花嫁は鎮座する。
うららかな陽光あふれる窓外を小鳥が横切った。

「それは我らの仇敵が抱いていた女だぞ」

あごで指し、馬超は吐きすてた。
「ちょ、ちょっと若」
狼狽した馬岱は花嫁と馬超を交互に見て主のほうを止めにかかったが、馬超の腹の奥底からわくドス黒い怒りはとどまるところをしらない。
「我が家に入れるなど汚らわしいにもほどがある。俺は断じて許さん!いますぐ追い出して塩をまけっ、さもなくば木にでも吊るしておくがいい!」
「若、若、なんてことを言うの。この子だって望んでそうなったわけじゃないって話は劉備殿から聞いたじゃない。昔にかどわかされたとかって」
「どうだかっ」
またも鼻で笑って吐きすてる。
花嫁は顔と髪をそっくり覆う薄布と豪奢な婚礼衣装を纏いながら、衣擦れたりとも鳴らさない。見える肌は指先だけだ。
「長年曹操のもとにいてあれにいち分でも誇りが残っていたなら自害するところであろう。のうのうと永らえて、俺はそのような恥知らずを妻にとる趣味はない」
「若っ」
馬超は派手に靴を鳴らして部屋を出て行った。馬岱はついていって説得を続けようかとも考えたが、あれだけ口汚く罵られた花嫁をこのままひとり置いていくのも忍びなく、帽子をとってえいやと振り返る。
「ごめん、ごめんね。若は曹操が絡むと頭に血がのぼるたちで」
花嫁に声はなく、冷や汗が垂れた。
「俺たちの一族は曹操に殺されててそれで・・・。いつもはあんなことを言う人じゃあないんですよ、ホントに」
ぴくりとも動かない。
死んでいるのかしらと、そんな疑問さえわいて馬岱は身をかがめた。正直に言えば、生存確認ではなく単純に顔を見てみたいという下心もあった。なんたって三国一の美女と呼ばれるお顔だ。
「あのう・・・」
恐る恐る声をかける。顔は布越しではちっともわからない。
「・・・もしもし?・・・やっぱり怒ってます?」

「いいえ」
「うわっ」

おばけの声でも聞いたように後ろへ跳びすさった。
自分で尋ねておきながらこれではあまりにも無礼な振る舞いだ。しかし続いた女の声は咎めない。
「あなたの主が言ったことは正しい」
たしかな声音である。
「怒りはありません」
「そう、それならよか・・・あんまりよくはないような気がするね」
馬岱はせめて対等に同じ目線でいられるよう、ひざまずき苦笑をしてみせた。
「俺は馬岱。若はああ言ったけれど木にくくるような無体はさせませんからご安心を」
「気持ちはわかります」
「大人の物言いをなさるなあ。でも、もう一回若を説得してきますから。もっともあなたもうちの若と結婚なんてしたくないのかもしれませんが」
「わたくしはです」
馬岱のへりくだった態度を見てか、花嫁も名乗り譲歩をみせた。
重たげな袖が持ち上がり、自らの顔にかかった薄布を頭上へかけた。
相手も言葉の通じる人間と確信したうえ、こちら様の立派な態度と主の子供のような態度を比べて馬岱は気恥ずかしく頭をかいた。
かく手がふと止まる。
「・・・あ、れ」
薄布の向こうに現れた顔はまことに美しい。噂に違わぬ美女である。
違う、どこかで見た顔なのだ。
じっと見られても人形のように物怖じしないを無遠慮に見続けて記憶の糸をたぐりよせる。

「行くのか」

頭上から降った声の記憶が蘇る。
ふるさとだ。
馬超の父・馬騰存命のみぎり、木の上からこちらを見下ろすのはまだ少年と青年の間にいた頃の若君だ。

息を飲み、馬岱は震えはじめた自分の声に言葉をのせた。

「あなたの、一族の・・・名は」








「行くのか」
「七日で戻るよお隣さんだから」
「岱よ、無礼をしてこい。俺はまだ妻はいらん」
「美人でも?」
「ガキだろう、その、家の姫と言うのは」


















***



「本当だよ、あれはフウナの姫君だ」
フウナは馬超の婚姻をもって結びつこうとしていた北西の小国の名である。
その王姓をという。
自室で婚礼衣装を半分まで取り払ってしまっていた馬超は、駆け込んできた従兄弟の感極まった訴えにしばし声を失った。
馬岱は馬超の婚姻のため事前に編成された親善使団に追従し確かにその目に相手の姫君の姿を見ていた。そのあとすぐに馬騰が曹操に処断されると結婚どころの騒ぎではなくなり、その後フウナも魏に攻められ一夜のうちに墜ちたと聞く。
それきり話は聞かなかったが何年も経った今になって、若君の花嫁になるはずだった人とこうして生きて相まみえようとは、草原の神、風の神の導きに違いない。西涼の生き残りと再会したように馬岱の心は躍っていた。
一方の馬超は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
切れ長の目をむき、大きなこぶしを握り締め、怒っている。

「とんでもないことをしてしまった・・・!」

呆然とつぶやくと、青くなった顔の反面を手で覆った。
非を感じたとき、素直に認めて直球で言動にあらわれてしまうところはこの主のよいところだと、馬岱は思っていた。
馬岱は力強くうなずく。
「それじゃあ善は急げ。はやく謝ってこなくっちゃ」
「岱、馬岱よ。謝ってすむことではない」
「そんなことないよ。早いほうがいいに決まってる」
「違う。さっき言った言葉だけではないのだ」
「え?」
「かの地で俺はあの娘を、無理やりに・・・」
「無理やりに・・・・・・って、まさか若!?」
馬超は眉根を寄せてかぶりを振った。
「あ、あの時はどうかしていた・・・!大将首でもとったように気が昂ぶって。いや、いまは言い訳をする時ではない、はやく行かねばなるまいな。行こう。姫君はどこに・・・なんと呼べばいいか、いや、まずなんと言えば」
「北のお部屋に。と、とにかく、まずはへりくだっておこうよ、殿と呼んでさ」
殿、殿か・・・嗚呼、あんなことをしておきながら今更手のひらをかえしたように、なんと言って謝ったら・・・」
ぶつぶつ言いながら馬超は危うい足取りで部屋をでていった。馬岱は心配でたまらない。
いつもよりぐっと小さく見える主の背が、姫君のおわす部屋に入って行くのを、指を組んで見送った。なんてって、あの主は腕っ節なら劉備軍の誰にも負けないが、繊細な舌戦はめっぽう弱いのだ。






「憎んでいないと言った」

ごく短い会談を終え、敗残兵のように出てきた馬超が言った。

「え、それはどういう・・・」
「わからん」

憔悴しきった様子で、馬超はか弱く首を横に振った。
今少し詳しく聞いてみると姫君は憎んでいない、怒っていないと言葉少なに彼に伝えたらしい。
それは「あなたに抱く感情など無い。地面の塵と同じ」という意味の嫌味だったのではなかろうか、馬岱に嫌な予感がよぎる。
もしこの説が当たりなら姫君はものすごく怒っている。さっきの感情の無い人形のような姿のうちにそんな怒りを隠しておられたのだろうか。ならば末恐ろしい。
言葉のとおり、馬超に強いられたことを本当に怒っていないなら、それはそれで背筋が寒くなる。
馬岱はついに、主にも姫君にもなにひとつ声をかけることができないまま、廊下に立ち尽くした。

それから主のほうは三日三晩寝なかった。
日に日にやつれ、朝議ではうわの空。声は小さく、目は常にまぶたが半分までさがっていて、落馬した。
もとより政には疎く、三日ほど朝議でボケっとしていても害はなかった馬超だが、練兵のときまでぐにゃぐにゃになっているものだから、黄忠に「錦でなくて綿馬超じゃ」と明るく馬鹿にされる事態に陥った。

その馬超が不眠四日目に馬岱を書斎へ呼び出し、血走った目でこんなことを言い出した。

「友だちを作るのだ」

「と、ともだち・・・?」

ついに若がおかしくなってしまった!
馬岱は帽子を胸にかき抱き、とおい草原の神に祈る。
だのに馬超は興奮した様子で名案を説いてきかせる。

「そうだ、俺の知り合いを一対一で会わせて次々に紹介するのだ。それで、それでだな、そやつと友だちになったら殿もここでの暮らしが楽しくなるかもしれない」
「へえ・・・ああ、うん?」

一瞬納得しかけて、どういう考えを根底にしてそうなったのかの説明がすっとばされていたので、やっぱり最後には馬岱は首をかしげてしまう。
話の最中、馬超は寝不足のためか鬼気迫る殺気すら放ち、話の終わりには怒り狂って卓でも叩き割ってしまうかと卓のほうを心配していたが、話の終わりに馬超の肩からはがくりと力が抜けた。

「俺では、どう慰めることもできない」

悔しげに寄せられた眉、その下の瞳は泣きそうに見えて、馬岱は反射的に拱手を作っていた。



<<  >>