4月27日に開山祭を迎え、ゴールデンウィークに突入すると、日本有数の観光地である上高地には観光客が大挙して押し寄せてくる。
事故の数が最も多いのは夏と紅葉シーズン、数こそ少ないが重大な事故に発展する危険性が高いのが冬、そのはざまにある春の事故はふり幅が大きい。県警の山岳救助隊は、剱岳の険しい岩場で滑落者の救助にあたったかと思えば上高地で迷子やお年寄りのサポートもしなくてはならない。
ボランティアで構成される遭対協のメンバーでもある島崎三歩は、今日も北アルプスを走っていた。
その背には一人の若者を背負っている。
スニーカーにダウンジャケット、ジーンズ姿で残雪深い前穂高に入り、寒さと疲労で動けなくなった彼を救助し、上高地まで担ぎ下ろす途中だった。
すっかり憔悴し、反省し「すみません、すみません」と泣いて繰り返す若者に三歩はいう。

「よく頑張った!」



上高地で待っていた県警と救急車に引き渡し、しでかしたことの重大さに青冷めた若者の肩を優しくたたいて、三歩はニカッと笑った。

「またおいでよ!ビシっと山装備でキメて、次は頂上まで行こう!」

そのままハイタッチでもしそうだった三歩を「ハイハイ、三歩さんどいててねー」と慣れたふうに県警の救助隊と救急隊員がさえぎって、要救助者だった若者を連れて行く。

「また来てねー!」

遠ざかる救急車のうしろに手を振っていると、無線機が電子音をあげた。自分の無線かと思って手をかけたが、鳴ったのは県警山岳救助隊の、三歩の幼馴染でもある野田正人の無線機だった。

「はい、こちら野田」
「上高地臨時派出所の椎名です。外国の子供の迷子が来ていて、ど、どうしましょおぉ、言葉が全然わからないんですぅ!!」
「情けない声を出すなっ。観光センターの人で外国語がわかる人がいるだろ」
「あ、そっか!りょ、了解。連絡してみます」

無線はそこで途絶え、野田は深くため息をついた。

「…三歩、おまえもちょっと顔かしてくれ。この時期観光センターも忙しいだろうから念のためな」
「オッケー」



仲間とはぐれた人に落とし物をした人、行く道を相談しにきた人、観光シーズンに上高地に臨時で設けられる警察の派出所はおみやげ屋と見まがうほど人であふれていた。
おもてが混んでいるのはわかるが隊員用の裏口から入った先の小さな休憩室もやたらと混んでいるのは不可解だ。
体格のいい隊員たちをかき分けて野田が休憩室に入ると、隊員たちに取り囲まれた真ん中で5歳くらいの褐色の肌の男の子が椅子に座ってりんごジュースを飲んでいた。リラックスした様子である。

「あ、チーフ。お疲れ様です」

少年の横に座っていた椎名久美がこちらに気付いて手をあげた。無線をしてきた時とは打って変わってケロっとしている。

「その様子だと親御さんは見つかったのか」
「はい、ついさっき。いま原田隊員がスペイン語のメモを持って迎えに行っています。いやー、英語だったらまだ三歩さんかザックに話してもらったら大丈夫かなって思ったんですけど、スペイン語だったみたいで」
「そうか。悪かったな、三歩」
「いいって」
「それより聞いてくださいよチーフ!あ、三歩さんもいる、三歩さんも聞いてください!」

椎名が鼻息荒く近づいてきて、興奮した様子で後ろを指さした。

「観光センターにいたスペイン語の通訳をしてくれた子、この子!私の大学の友だちだったんですよ!」
「…島崎さん?」

隊員の間から立ち上がった人の青いまなざしと目が合った。






「そっか、クミちゃんは東京の大学に行ってたんだ」
「学部は違ったんですが、一年生の時に同じ授業になることが多くてそれで」
「そうだったんだ。それにしても俺も驚いたな。観光センターで働いてたなんて」
「この4月から11月頃までの間だけお世話になることになったんです。クミが警察官になったとは知っていたんですが、まさか歩いて五分の場所で働くことになっていたなんて。それに島崎さんにもまたお会いして」
「三歩でいいよ。すごい偶然だよね!」
「三歩さんは普段は上高地で配達を?」

なごやかにおしゃべりをしながら観光センターへを送っていく三歩の背中を、屈強な救助隊員数名が建物の角から団子のように頭を並べてにらんでいる

「ぢ、ぢぐしょう!」
「ずるい、あんなじゃがいも顔があんな美人となんで知り合いなんだっ」
「山の神様は不公平だ!」
「ちょっと!」と厳しい声を聞き振り返った隊員たちが目にしたのは仁王立ちした椎名久美の姿だった。
「あ、椎名。いいところに!」
「なあ!おまえあの子と知り合いなんだろ?さっきホテルのカフェに来週行こうって約束もしてたよな!?あれに俺もっ」
「お、俺も!」
「女・子・会なんで!それに、あの子に浮ついた調子で手ぇだしたら先輩といえども梓川に突き落としますよ!」
「それいうならあれ!三歩さんのほうが怒られるべきだろお?」
「三歩さんはほぼテディベア!」

一喝で、隊員たちは歯噛みしながらも涙をぬぐってそれぞれの持ち場に散っていった。



「ろ、六か国語!?」

そんな嫉妬のまなざしと安パイ判定が下されているとはつゆ知らず、そのころ三歩は案の定、色気のないすっとんきょうな声をあげていた。
何語の翻訳ができるのかと聞いたら日本語、英語、スペイン語、フランス語、中国語は北京語と広東語だと返ってきたからだった。東京にいたときには企業に付いてミーティングやカンファレンスで通訳をしたり、医療やインフラ関連のシンポジウムで通訳をしていたという。

さんはすごいなあ」

は首を横に振り、前方のすこし上へと視線を向けた。
河童橋の向こう、はるか穂高の峰々がそびえている。

「三歩さんのほうがずっとすごいです。あんなに高い山の上へ荷物を運んだり、人を助けたりしているなんて」
さんも行ってみようよ!俺が案内するからさ、きっと気に入るよ」

三歩の思いつきには一瞬うれしそうな表情を見せたが、口を閉じてから小さく笑った。

「とても素敵な場所なんでしょうね。ここからでもこんなに美しいくらいですから」

そう言って、しっとり濡れた白いカーテンをかぶせたような北アルプスをはもう一度見上げ、まぶしそうにわずかに目をほそめた。
その横顔はたいそう美しかったが三歩はそういった俗世の価値を見落とすのが得意で、何千、何万と見上げた山々へ三歩も目をやった。
清涼な風が後ろから吹いてきてふたりの髪を揺らした。



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