エイブラムスは豪快に笑った。

クラウス不在の夜の静かな事務所でスティーブンは、電話の声のむこうに車の急ブレーキ音と衝突音をかすかに聞く。
「王選びの占いは靴とばして天気を占うのとはわけが違う!才無きおん猊下と嘲り笑っていた奴がいたならそいつあぁ牙狩りのモグリだな」

の血は退魔や封魔の力を持たないかわりに、魔の親しむ血を持つことがこのたびの不穏な外交で判明した。
靴擦れのわずかな血を追い一体の眷属が現れ、左手が血だまりをつくると100の眷属が集結し、サインを欲しがるような代物だ。これをして「マタタビ」と比喩したエイブラムスの話によれば、800年前にもこの「親魔」の血を持つものが牙狩りの首座についた記録が残っているという。
それにしても、とエイブラムスはあきれ果てたという声で続けた。
「我らが宿敵血界の眷属どもが、猊下のブロマイドを集めていたとはなあ」
夕方にチェインから報告を受け、諜報部が入手したという写真を見せられた時にはスティーブンも驚きを通り越して寂寥すら感じたものだ。
地下で第二十二子の写真が出回っている。
この噂の正体がはいった封筒からブロマイド写真を改めてとりだし、スティーブンは眺めた。一枚一枚に付箋がついて人狼局からの簡単な説明も添えられている。
「学生時代の写真に最正装、私服、イブニングドレス、喪服、ほかにも大量に。レアなところだと水着、ブラウスから下着がすけている写真、幻のヌード写真、ああ、これはコラージュだな」
ほとんどは隠し撮りのような構図だ。
こんなものを地下鉄の長老級やライゼズ病院の犬の飼い主、半身ちぎられたツェッドの時の血界の眷属が集めていたのかと想像してみる…

…親魔の血おそるべし。

「けしからん」
「まったくです」
「参考までに水着のやつを一枚送ってくれ」
「クラウスに言いつけますよ」
スティーブンは喪服の写真を内ポケットに仕舞ってほかの写真を封筒におさめた。
「ともあれ800年ぶりの隔世遺伝の登場だ。報告はしたんだろ?なら、本部は今頃大騒ぎだろうよ。これまで俺たちが後手後手に回っていたのは連中が神出鬼没であるところが大きい。親魔の血は使いようによっちゃあ連中をこっちのおびき寄せたいところにおびき寄せて一網打尽が狙える、戦略上は諸刃の最強の剣だ。ラインヘルツ家の目に狂いはなかったとクラウスの兄貴どもの高笑いがオーストラリアまで聞こえてきそうだ。…まああいつらは面白くても笑うまいが」
「暗殺の首謀者はわかりそうですか」
「俺は知らんが、卿会の連中は最初からいろいろ承知していたろうよ。猊下の親魔の血の威力をその目で確かめるために暗殺計画に乗っかって、血界の眷属の巣窟に放り込んだのかもしれん。それくらいはやる連中だ」
「…」
「猊下はどうしておられる?」
「いまはクラウスの屋敷で休んでいますよ」
「それがいい、あの家には吸血鬼避けをわんさか置いてきた」

怪我の具合はどうだ、と尋ねた声は一段低い。

「骨折は治りますが手のひらの神経に関しては」
言いながらスティーブンは自分のこめかみをぐっとおした。そのことを考えるとまだ頭に血がのぼる。
スティーブンはに一つ借りがあった。よい借りは半分返し、不愉快な借りはそっと十倍で返すことを旨としている男の血凍道は、しかしかの凶弾が放たれたとき足もとであそんでいた。
「手は、要観察だそうです。こちら側の治療ではなく人界の一般的な治療ですから」
しばらく黙ってから、エイブラムスはあっけらかんと言った。
「しばらく戻って来させるな」
クラウスもそう思っているに違いない。スティーブン自身もそう思っている。
手のひらを返したようにむこうで厚遇されるのだとしても、本部の使者があの人を迎えに来たら玄関口で顔を踏んで下からブッスリやってやろうとさえ思っていた。しかし
「本人はなんというか」
「猊下がなんとおっしゃろうとだ。力ずくはおまえらの十八番だろ」
「人聞きが悪い」
エイブラムスはふいに声を真面目にもどした。
「…あの方はかわいそうに、聡いところがある。自分の血が親魔のわざだと知ったら、あの子の家の窓に血界の眷属を呼び寄せたのは自分だとやがて気がつくだろう。こういうことをおじさんがいうとセクハラだが、あの日が初潮だったそうだ」
「……」
「どうせ知るならすがる相手がいる場所がいいだろう」
「…ええ」
「ちなみに、もちろん今もツキイチで出ているはずだが最初よりあとは特に何もないから、そこんとこは心配いらん」
「それセクハラですよ」















左肩骨折、左手首の内側から甲まで貫通した銃創
100の血界の眷属と対峙し、ものども退散させてこの怪我ならば、まさに奇跡としか言いようがない。
クラウスは奇跡などとは絶対に言わない。

手術をおえたは麻酔が効いた状態のまま病院からクラウスの屋敷に移され、夜遅くになってからクラウスのベッドのうえで静かに目を覚ました。
クラウスは傍らの椅子から立ち上がり、頬にさわり、撫でてわけた前髪のむこうに長い口づけをおとした。
肌のにおいを吸い込むとまだ病院のにおいがした。
が目覚めていることをもう一度確かめた。
まだ麻酔がきいているのだろう。毛布の下へ続くモルヒネのせいかもしれない。ぼんやりとして表情はなく、はにかむこともしない。
うぶ毛の触れる距離でクラウスはの鼻筋をとおり唇まで這わすと重ねあわせ、下唇を何度もすくいとる。
メガネがずれたところで理性がゆったりやって来て、体をはなし、椅子に戻った。

はなれてみれば、の眠たい目がこちらを見つめている。
いま慈しんでいた唇がうすく開いているのがどこかなまめかしい。
「…ありがとう」
かすれた小さな声がそう言った。まだ声は出ないものと思っていたのでクラウスは驚いた。
ありがとうとはなにをだろうか。一方的にしたキスを、まさかそうではあるまいが何にお礼をいわれたのかクラウスにはわからない。
唇はまたなにか言おうとしてわずかに動くけれど、息だけで声にはならず、クラウスは耳を寄せた。
「麦わらぼうし」
何度目かの試みでの声は音と意味とを結んだ。
そそがれるモルヒネが今度こそ昔の夢を見せている。
クラウスの心に北庭の陽ざしが沁みとおるようにはいってくる。
退魔の血を操る指南書をじっと見つめるの姿が蘇った。
あれがが命ある限りなつかしむといった幸いな思い出ならばと、クラウスはあの時の自分を演じてみることにした。

「今日はとても暑いですから」
「まだ部屋にあるのです」
「明日で結構です。いえ、差し上げます」
「うそ」
「え」
「捨てられてしまった」
「…兄たちにでしょうか」

姫君に麦わらなど不釣り合いだと憤慨してもおかしくない。
の首がほんのわずかに動いた。

「誰かに」

クラウスはぎょっとした。
あの屋敷ではより高位の人間はひとりもいなかった。
そのの持ち物を無断で捨てる所業をラインヘルツ家の人間や使用人たちにできたはずがない。まさか泥棒が、対人、対吸血鬼用パトリオットと呪術の数々をかいくぐって母屋にたどり着いたとでもいうのか。

「みんな捨てられてしまった、麦わらも写真も鉢植えも、本も、手紙も」

そんなはずはない。
はあの頃、あのボロボロになった本一冊がただひとつの持ち物だった。写真も手紙も持ってはいなかった。
戯れの心がさっと冷えて、クラウスは横たわる姿全体をたしかめた。

「…いつのことでしょうか」

「五日前」

椅子をたおして立ちあがる。
全身の毛が逆立ち、眼を血走らせて踵をかえし、怒りの煙をひいて進んだ。
をそしりあざけり追いつめて、今日撃ち抜かれた左手をおしいと高みから哂った者たちがいる。

「行かないで」

消えいる声にクラウスは息をつめた。
つまった息の下に怒りを押しこみ、強く歯を噛み立ち止まる。
早足に戻った。
椅子をなおし座った。
強く、けれど痛くないように手に手を重ねる。

「ここにおります」

クラウスが焦がれた強さはたしかにこうであった。
もう一度口づけをしたのはあの時にはなかったけれど。


















あの事件のあと、予定どおり四日目の朝、HLエントランスにザップさんたちのお師匠さんがさんを迎えにきた。
叩かれたら大地を突き破ってマントルにまで届いてもおかしくないあの木杖で、おでこを優しくコンコンするほどの溺愛ぶりだった汁外衛さんが、負傷のことを知ったらどうなるか僕には想像もつかないが、そちらにはスティーブンさんの指示でザップさんとツェッドさんが泣きながら派遣されたので、スティーブンさんは「事なきを得た」と表現した。
さんと汁外衛さんがどういう関係だったのかは今もわからず仕舞いだ。
僕は300枚焼き増しした、普通の眼で見たらクラウスさんとさんしか映っていない写真を約束通りユグドラシアド中央駅の下へばらまいた。

それから二か月が経ち、さんは今もクラウスさんのお屋敷で静養している。
実はこの二か月の間に何度か、本部のわりと偉い人たちが来て彼女を人界に戻そうとしたけれど、ある日は地面から生えたつららが、ある日は炎の嵐が、またある日は新開発の512連射F08ミサイルとスナイパー渾身の100発が刺客を追い返したという。
本部には猊下の誘拐だと騒ぎ立てている人もいるそうだがそれでもライブラが本部と決定的な敵対関係に至っていないのは、クラウスさんのお兄さん達とエイブラムスさんの一門が優位にことを進めているかららしい。
悪漢を追い返すその日のために毎日パンチの練習をしていた僕の右は、ついに繰り出されることはなかった。
クラウスさんの拳も振り下ろされることはなかった。
振り下ろされない手はいま、さんの手をやさしく引くのにいそがしい。
僕は時々お見舞いに行って、クラウスさんの植物園でベンチに並んでいる二人をよく見かける。
霧深いHLでは強い日差しはないのにさんはいつも大きな麦わら帽子をかぶっていた。
傷は癒えるのか。傷が癒えたら帰るのか。帰すべきなのか。もしまた血界の眷属が押し寄せてきたら。
心配事は山積みだけどとりあえず、寄り添ってベンチに座っている後ろから声をかけると、ビクっとふるえてベンチの端と端まで離れる二人の関係が、いまは一番心配だ。






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