一対一のひとりめ  馬岱



「えーっと、馬岱です。はじめましてー・・・なんちて」

主旨説明を終え、一応理解したという返答は貰ったけれど困った困った、俺が先鋒として送り込まれた。
なにを話していいやら。
若は「俺がいると怖がらせるだろう」とかごにょごにょいじけてどこかへ行方をくらましたので、屋敷の賓客室に俺と姫君のふたりきりである。
若があんな様子だからこそ、俺がこの人の扱い方接し方を見出してあげないと今後若がやばい。さぐりを入れるほかに、傾国の技にもひっかからないよう気を払うことも忘れてはいけない。

と申します」

表情は乏しいまま一拍おくれて返事は返った。

「気まぐれでこんなことに付き合わせて申し訳ないです。ささ、まずはお茶とお菓子でもどうぞ」

卓にはあたたかいお茶とすこしのお菓子がある。菓子の選定は女子供にウケるようにと若自ら女の家来たちに頼んだらしい。なんと言ってどんな顔で頼んだのか。でかい図体で顔を真っ赤にして小声で言ったんだろうか。
勧められるまま菓子に繊手を寄せて、口に入れる前に一度俺を見た。俺がヘラっと笑って見せると可憐な唇が菓子を食む。カリ、コリと音のない部屋に響いた。
毒など入っていないよ。

「・・・おいしいです」
「そう、それはよかった。実はそれはですね、」

若が、という話は出さないほうがよいのかな。陵辱された相手だ。

「それはその、おいしい菓子で」
「ええ」

不覚、おしゃべり上手と評判の俺としたことが。
ここから、ここから。

殿はふだん暇なときなにをなさってるんです?」
「暇なとき、でございますか」
「そっ!」
「・・・」

真剣に考え込んでしまった。

「あ、それじゃあ得意なこととかは?」
「・・・」

深刻に考え込んでしまった。
会話が途切れ、短い沈黙が広がる。
こういうときは呼び水だ。

「俺はね、こう見えて絵を描くのが得意なんです。見ててくださいよ」

部屋の隅にたてかけておいた妖筆をとり、宙に小ぶりな虎をえがく。殿は何事がはじまったのかと、俺の筆さばきをご覧になっておいでだ。よし。

「ほい、できました」

息をひと吹きすれば宙の墨虎の前足がしなやかに歩み出す。躍動する獣の筋肉さえ薄墨が微妙に伸び縮みしてあらわされ、戦場でごごおうと吼えるそれは今日ばかりはニャアと猫みたいに鳴いた。
殿は驚いた様子だが、近づいてくるそれをじっと見ている。
視線がはずれているとようやくまともに見られるけれど、見れば見るほど美人だ。うちの若と並んだらそりゃあ絵になったろうに、実際には青春時代のほとんどを曹操のお気に入りで過ごしなさった。いや本当にそうだったのかな、美人は三日で飽きるという。・・・実は床がすごいとか?

「・・・いいでしょうか」
「へ?」

下世話なことをことを考えていて聞き漏らした。殿は繰り返した。

「触ってもいいでしょうか」
「ハハ、うん。どうぞどうぞ。噛まないよ。あ、でもこいつは墨だから指が」

注意事項を思い出したときには、殿の指はすでに猫の大きさの虎に触れていた。殿は指先が黒く濡れたことに気付いたが、そのまま墨の毛並みをひと撫でした。

「あーごめんなさいっ。言うのが遅かったよ。それは特別な墨だからこう、擦り合わせれば消えますから、ね?」

俺がやったとおりにひとさし指についた墨を親指の腹とすり合わせる。墨はハラハラと灰のように落ちて、落ちたそばからかき消えた。
すり合わせて動くひとさし指にじゃれて、虎がちょっかいを出しはじめる。
もう一度ほそい指が獣を撫でる。獣はじゃれつく。

「あいらしい」

ほんの小さく笑った。

「・・・」
「輪郭が消えて、この子は痛くないでしょうか」
「・・・」
「・・・馬岱様」
「え、あ、うん!」

ようやく見られた微笑は傾国の手練手管にひとつだろうか。
いや、若、若。もしかしたら本当に損をしてしまったかもしれない。
あのまま西涼が我らの大地で、フウナとの婚姻が成ったなら若はこの美しい姫君を妻に迎えて、俺はこの人にも仕えていたのだろうか。
うっとりする景色がよぎって、かぶりをふった。

「そ、そういえば、殿はどこでこちらの言葉を学ばれたんです?フウナはアルタイ語でしょう」

絡め取られないように話を切り替えてみる。

「見よう見まねです」
「アルタイ語はまだ覚えて?」
「鮮明に」

いま閉じたまぶたのその奥に見たのは故郷の景色だろうか。
俺はね、お姫様。
一度あなたの国へ行ったことがあるんです。
フウナは草原のおわり、天に届く山を背負って、流れる水は清く、大地は黄金の穂が豊かにこうべを垂れて、みな仲の良さそうな国だった。
くずれた西涼を足がかりに曹操はフウナにまで攻め込み、水に毒を混ぜられ、水と大地と人が死に、フウナは滅亡した。

「・・・ね、殿。なにかしたいことはあるかい?」

美しさにあてられてというより今は似た者を哀れんで、傷の舐め合いだ。

「・・・」
「出来る限り協力しちゃうよ」
「・・・」
「おいしいご飯が食べたい、おいしいお菓子が食べたい、すごい景色がみたい、買い物したい、なんでもいいよ」
「馬岱様のおはなしをよく聞きたいです」

とらえようによっては魔性の一言だ。
殿もそう解釈されかねないとわかっていたようで付け加えた。

「人とこうしてお話をするのはとても久しぶりで、わたくしがこれから他の方とお会いするときにきちんと話せるように、あなた様の言葉をよく習いたい」
「・・・ここで生きてくれるのですか」
「帰る場所はとうにないのです」
「・・・」
「同じに」

愉快な色で繕うのを忘れ言葉を正してしまった俺に、慣れない頬がまた微笑もうとした。
若と似た色の瞳の奥底には、この話を笑ってはいけないと知っている鈍色がにじんでいた。なのにまだ小さな光を残している。

「どうか、頼みます」
「もちろんです」

痛がるかもしれないほど強く手をとる。
泣きたいような顔になってしまってこらえ、俺は波打つ唇をへらっと笑わせた。

「おしゃべりなら任せてよ!」












***



話した時間は決して長くなかったがお茶がカラになったところでじゃあ今日はここまでに、と部屋を出た。
これから同じ屋敷の敷地内で暮らすのだ。話す機会はいくらだってある。殿を先に行かせ扉を閉めたところで俺は「ぐえっ」と叫んだ。
廊下の闇からぬうっと手を伸ばし、俺の首を締めているのは怖い顔の若だった。
殿が振り返って俺を助ける必要があるのかうろたえている。若はなんかもう明らかに目が怖い。一言もしゃべらないし、殿のほうには視線をやろうともしない。
「ア、アハ、殿、大丈夫だから離れのお部屋へどうぞ、また明日」
本当にそれでいいのか不安げだったが、引きつる笑顔でひらひら手を振って見せたら観念して離れて行ってくれた。そして俺は豪力自慢の若に引き摺られ賓客室に押しもどされる。
襟を掴まれねじり上げられ、う、うええ、足が浮いてるっ。
「なにっ、なに怒ってるの若っ」
言葉を待っていると若の口が重く開いた。

「どうだった」

猛獣が威嚇する恐ろしい音だ。
「へ?」
「どうだったのだと聞いている」
「あ・・・うん、ほとんど俺がしゃべってばっかりになっちゃって。ああ、でもとっても楽しかったって。気を遣ってそう言ってくれたのかもしれないけれど」
「そ、そうか!よかった」
豹変だった。心底安心したふうに肩をおろし、俺の襟も解放され足が無事地面につく。
若は一転明るい。
「他になにか聞けたか?趣味とか、特技とか」
「ああ、うん、えっと趣味はないからこれから作りたいって。前向きでいいじゃない」
「悲壮にくれていると思ったが」
「見た目よりも強い人だよ」
「そうか・・・」
「あと動物が好きみたい」
「馬か!俺も馬が好きだ!」
「馬かどうかは知らないけど、特技はねえ、本人は答えに困っていたけれど語学じゃないかな。だってフウナはアルタイ語でしょう」
「そういえばそうだ、忘れていた。あんまり流暢に話しているから。才媛ではないか」

「そうだね、美人て頭がいいなんて」「魅力的だ!」

言葉を元気に先取られる。
ああ本当にふたりは、出会い方を間違えたなあ。
「それでおまえは殿と仲良くなれたのか?!」
「うん、バッチシ」
「そうか!さっそく次の相手を探さねばなっ、ヨシ!」

若の瞳が輝く。
「やはり同じ年頃の娘の友だちもほしかろうな、そうだ、うむ」
大きな声でぶつぶつ言いながら賓客室を出てゆくやる気に満ちた背を、本当にそれでいいの?と問いただしたい。
いや、いまは本当にただ殿に友達を作ってやりたいと思っているのだろう。
あのお方は良くも悪くも打算的なものの考え方ができない人だから。



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