「島崎三歩!定時定刻にやってきました!」
「やあ、三歩くん。いつも悪いね。きょうも重いけど、頼むね」
「らじゃ!」

新穂高ロープウェイの終点、山頂駅で元気いっぱいにテキトーな敬礼をした島崎三歩は、山のひとだ。
体が大きく、健康そのもので、住所を持たず、北アルプスの山のただなかにテントを張って、あるいは雪洞を作って山に来る人たちを応援している。日本のサラリーマンから見れば彼は三十代にさしかかった住所不定無職のニートだが、その実は世界の山々をめぐり、アメリカのワイオミング州では山岳レスキューチームのリーダーを務めていた男である。北アルプスでも、救助に協力するボランティア、遭対協の一員であった。

「せーの、と」

軽い掛け声とともに背負った箱詰めの荷物は100キロを超える。これを上の山荘まで運んでいくのが今日と明日の仕事だ。こういうアルバイトと県警からの出動費で、生きるのに必要な分だけ食料とコーヒー豆と、山での道具を買って山の日々を過ごしていた。

「ねえねえ、三歩くん」
「へ?」
「ちょっとちょっと」
「どしたの?」

ゴンドラの案内人がやけにニコニコして手招きするので耳を近づける。

「展望台でいいものが見れるから、そのまま行ってごらんよ」
「いいものって?」
「そりゃ言えないよ」
「えー?」
「いいから。騙されたとおもって」
「うーん…ラジャ!」

三歩は背負った荷をギシギシ鳴らしながら、ロープウェイ乗り場の上にある屋上展望台へと階段をあがっていく。
「おう、三歩じゃねえか。カレーでも食ってくか?」
「こんちは!」
レストランの顔見知りに挨拶し、
「あら、島崎くんじゃないの。コーヒー飲んでく?」
「ども、ども」
カフェのおばちゃんに挨拶し、展望台の扉を開いた。



あいにくの曇り空と降りてきたガスで、雪をかぶった鈍色の山々の稜線はもやの中に隠れていた。
下はすっかり春を迎えているというのに、標高2156メートルの位置にたつロープウェイの展望台は、真冬の防寒着でも凍えるような気温で、しかも平日、景色も見えないとなれば展望台は閑散としていた。
晴れていればここからは雄大な笠ヶ岳、抜戸岳、遠くに小さく鋭い槍ヶ岳、そして穂高の峰々の稜線が見渡せる。
山に登れないお年寄りにも、子供にも、車いすの人にも、多くの人にこの景色を見せてくれるこの場所が、三歩はとても好きだった。
さえた空気を深く吸い込んだ三歩の視界でふと赤いスカートが揺れた。

その人は展望台の真ん中にぽつんとひとりで立っていた。
その姿に目がとまり、しばらくとまったままになった。
吐いた息だけが白くけぶる。
不意にそのひとがこちらを振り向き、三歩は驚いた。
青色のまなざしだ。
外国人観光客も多い場所だからなにも不思議なことではないが、ちょっと見ないほどきれいな人だったのだ。
三歩は静かに驚き、目が合っていつもなら息するように出てくる「こんにちは!」の挨拶が喉にひっかかってなかなか出てこない。
その時、三歩の横を老紳士がすっと通り過ぎて彼女のもとへ歩いて行った。
彼女が見ていたのは三歩ではなかったらしい。
ああ、そういうことかと三歩はようやく合点がいった。
山の仲間のおじいちゃんたちは酔っぱらうとそろいもそろって三歩に「嫁をもらえ!」と言ってくるから、まさか三歩が美女と目が合っていると勘違いするところまで計算づくだったわけではないだろうが、今日もまたからかわれたというわけだ。「嫁をもらえ!」といったあとに「まあおまえじゃ無理か!」と大笑いする人たちだ。
まあいっか。おかげできれいな人が見れたわけだし、と三歩はいとも簡単に気を取り直して荷運びの仕事に戻ることにした。






「昨日、見たかい?」

次の日もゴンドラの案内人は山頂駅の扉をあけた途端にニコニコしながらそう言った。

「いいもん見れたろ。ありゃ滅多にない別嬪さんだよ」
「うん、きれいな人だった」
「だっろお!」
「うん」

誇らしげに笑う案内人をよそに三歩は荷物を手早く紐でしばって、さっさと背負う準備を整えた。
せーの!で持ち上げよう。結構重たいが重くないと思えば重くない。

「せー」
「今日もいるよ」
「んぼっ!」

ゴンドラの案内人がいうとおり、観光客もまばらな展望台の真ん中に今日もその人は立っていた。
昨日のあの静かな驚きがまだ心のどこかにひっかかっていて、ちらっと見てすぐに引き返そうとしたものの、今度はいきなり目が合ってしまった。
今日は、三歩の後ろに老紳士の気配はない。

「ハロー」
「…こんにちは」

一拍遅れてきれいな発音の日本語が返ってきた。

「運送屋さんですか」

これも明らかに正確な、日本語を母国語とする人の発音だった。

「へ?」
「昨日も大きな荷物を背負っていらしたから」
「ああ、これ?たまにね、向こうの山荘まで荷物を運ぶ手伝いをしているんだ」

三歩は稜線の上にちょこんと小さく乗っている山荘の屋根を指した。
今日はよく晴れてガスもなく、北アルプスを遠くまで見渡せる。

「あんなに遠くまで…、どうやって行くのですか」
「歩いてだよ」
「歩いて」
「そう」
「すごい…」
「見た目ほど遠くないんだ、わりとすぐだから」

三歩の足の先から頭のてっぺんまでめぐった羨望のまなざしが照れくさくて、三歩は話を変えてみた。

「俺は山の島崎三歩っていいます。あなたはどこから?」
といいます。おととい東京から長野に来て、昨日は下のホテルに泊まったのでここへ観光に」
「そうなんだ!ようこそ山へ!晴れてよかったね!」
「すばらしい場所ですね。怖いくらいに雄大で」
「お二人さん、写真をとりましょうか。買わなくても大丈夫ですよ」

自己紹介をすませた二人の背後から声がかかった。展望台の明るい写真屋さんだ。こうして写真を撮ってその場ですぐに印刷し、すぐそこの売店でフレームに入れて展望台の上に飾っておくと、ちょっと割高でも不思議とみんな買ってしまう。
三歩とはきょとんとして向かいあい、どちらからともなく小さく笑った。

「…それでは記念に」
「お願いしまーす!」
「はい、それじゃあまずは西穂高と一緒に。並んでぇー、あ、三歩くん。荷物降ろしてくれないと山が入らないよ。そう、オッケー。…ハイ、ロープウェイ!」

変わった掛け声でシャッターが切られた。
できた写真を観光客のがうれしそうに買ったのはともかく、年中山に住んでいる三歩まで同じ写真を買った。手持ちがなかったので、三歩は「今回のバイト代をもらったら持ってきます」と言ってまで買った。山仲間の県警山岳救助隊や遭対協のメンバーあたりがこの姿を見たなら「山バカ三歩のくせに色気づきやがって」と蹴りをいれるに違いないが、こんな映画女優のような美人と映っているのだから仕方ない。記念だ。

「お嬢様」

声に振り返ると昨日の老紳士が立っていた。昨日はてっきりおじいちゃんと孫の二人で来ているのかと思ったが、いま、なんと言ったろう。

「お嬢様?」

おじいちゃんだと思っていた老紳士はと三歩の間に割って入り、三歩をぎろりとねめつけた。

「…こちらの方は?」
「松尾さん。こちらは山の島崎さん」
「こんにちは!」
「これからあんなに遠くの山荘まで荷物を運ばれるのだそうですよ」
「そうですか。それはたいへんなご苦労でしょうね。さ、お仕事の邪魔をしてはいけません。お引き留めもほどほどに」
「…それじゃあえっと、そろそろ行くね。さん、松尾さん、山を楽しんでいってね!エンジョオイ!」
「ありがとうございます。島崎さんもお気をつけて」

山荘へ続く登山口へ入った三歩の足をずっしり重い雪が阻むが、三歩の心は軽やかだった。

「きょうも昨日もラッキーだったなあ」

あんなにきれいな人が山を見に来てくれて、すばらしいといって山を好きになってくれたのだから。



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