が書簡のやりとりにたずさわっていた行商の一団がいよいよに呉の都、建業を訪れることになった。
最大規模の行商団らしく、通訳ができる別の官吏もこのときばかりは遠方から準備万端かけつけておりに声がかかることはなかった。
ところが直前になって、お茶汲みはにと指名があった。容姿が近い者がいたほうが向こうも気をゆるめることができるだろう、と周瑜の命令であった。
亡き孫策の妻、大喬、都督の周瑜、そして孫権と呉の権力者がそろい踏みと聞き、は緊張しながら最高級茶器をそろえて賓客室へと運んだ。






「・・・オウヒデンカッ!」

足を踏み入れた途端、大きな声があがり立ち止まる。
見れば行商団のひとりが立ち上がり、がたがたと唇を震わせているではないか。
視線のさきはである。
「おうひでんか!!」
もう一度ほとんど雄叫びのような声をあげた。
そしてこちらへふらふら歩き出し、半ばころぶようにの足元に膝をつく。
「私は幻を見ているのか。ああ、王妃殿下、我が君よ。夢にちがいない」
なんと言っているのか一瞬わからなかったが、今ようやく彼がの故郷の言葉を話しているのだと理解した。
初老の男はの足の裾にすがり、おうおうおうと遠吠えのように泣いている。
気圧され後ずさるもすがりつく男は離れない。
「おい、あれはいったいなんと言っている」
孫権が呆気にとられていた通訳に尋ねた。その間も男は夢と現を判じようとしているのか。、何度も自分のイノシシみたいな顔を押したり引いたり引き伸ばしたりしている。叫び声はやんで、今度はひとりごとのように呟き出した。
「いや、生きておいでのはずが・・・まさか、まさか、いや姫君。ひめぎみ、おお、おお・・・!おお!あの小さな姫君、なにゆえこのような遠い場所に、ああ王妃様の忘れ形見よ。なにもかもが瓜二つ」
そこで男はまた何かに気づいて目を見張る。
「なにゆえ・・・召使いのような格好を・・・?」
の姿を頭のてっぺんから靴まで目でなぞり、病でもあるように手をかたかた震わせた。
「あれはなんと言っているのかと聞いている!」
通訳は孫権につめよられ、ほぼ全てを忠実に翻訳して聞かせた。






飛び込んできた周瑜の使いのものものしい様子に呂蒙は陸遜の退室を許した。
早足の道中「殿が体調をくずされた」と小声で聞くや、場所だけ先に聞きだして陸遜は使いを置き去りに、全速力で走った。
駆け込んだ部屋には女官三人と周瑜の姿があり、その奥の長椅子にが腰掛けている。
殿っ」
身体をまっすぐにしていられないのか、かしいでいる。
そばまで寄って顔を覗き込むと、目元を手のひらで覆い隠してはいるが肌は血の気がひいた色をしていた。怪我をしている様子はない。
「陸遜。歩けるようになったら今日は一旦屋敷へもどしてやってくれるか」
「は、はい。ですが周瑜殿、これは一体」
「となりで話そう」
を女たちに任せ、隣の部屋へ移ると周瑜は行商団の長と会談したときのことを話して聞かせた。
「その長というのが、彼女の同郷でな」
その男は、王家の血の継続に歓喜し、再会の奇跡にむせび泣いた直後に周瑜らをわなわなと振り返った。
まさか、我が主を下女のように扱っているのか、と。
これにすくと立ち上がりよどみなく答えたのは大喬であった。

「それは孫呉の養い子。礼節をそなわすため女官の役目をさせています」

「あの国はよほど主従の関係が厳格だったのだろう」
皮肉をこめた色を最後に付け加えたが、陸遜は周瑜が冗談を言っていると思った。
孫家の養女などと、そんな嘘がまかりとおるはずがない。当然ながらそれがわからぬほど周瑜も大喬も馬鹿ではないはずだ。
「あの者どもは西から武器を運ぶ。火薬を運ぶ。かつてないほど大量にな」
怜悧な瞳に愉快な色はなく、ただ利と不利とを水平から見ている。
「我らにはそれが必要だ。小ざかしい諸葛亮をひねりつぶし、我らの死んだ仲間の数だけ曹操を殺すために。娘ひとりに身分をやって滞りなく済むならばそうする」
「しかしっ、それは偽りではありませんか」
「偽りも合意に至れば理となる」
周瑜は言の葉をよどみなく声にのせる。
「仮に下女をやっていると答えていたならどうしただろう。長殿はあの様子だ。当然お怒り召されて交渉の値をじわじわとあげただろう。我ら孫呉が彼らの積荷を喉から手が出るほど欲していると知っているからな」
ふふ、と笑う。
なにがおかしいのか陸遜にはわからない。
「ああ、それと”姫様”は今宵彼らの宴に招待されている。夕刻には馬蹄門の天幕群へ」
口を閉ざした陸遜に周瑜はうつくしく微笑む。
周瑜は明るい日差しの窓へ向き、珍しく返事をしない陸遜を気に留めない。
「しかし、死の商人というのはもっとがめついものと思ったが。古い私情のために更に得られる利を棒に振るとは、案外感傷的なものだな」
それはあなたもでしょう。
陸遜は言葉をのんだ。
公平、公正と称えられる周大督こそ、孫策を失ってから誰も気づかないほどわずかに彼の論理と倫理を狂わせている。感傷的な復讐に命を燃やす。大喬もまた、そうなのかもしれない。












***



まだ明るいうちに陸遜はを伴って屋敷へもどった。
早すぎる主の帰宅との憔悴した様子に驚いた家来たちを手で制し、下がらせる。
「すこし眠りますか」
「眠れそうにありません」
語尾に笑うような音があった。
これまでの心をきつく引き絞っていた糸が綻びかけている。陸遜にはそう見えた。
「ではこちらへ。話しましょう」
陸遜は自室へ促した。この話はまだ誰に聞かれてもいけないから。

手ずからあたたかいお茶を用意して、長椅子にかけたに渡す。
ひとくち口をつけると、艶のよい唇が小さくわなないた。
「一族を殺した男のもとで恥知らずにもながらえました」
「どうして、顔向けができるでしょう。忠義を尽くしてくれた者たちに」
「この身は何者でありましょう。かつてはフウナの王の娘でした。曹操のめかけでした、捕虜で、この家の家来として生きる覚悟を、した気に、なって、城に、孫呉の養い子でフウナの王の娘、もうずっとわからないまま、ここまで来て、ここは帰る場所へ遠いのか、近いのか、無いのか」
いつもは声をかけない限り口を聞かないおとなしい娘がいまは早口に暗い胸のうちを並び立てる。

「あの夜、曹操を討ち、わたくしもまた首を刺しぬいて死ぬべきであったものを」

表情はなく、まばたきをしない虚ろな目が手の震えで波打つ湯の湖面を見つめている。
ぶっそうな言葉にあいづちを打たず、見下ろすだけの陸遜は遠い心地で、
(泣けばいいのに)
と思った。
いっそ殴ってでも泣かせてやりたかった。












***



街を取り囲む巨大な長城の内側に同じ形の天幕がいくつも並んで、群れの尾は見えない。
大きな行商の一団とは聞いていたが、村一つ分くらいの規模はあるだろう。積荷の警備にあたる者達は腰にまがまがしい異国の武器を帯び、微動だにせず外へ意識を張り巡らせている。
これを道行く人々が不思議がって遠巻きに見ていた。それを行商と知らずに見たなら統率された軍隊だと思うかもしれない。
「本当に大丈夫ですか」
「はい。お送りいただきありがとうございました」
屋敷を出てからここまではずっと黙っていた。夕日を横顔にうけて、まぶしそうな顔にはつい先ほどまでの生々しい悲壮はなく、いま聞けた声もいつものだ。自分の足でしっかりと立っている。
いっそその変わりようのほうが陸遜は心配であった。
「私は近くにいますからなにかあればすぐに呼んでください。待っています」
「夜までかかるかもしれませんから」
「待っています」
「・・・」
がこくりと小さくうなずいたとき、むこうから赤茶けた肌の中年の男が走ってきた。
陸遜の知らない言葉で短くなにごとか叫び、砂けぶりをたてての足元の土に伏した。かつて戦場で見た西涼の馬岱という男が着ていた服に似ている。
は地面に伏せた男に陸遜の知らない言葉でゆっくりと声をかけた。
すると今度は一番大きな天幕から次々見慣れぬ風貌の商人たちが顔を出し、を見つけるや我先にと駆け寄って来る。
その者ども、彫りの深い顔はいちように日焼けしているが髪と瞳の色はとよく似ていた。



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