忘れもしない9か月前、あの夜、
ザップさんに押し付けられた遣いっ走りを済ませ事務所に入った時、僕は鬼を見た。
クラウスさんがなにに怒り、寄る者を圧し潰す気迫を渦巻かせていたのか当時はわからず、尋ねる勇気もなかった。
のちに知る。
あの夜、あの人が玉座に就いた。



今はまだ知らない。

あれはなんだったのか。忘れもしないあの夜を、すっかり記憶の隅に追いやる濃密で異常な日常が幾日も過ぎて、レオナルドは執務室のソファーでギルベルトの紅茶をおいしくすすり息をついた。大きな窓の手前ではプロスフィアーの一局を終えたクラウスも一息いれている。
ふいに、小さめだが古風な音で据え置きの電話ベルが鳴り、ギルベルトが楚々として取りに行った。音に振り返ったクラウスと目が合う。
「今日はアルバイトはお休みなのかね」
「はい、バイト先がピンポイントで爆発しちゃって」
「そうか、ではゆっくりするといい。君はすこし働きすぎだ」
ははっと頭をかいて背もたれに寄りかかる。天井では十字架を模した蛍光灯があかるく光り、同じく十字架型のプロペラがゆったりと部屋の空気をかきまぜている。
「平和だなあ」
「坊ちゃま」
ギルベルトにしては早足で彼の主人のもとへ参じた。
「本部から連絡がございまして、猊下が」
ゲーカなんて名前の人、ライブラの構成にいたろうか。新年会に来ていたライブラメンバーの顔を思い浮かべていたレオナルドの横で、木が裂ける音がした。
「猊下が明日、こちらへお出ましになるそうです」
驚いて振り向くと、クラウスの執務卓が真っ二つに割れていた。
割れた机の間にある我らがボスの姿が揺らめいて見えるのは、その巨体から噴きだした汗と熱が水蒸気となって陽炎をつくっているからだった。
クラウスが手に持っていたティーカップは粉々に砕けたが、なかの紅茶は床に落ちる前に空中で蒸発した。






報せをうけて、外出の予定を切りあげスティーブンが事務所に戻ってきた。
いまスティーブンは割れた執務卓の前を早足で往復し、クラウスは半分サイズになった机に幅狭く肘を付き、できるだけ小さくなって困り果てている。
めずらしく焦燥を隠さずにスティーブンが尋ねた。
「いつだって?」
クラウスは巨体を子ウサギのように震わせて答えた。
「あすの昼」
スティーブンは痛む額をおさえた。すぐに気を取り直して尋ねる。
「いったいどういう理由でお出ましになるんだ?」
「容易にここを離れられない我々のためにチアラタメの儀式をなさると」
スティーブンは額をおさえる。
「ジュウサンシゲイカが崩御されてからひいふうみいよ…9か月か。時期的には妥当だがあんな儀式、実質的な効力のないおまじないみたいなものだろう。おまじないのためにわざわざこんな危険地帯にまでええと…何番目だったか」
「第二十二子」
「そう、ニジュウニシ猊下をここに寄越すなんて、本部はなにを考えてるんだ」
スティーブンと一緒に出ていたザップとチェインも戻り、レオナルドは三人で幹部二人のやりとりをしばらく聞いていたわけだが、さっぱり意味がわからない。
情報が武器である人狼局に所属するチェインならばわかるだろうか。視線をめぐらせようとしたとき、後ろから(行けよ、そら、いまだ行け)とザップの靴の先で後頭部をつつかれた。自分で聞いてくださいよ、と悪態つきたかったが実際このメンツの中で一番わかっていないのはレオナルドだろう。
おそるおそる手をあげる。
「あ、あのぉ…質問してもいいでしょうか」
「なんだね、レオナルド君」
クラウスは深刻らしい状況をひとまず脇に置いて、親切に応じてくれた。
「さっきのその、ゲイカさんというのはどういった方なんでしょうか」
「うむ。…私が猊下を評するのは分をこえることだが、すばらしい方だ。おそれを追い越し決断される優しさがある、それは強さだと、私はそう思う」
「は、はぁ…」
偉い人なんだろうな、ということだけはわかった。
「そういえば説明していなかったか」
思い出したようにスティーブンが言い、
「まず組織の説明になるが」
とおもむろに立ち上がる。
スティーブン先生のうしろには、いつのまにかブリーフィングルームにあったはずのホワイトボードが用意されていた。さすがのギルベルトだ。
レオとサップ、チェインの三名を生徒に、フリーハンドで手早く組織図の線がむすばれていく。
「本部」と書かれた丸の下に下部組織を表すたくさんの丸があり、そのなかのひとつに「ライブラ」と書かれた。ホワイトボードの右上にTOP SECRETと銘打たれたがレオもこのあたりまでは理解しているところだった。
「牙狩り本部と同列に別系統の組織もいくつか存在している。ひっくるめて牙狩りと呼んではいるが、たとえば人狼局の上位組織がそうだ。だよなチェイン?」
「は、はいっ。あの、はい…」
急にふられたチェインはもじもじして黙りこんだ。
「さーては、実は全然わかってねえんだろぉ?」
不可視の蹴りがザップの顔に靴跡を残して授業は続く。レオはせっかくだからツェッドも呼んできたかったけれど、次の説明はすぐにはじまってしまった。
「ほかの本部と本部内の構造は省略するとして。これらの組織の代表者と独立した有力な一門、有力な家柄の代表者13名から成るのが最高意思決定機関、卿会と呼ばれているやつだな。クラウスの兄君も卿会の一員だ」
「うえっ、すごっ」
当の本人は複雑そうに首をかしげたが、「だぁから俺が前に言ったろ、旦那んとこはスゲェんだって。ったく人の話聞けよこの陰毛頭」となぜかザップが鼻高々に語ってきたものだからレオはハラタツ。
「それでだな」
「卿会」と書かれた一番上の丸からさらに一本、うえに線が伸びた。
「その卿会が占いで選んだトップが、二十二子猊下だ」

「「大ボス!!!」」

レオの仰天にザップの声も重なった。偉そうにしていたわりにはザップも知らなかったようだ。
「まあ、大ボスだな」
「スティーブン、猊下に対しそのような言い方は礼を失するのではないだろうか」
「すまない。ともかく、その二十二子猊下が明日こちらにおでましあそばすわけだ。本部からの指示あって、我々はその守護を任された」
スティーブンはペンのキャップをしめて「だから困っている」と額をおさえるポーズにもどった。



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