぶりは優秀な周大督の部下のなかにあっても大変に熱心なもので、周瑜自ら陸遜に伝えたほどだ。
このやる気の源は味方だと周瑜に認められたことが大きいのだろうと、新たな役目を与えられたと嬉しそうに話すを見て、陸遜は思った。

「そうでしたか。まるで本当に周瑜殿の部下になられたようですね」
「教えていただいているおかげでございます」
雑談もまじえられる程度には仲を深めた陸遜とは、七日に一度の勉強の片付けの真っ最中だった。四角い窓の外はもう西日がさしている。
「この時間が役立っているなら私にとっても喜ばしいことです。ああ、そういえばあなたの故郷の言葉を書く人ならばその書簡の大行商団というのは知り合いだったりはしないのですか」
はゆっくりと首を横に振った。
「文字はアルタイ語といいます。故国以西ではひろく使われていた文字ですから国を行き来する者たちには便利でよく使ったと、そう聞いたことがあります。周瑜様もそのように仰せでした」
苦笑を見て、陸遜はまずいことを言ってしまったような気になり言葉をとめたが、は困らせまいとして別の話に切り替えた。
「そういえば、やはりわたくしが女官のお役目に戻されないのは周瑜様がわたくしがほかの誰かに内容を漏らすことを疑っておいでだからなのでしょうか」
「・・・正直に申し上げれば、少しその要素もあると思います。行きと帰りに私を付けるのも恐らくは内通を警戒してのことでしょう」
「旦那様にまでご迷惑を」
「迷惑ではないです」
「ですが」
「私はこのままがいい」
またへんな沈黙が落ちてしまって、片付けのため背を向けてしまった陸遜にのほうが気をつかった。
「お運び申します」
陸遜が抱えた五つの竹簡の下に頼りない腕が述べられた。
その腕をじっと見て、しかし渡さないでおいてみる。
「わたくしは旦那様の家来です」
変な空気をかき消すためにあえて言ったのだろう。
陸遜はまぶたをふっと下げて、竹簡のひと巻きをの腕に預けた。
「頼みます」
気の優しい主の短い言葉にの不安げな瞳が差し向けられたが、陸遜は見返さずに部屋を出た。
こんなに美しい家来がいるものか。







***



陸遜の書斎はきれいに片付いている。
窓の側には明日着る官服がもう用意されて衣紋にかかっていた。この国では男だけが着られるものだ。
の故郷では議会に女の代表がニ、三人はいたもので・・・、とここまで考えてはまた過去の方向に頭が行きかけたのを振り払う。
「ありがとうございました。それはむこうの棚です」
「はい」
言われた棚に納めながら、もう一度官服をちらりと見る。
「着てみますか」
「え」
の視線の行方にいつから気づいていたのか、陸遜は窓へ寄って衣紋掛けから官服を下ろしこちらへ持ってきてしまった。
「い、いえ」
「洗ったばかりです」
「そうではなく」
「さらに周瑜殿のもとで活躍なされば近く本当に官服を着る日がくるかもしれませんね」
「旦那様のお召し物に、畏れ多いことです」
言う間に陸遜は目の前にきて、ばさっとの後ろに衣が風をはらんで舞った。
思ったよりもしっかりした布の重みが肩にかかる。
洗ったばかりと言ったが陸遜のにおいがした。
閉じられた扉の向こうが気になって何度も目をやる。
誰かに見られでもしたら。
「袖をどうぞ」
「・・・」
頑なに縮こまっているのも子供のようで、間近で促されるままおずおずと袖をとおす。袖を広げてみてみると、まっさらの手触りのよい布だ。の指先まで隠す袖のふちには綺麗な刺繍が施されている。
陸遜は数歩離れた。
襟もよく見れば刺繍がある。獣か神の獣が連なった様子を模した模様のように思われたがはこの獣がなんであるのかを知らない。ともかく綺麗で模様を指でなぞってみるとその模様は絹で描かれているのだとわかった。
袖も裾も、おおいに余っている。陸遜は小柄なひとだとおもっていたので意外であった。裾の柄も見てみたくて、着るときのように前を持ち上げて身頃にあわせて足元を覗き込む。裏側も見てみたくて半身ひねる。足元の裾にはまた襟とも袖とも違う刺繍が見えた。
「これで完璧です」
陸遜の声とともに、後ろを見ていたの頭に突然かぽっと何か乗って目まで隠した。
官帽である。
はたっぷり余る袖で官帽を押し上げて絶妙なバランスで額のうえに来るようにのせた。
一瞬陸遜の姿が見えたが、またスポンと目元まで落ちてくる。
わざとでないがそれを何度が繰り返してしまい、すこし愉快な心地になって頬が笑った。
「どうでしょうか」
は普段よりも弾んだ声で今度こそ落ちないように官帽の前を上げた。

「色っぽいです」

深い声はすとんと部屋に落ちて足元にひろがる。
陸遜が近づいて、はどうしてか後ろにさがるのに一拍おくれた。
背に男の腕がまわり、とっさに前にもってきたの腕は折りたたまれて互いの間に膠着した。
自然、離れようと身をのけぞらせると官帽が後ろへおちる。
「っ申し訳ありません、帽子が」
落ちたそれへ意識をそらそうとしたが、背にあった陸遜の右手が髪と背の間をあがりゆき、
顔の輪郭に触れ、
うえへ傾けた。
唇へ落ちるかに思われた接吻はすんでのところでそれて、ひたいに落ちた。
再び陸遜の腕は背にまわり抱きしめられる格好になって顔が見えない。
熱が近い。
けれどいま真正面から顔を見られるよりはこれがましかもしれない。
「すみません」
蚊の鳴くような陸遜の声を聞き、見られて障りがあるのはお互い様だと知ると少しほっとし
「周瑜殿に嫉妬を」
ほっとしなかった。
「ですから、その・・・すみません」
はどう言っていいかわからず「こちらこそ」と口走った気がするが、それから何を話してどうやって放されて自分にあてがわれた相部屋へ戻ったか、記憶はあいまいであった。



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