ヘルサレムズ・ロット・エントランス ―――
HLと人界を結ぶ唯一の関門に、いつもより濃い色のスーツに身を包んだスティーブンと、規格外に大きいが仕立ての良いジャケットを羽織ったクラウスが並び立つ。クラウスの胸にはいかにも由緒ありそうな勲章までかかっていた。
飛行機の到着時刻は過ぎた。
約束の時間はまもなくだ。
スティーブンは時折腕時計を確かめ、クラウスは関門の扉の方を向いたまま樹齢1000年の大樹のように動かない。
二人の後方、興味本位でついてきたザップとチェイン、レオナルドとついでにソニックは建物の柱に身を隠し、大ボス襲来の瞬間をこっそり見学していた。この尾行はもちろん気づかれていたが、二人はこちらにかまう余裕もないらしい。
「あの旦那ガタがあそこまで緊張しているの初めて見たな…ウゲ、なんかこっちまで寒気してきた」
「そのまま突進していって凍らせてもらった方が世のためじゃない?」
「んだとこのアマ!うぉ、寒っ…」
ザップは二度目、震えあがって自分の両腕をさすった。
「こういうのドキドキしますよね。でもツェッドさんには悪いことしちゃったな…」
「バーカ、あんなクズ餅野郎が一緒にいたらあの扉出てきた途端にお偉いさんの護衛に問答無用でぶち抜かれかねねえだろうが」
優しいんだか優しくないんだか、面倒な人である。
レオナルドは改めて扉へ目をやった。
その扉は、高い天井と開放的なつくりの「外」のごく一般的な空港に似た施設のなかにある。
こちら側へ渡るための唯一の道、関門橋はこの扉のさらに奥にあって、人も荷も車両も同じ橋をとおって、そのあと人用、車両用にわかれ、人はあの扉に至る。
レオナルドもしばらく前にあの扉から出てきたわけだが、先ほどから見ている限り出てくるのはマフィア風の男たちや、人目を気にして帽子のつばをさげるスネにキズ持つ連中ばかりだ。あのメンツの流れで自分のようなおどおどした一般人が出てきたなら、大いなる無茶、無謀、すぐさま引き返せと言って聞かせるだろう。
ミシェーラのことを思い出した。
妹もこの前あの扉をくぐって来たのだと思うと今更にぞっと背筋が冷たくなる。
「…出てこないわね」
「出て来たって俺らにゃわかんねーだろ」
「ザップさんも見たことないんですか」
「ったりめえだ、うちのクソジジイあんなだぞ。牙狩りの元締めパイセンなんて縁もゆかりもありゃしねえ」
「チェインさんもですか?」
さっぱり知らない、と肩をすくめた。これは意外だ。
「ふつう、大ボスになった人って外出禁止、会ったり会話していい人間も制限して情報統制されるらしいから私も情報にアクセスできない。でも、うちの次長の話だと最近異界の連中の地下で写真が出回っているんだって。本部にも報告済み」
「ますますこんなトコ来たらヤバいじゃん、ゲーカサマ!」
騒がしさを咎める視線がスティーブンから鋭くかえって、なんで俺だけ、とザップは下唇を突き出し猫背でスネた。
ちょっとかわいそうかもと同情しつつ、レオが扉に視線を戻したちょうどその時、扉から顔を出した人物は裸獣汁外衛賤厳氏によく似ていた。
これはいい!
ソックリさんネタで元気づけてやろうとレオは明るい声をあげた。
「アハ、ザップさんアレ見てください。お師匠さんに似た人がいますよ」
横を見るとザップのアゴがはずれていた。
「じ、じじょう゛!!(し、師匠!!)」
「え!ええ!?本物!?」
裸獣汁外衛賤厳はザップとツェッドが操る斗流血法の創始者であり、お師匠にあたる人物だ。人物と表現していいかはあやしい。ズタズタの布をかぶり、正面には大きな獣の頭がい骨の仮面を結びつけていて、顔含め上半身は布と仮面に隠されほとんど見えないが杖を持つ左腕だけは人間の老人のような見てくれをしている。下半身は無く、基本的に浮いている。
あの異容のソックリさんがこの世に二人といるはずがなかった。
ザップは「信じらんない信じらんない」と髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜ身もだえ、内股でおうおうと泣きだした。
すごい偶然というのはあるものだ。あの人もちゃんと飛行機使って関門を通ってこっちにくるんだ…いや、それよりも何をしにここに来たのだろうか。
レオナルドははっと思い当たった。
「汁外衛さんが、大ボス!」
桁違いの血法使いであるあの人が牙狩りのトップと言われれば納得せざるをえない。
ところが、猊下を待っていたスティーブンまで驚いた表情をしているからどうやらレオの読みははずれている。
クラウスが、一歩前に出た。
あの場所に立ってから深く根を張ったように微動だにしなかったクラウスが、動き出すとその動作には一切の迷いがない。
ただ一点を見つめ、クラウスは裸獣汁外衛賤厳の前で立ち止まる。
胸に手をあて身をかがめた。
まるで絵本の騎士が王様の前の赤じゅうたんで頭を垂れるのを見るようだった。
「クラウス」
うつくしい声を聞いてレオナルドはようやく弾かれた。
汁外衛の斜めうしろに、白い装いの女性が佇んでいたのである。
「わ、きれいだ…」
開きっぱなしになっていた口から思わずこぼれた。
霧垂れこめるHLに、人界の大聖堂の光をすべて連れてきたような輝きが彼女のいる場所にだけ降りそそいでいる。
結い上げた髪を白いヘッドドレスのなかにおさめた上品なスタイルは、どこかの国の王女様が外国を訪問するときの映像で見たことがある。
女性が白い手袋をとって右手をさし伸べると、クラウスはその指をすくい唇を寄せる挨拶をした。
レオナルドはぼうっとなり、よろよろと柱の影からすすみ出て「あの人が猊下さんなんですか」とうわごとみたいにスティーブンに尋ねた。
「……」
返事が返らないのを不思議に思い、仰ぎ見て驚いた。スティーブンの表情はかたく、その周辺だけ凶暴に空気が凍てついているようだったのだ。しかしレオに気が付くとパッと表情が切り替わり、うなずいてみせた。
声は返らないまま、襟を正してスティーブンも女性の方へ近づいた。
その人は世にも美しい微笑をたたえてこれを迎える。
「スティーブンも。ふたたびあなた方と会えてうれしく思います」
「ごきげんよう二十二子猊下。遅れ馳せながら、ご即位を心よりお祝い申し上げます」
立礼するスティーブンの額すれすれに木の杖が振り下ろされた。
「ジャジャジャジャジャ!ギャゴゴゴッ」
激しく詰まった洗濯機のようなこの音は汁外衛の声である。
言っていることはレオナルドにはまったくわからないけれど、弟子であるザップとツェッドならば理解できるらしい。
「ザップさん、よだれたらして泣いてないでどういうことか通訳してください」
「やだやだやだっ俺帰るぅ!!おうち帰るぅ」
たのみの一番弟子は柱にしがみついて向こうを一切見ないようにしている。
「あーもうホントめんどくさいなこの人っ。ほら、あっち行きましょう、猊下さん超超超美人ですよっ」
「それを早く言え」
急に整ってカツカツ靴を鳴らし歩み出したザップのその足は
「おじいさまはクラウスたちのことを御存知だったのですか」
という“二十二子猊下“のお言葉を聞いて膝から崩れた。
再び動けなくなったザップの横で、レオナルドのオジイサマのゲシュタルトも崩壊する。
いま、彼女は汁外衛を見ながら言ったがたぶん絶対、本当のおじいちゃんと孫娘というわけではないはずだ。見た目がお茶漬けの粉末と女神くらいの差がある。
レオナルドが耳から手が出るほど聞きたかったことはスティーブンが尋ねてくれた。
「畏れながら猊下、汁外衛殿とお知り合いだったのですか」
「ええ、わたくしが16歳の「ギシャジャジャジャ!グジャ!ギギギ!」
経緯を話そうとした声は人間から出るべくもない音に遮られ、汁外衛の杖が憤るようにクラウスの頭上で振り回される。
その杖先に白い手のひらが触れて、そっと下ろさせた。
美人が汁外衛の話に耳を傾け何度かうなずき「そんなに心配なさらないで、大丈夫」と小声で言い微笑む。やがて汁外衛の杖でコンコンとやさしく額を打たれてまた微笑んだ。
白いヘッドドレスの女性がスティーブンへ向き直る。
「おじいさまはここまで一緒に来てくださいましたが、一旦お戻りになるそうです。帰りは四日目の朝に迎えにいらっしゃると」
お茶漬け粉末と女神のなれそめ話はすっとばされたが、深追いするとお師匠の逆鱗に触れることは目に見えていて、誰も蒸し返すことはしなかった。
「お師匠様もう帰っちゃうんですかね。せっかくならツェッドさんにも会っ」
「そんなことよりレオ!ありゃあクソジジイじゃねえ!その目で正体を暴けよ、暴けったらぁ!」
「オジイサマ」発言と優しい頭コンコンを目のあたりにし、全身鳥肌をたたせたザップに半泣きで首をゆすぶられる。一応やってはみたが、汁外衛とその人はどこまで目を凝らして見ても別の姿が映ることはなかった。
「本物っぽいですけど…」と首をかしげて振り返ると、真横に汁外衛がいて、血法で編み上げた触手がザップを空中に吊し上げていた。
「うわあ!」
…シギャギャギャギャッゲギャ…ジャジャジャジャッッジャジャジャ…
耳をすませてもよく聞きとれないほどの音量で、汁外衛はザップの耳に何事か言い聞かせている。
引き絞られ頭の形を変形させているザップは絶えず涙を流し、えずきながら何度もうなずく。
「あ゛い…あ゛い、ばがぎばじだ師匠ォ、絶対じまぜん、絶対じばぜんがらぁ!」
汁外衛が言っていることはわからないが「あの美人に手を出すな」といった警告をこの世に存在する罵詈雑言の粋を極めた言葉でいわれているに違いない。
想像がついてスティーブンもチェインもレオもその様子を静観する。常ならば、クラウスだけはまじめに心配してひとりオロオロしていそうなものだがきょうはその気配もなかった。
クラウスはただただ美人と見つめ合っている。
弟子を散々吊るし上げ絞り上げたあと汁外衛は帰っていった。忽然と消えてしまったのである。
ザップは牙狩りとは関係ないと言っていたのに、なぜザップたちの師が牙狩りのトップを連れて来たのか、結局誰もわからず仕舞いだ。
それよりもいまの最優先事項は「猊下」だった。
なんと呼べばいいのか悩むが、とりあえずもし呼ぶ機会があったら、スティーブン達がいうように猊下と呼ぼうとレオナルドは心に準備した。
長く見つめ合う時間があって、クラウスがぽつりといった。
「遠路おつかれではありませんか」
「大丈夫です。あなたが元気そうでよかった」
「猊下におかれましても…」
「…」
「…」
「…」
「…」
校舎裏でうぶな学生の告白シーンを見るような感覚に陥る。見かねたスティーブンがクラウスに小ぶりなトランクを持たせ、進みそうになかった流れの中に割って入った。
「そろそろ参りましょうか」
「ええ、ホテルへ向かいたいのですけれどタクシーというのはどこにあるものなのか、スティーブンは知っていますか」
「外にお車を用意しております。よろしければまずは私どもの事務所でご休憩ください」
スティーブンのさわやかな笑顔に、美しく上品な微笑が返される。
「急に押しかけてはみなさまのご迷惑になりますもの」
「迷惑とはとんでもないことでございます。ぜひお越しください」
「そうですか。ではすこし、お邪魔します」
「歓迎いたします。どうぞこちらへ。…クラウス」
「あ、ああ。…二十二子猊下、執事のギルベルトがむこうに」
「おお、なつかしい。ギルベルト」
正面口につけて待っていたギルベルトの車に「猊下」とスティーブン、クラウスが乗り込んだ。
急いで追いかけなければいけないが、レオナルドは一度扉の方を振り返り、あたりを見回した。
「…」
「おら、なにぼーっとしてんだ。はやくとって来いよ。旦那たち行っちまうぞ」
後ろからヘルメットを叩かれるとちょうど頭にかぶさった。野次馬の彼らはランブレッタの三人乗りだ。
「や、なんか、ちょっと変な気がして」
「なにが?」
「家来の人とか一緒じゃないんスね。偉い人なんでしょう?」
「あのクソジジイをオトモにした時点で兵隊1000人連れて来るよりすげえだろが。それにこっちじゃ俺らが護衛すんだろ」
背中を蹴っとばされてそう言われれば確かにそうだ。
レオナルドは蹴られた勢いのままランブレッタをとりに走った。
HLエントランスと市街をつなぐハイウェイが爆発して、彼らが下のチャイニーズ・タウンに落下するのはそれから5分後の出来事だった。
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