雪庇を踏み抜いて滑落した登山者を乗せ、県警のヘリコプターが遠ざかって行く。

「またおいでー!」

三歩は両手を大きく振って、サックは力強く親指を立ててヘリを見送った。
ザックは三歩がアメリカのティートン国立公園で山岳レスキューチームのキャプテンを務めていたときの隊員のひとりだった。山仲間の遺書を三歩へ届けに来日して以来、北アルプスを気にいって居酒屋のアルバイトをしながら時折こうして救助にも協力している。
ここまで来る間に二人で踏み固めた雪道をもどり始めてしばらくすると後ろのザックが明るい声で呼びかけてきた。

「Hey, Sunny!」
「What's up?(どした?)」

サニーとは、ティートンにいたころの三歩の愛称だ。

「おまえこのあと上高地まで降りるんだってな?」
「うん。正人がごはんおごってくれるっていうからさ」
「飯まで少し時間あるか」
「あるよ」
「じゃあ見に行くぞ」
「何を?」
「バッカ野郎!知らないのか。お前ってやつはまったく。上高地の女神だよ」
「女神?」

三歩は首をかしげた。女神と言われて思いつくのは自由の女神くらいだ。

「観光センター!」

三歩はびっくりして足を止め、振り返った。

「うちの店に来る外国人観光客とか若いのがみんな言うんだ。ネットで話題になってるらしくてな、それ目当てで来てる不届きな連中もいるらしい」
「…それって」
「ムフ!どんな娘かなあ!」

三歩がなにか言おうとしたのに気づかず、ザックはご機嫌で鼻歌を歌い始めた。
ザックはかつてヒマラヤで妻を失っている。いまだに彼女を愛しているがそれでも生来の彼の性質上、女好きなのは結婚前も後も今も変わらなかった。
三歩はまさかな、と肩をすくめて踏み固めた雪道をもどるのを再開した。不思議と進める足にためらいを感じたがその理由はさっぱりわからなかった。



「やばいやばい!観光センターが閉まっちまう!」
「あ、ザック」

上高地にたどり着くとザックは駆け足になり、観光センターまであと少しというところで三歩を追い越してひとりで行ってしまった。
遅れてついてきた三歩は観光センターのガラス扉越しにそうっと中をのぞき込む。
観光センターの中はまもなく閉まる時間だというのに混雑していて、奥のカウンターの様子は全く見えなかった。心なしか男性が多い。 もしかして、この混雑はみんなあの人を見に来た、…なんてわけはないか。
それでも一応確かめようと背伸びして首を伸ばした。

「こんにちは」
「わっ!」

不意を突かれて思わず大声をあげてしまったから、声をかけた村雨のほうこそびっくりしていた。

「こ、こんにちは、村雨さん」

観光センターが閉まってザックがあきらめて出てくるまで、観光センターの裏手のベンチに腰掛けて待つことにした。その横には今日の仕事を終えた村雨が座っている。本当は今日は非番だったそうだが、観光センターが予想以上に混雑したために急きょ呼ばれたのだそうだ。

「大変そうだね」

村雨は首を横に振り、「わからないことがたくさんですけれど、来る人がみんな楽しそうで楽しいです」と明るく笑った。

「三歩さんは今日もレスキューを?」
「うん、あのあたりでね、崖から雪のせり出した部分を踏んでケガをしてしまった人がいたから。でも無事でよかったよ」

三歩が何気なく指さした方向を見て、村雨はその大きな目をさらに大きくした。
村雨にはそれがとてつもなく遠くに見えたのだ。「景色」として村雨が認識してしまうあの岩肌に人が登っていて、怪我をして、それを助けた人が現実に、まさに横にいるというのが、登山経験のない村雨には驚くべき事実だった。

「三歩さんは山のプロフェッショナルでいらっしゃる」

こうも正直に感服の言葉を口にされると照れくさい。三歩は豪快に歯を見せて笑った。

村雨さんもプロフェッショナルでしょ、通訳の」
「いえ、私は、そんなことは…」

お世辞で言ったつもりはなかったが、村雨のほうは照れるというよりは長いまつげを伏せて落ち込んでしまったように見えた。
なんだかわからないが、落ち込ませてしまった。
なにか悩み事があるのかもしれない。
三歩は困った。

「ご、ごはん!食べる!?」
「ごはん?」

仕事の話から急にごはんの話が出てきて、村雨はきょとんとした。

「正人…俺の高校からの幼馴染が、この前そこの派出所にいた、こう、メガネの。きょう晩ごはんおごってくれるっていうからよかったら一緒に。いっぱい食べて大丈夫だよ!」

三歩の提案には色気も下心もない、いっぱい食べればきっと元気になるという発想だ。それを村雨は生来のなにかで読み取ったのかもしれない。

「ご一緒してもいいのですか」
「いいのですよ!もっちろん!」
「ぅお嬢様ぁー!」

その時、向こうから声を張りあげ、トレッキングポールを振りかざして猛然と走ってくる姿があった。
先日ロープウェイで会った松尾という老人だ。今日は登山客の格好をしている。
怒りによってか年も考えずに走ったりしたためか、顔を真っ赤にし、まさに鬼の形相で迫って来て三歩の前で立ちどまった。怒らせた肩で息をきざむ間に三歩が三歩であると認識すると「おや、あなたは」ときゅうに穏やかな紳士の顔にもどった。 三歩のことを悪漢かクマかなにかと勘違いしていたのかもしれない。
村雨はいつのまにか椅子から立ちあがっていて、三歩の前に立っていた。

「松尾さん、今日はこちらの島崎三歩さんと三歩さんのお友達と夕食をご一緒したいのですが、かまいませんか」
「…島崎さんと、お食事を?」

紳士の視線がぎろりとするどく光って三歩の頭のてっぺんからつま先までを見た。その視線をさえぎるように村雨は再び二人の間に立った。老紳士は眉をひそめて厳しい表情をくずさない。

「島崎さん、つかぬことをうかがいますがそのご友人というのは男性で?」
「うん、俺の幼馴染で、そこの県警の派出所にいるから呼んでこようか?」
「警察のごやっかいに!?」
「救助隊の隊長だから」
「…ふ、ふむ、警察の隊長の方…。よろしいでしょう、ただし私もご一緒します」
「いいねえ!あ、それと、もしかしたらあともう一人ついてきちゃうかもなんだけど」



「急に増えたな…」
「Hey正人!人たくさん!たのしい!enjoy!」

三歩ひとりを誘ったはずが五人に増えていた。
小さく愚痴った野田正人のつぶやきを耳ざとく聞き取って、ひときわ上機嫌なザックが彼の背をバシバシたたいた。
その横では松尾と、勝手にくっついてきた椎名が挨拶を交わしている。

「松尾のおじいちゃんお久しぶり!やだー、すっごい懐かしい!」
「椎名さんもお久しぶりです。相変わらずお元気そうでようございました」

そして、三歩と村雨だ。
野田はこっそり財布の中を確かめた。






「どこかのお嬢様なんですか?」

食事中、松尾という老人がお嬢様お嬢様と何度も呼ぶので、野田は尋ねずにはいられなかった。
老人は胸を張った。

「由緒正しい里見のお家のお嬢様であられます」

「松尾さん」とたしなめる村雨の声も聞かずに松尾は続けた。

「私はお嬢様が生まれる前から35年間、お屋敷の内事を任されておりまして」

すまなそうな表情の村雨を差し置き、老人は誇らしげにべらべらと語りだした。
村雨は母親を小学生の時分に亡くしてからというもの、現在はイギリスとアメリカにいる父親と兄二人に蝶よ花よと育てられた方なのだと力説した。村雨は苦笑いをしている。
その向かいで三歩がザックに今の話を翻訳して伝えているのを見ると村雨は何度か大きなまばたきをした。すかさずクミがため息交じりに教えてくれた。

「三歩さん、こんなだけど英語しゃべれるの」
「こんなってなんだよー」
「三歩さんは海外にお住まいだったことが?」
「うん、お住まいだったよ、テントだけど。一番長くいたのはティートンってところ」
「そうだったんですか。たしか、国立公園があるところですね」
「そうそう。ザックはその時のレスキューチームのチームメイトなんだ」
「これ、マイ・ボスね。びっくりするでしょ?信じるできないでしょ?」

片言の日本語のザックがソーセージの刺さったフォークで指さすと、三歩はソーセージを奪って食べた。ザックが文句を言いだす前に、三歩は「そういえば」と素早くソーセージを飲み込んで話を変えた。

「そういえばさ、村雨さんは最初見たとき海外の人かと思ったから、日本語で話して驚いたな」
「父が「旦那様がイギリスの方であられますから」

執事松尾の介入がいちいちはいるものの、住む世界が全く違う人間が混ざったからこそ話題の絶えない楽しい夕食となった。
村雨が特に興味を示し、目を輝かせて聞いたのは山の上での事だった。隊員たちの前では冷静な隊長と見られている野田も、三歩の話に交われば高校の時代に戻ったように話した。
楽しかった出来事を、見た素晴らしい景色を話して聞かせるうち、三歩は「足りない」と何度も思った。どれだけ身振り手振りを加えても山の楽しさ、すばらしさは言葉では言い尽くせない。それに山はすぐそこだ。
「行こうよ!」
三歩はそう言いたかったが、ザックが隙あらばちょっとエッチな山での体験を話し出そうとするので強引に、しかしあっけらかんとその話を別の話に切り替えるのに忙しくてついに言葉にはできなかった。






宴もたけなわ、デザートのお皿も空になり女性陣がお手洗いに席を立ったところで、これまでお酒も入って上機嫌だった執事の松尾が急にまじめな顔にもどり、「野田さん、島崎さん、ザックさん、本日は楽しい会をありがとうございました」とテーブルの上に指を組んで頭をさげた。

「私はもともと長野の出身ですが、幼少からずっと東京でお過ごしになられていたお嬢様はこちらに来てからまだ日も浅いですから、和やかな時間をくださったことを旦那様の名代としてお礼申し上げます。みなさんの山のお話もとても楽しかった」

老人は、しかしいまはどうも楽しそうな表情には見えなかった。
「ですが」と言って一度言葉をとめた彼を三人はじっと待った。

「遠く、危険な場所にはお嬢様を連れて行かないでいただきたい。このようなことを警察の方や救助の方にお願いするのは筋違いとは思いますが、どうか」
「何かあるんですか」

野田には、それが蝶よ花よと育てた大切なお嬢様だからという理由だけには聞こえなかった。
これを私から言ったことはどうかご内密に、と言い置いて老人ははなしだした。

「お嬢様は、簡単に申し上げればてんかんの症状を持っておられます」
「てんかん?」とザックが首をかしげる。
「英語では、たしか…Epilepsy。前触れもなく脱力して意識を失うことがあるのです。椎名さんはもうご存知のことです」
「そのことを観光センターの人は?」

そう尋ねた野田はすっかりいつもの「隊長」の顔に戻っていた。

「短い期間ですから、そのうえで受け入れてくださいました。東京ではクライアントのいる場やオフィスで何度か倒れて、半年前に自ら職を辞されて」

顔を赤くして息を詰まらせた松尾の曲がった背中を三歩がさすった。
それで逆にこみあげるものがあったのか、松尾はもう冷たくなったおしぼりを顔にあてた。

「あの子は笑うのですよ、うちがお金持ちでよかったなんて。外交官だった奥様の話に憧れて学生のころからあんなにたくさん勉強をしてようやく、ようやくこれから…!あんなに楽しそうにお仕事をなさっていたのに」

久美と村雨が席に戻ってくると松尾の真っ赤な顔を見て驚き、村雨は慌てて肩に手をそえた。

「じい…松尾さん、どうしたんです。どこか痛いのですか」
「いえ、いえお嬢様。じいは平気ですよ」
「でも」
「三歩さんの山のお話があまりに感動的で。よくありませんな、年であちこちゆるくて。失敬」
「まあ、そうだったの。それは私も聞いてみたい…」

村雨は心ここにあらずという様子でつぶやき、入れ違いにお手洗いに向かった松尾を心配そうに見送ってから、二人は席に着いた。
野田が三歩の足をテーブルの下で蹴った。
つじつま合わせに感動する話をしろという合図だ。そう言われても、人が泣くような感動的な話なんてそうすぐには出てこない。

「えっと、その話っていうのは、えーと」
「どうか気になさらないでください。嘘をつくのがうまくない人なんです」

村雨は苦笑にも見える笑顔で静かに笑った。
松尾には内密にと言われたが、彼女はすべて承知のようだった。これを見たなら三歩の心からは慌てふためいていたものがふっと立ち消えてしまった。

「…優しいおじいちゃんだね」

嬉しそうにうなずいた村雨は少しはにかみながら「大好き」といった。






「山には来れないのかあ…」

あんなに山のそばにいるのに。
三歩はテントの中でハァとため息を落とした。淹れたてのコーヒーを飲んだら悩みなんてなんでも忘れてしまうと言った三歩がめずらしく三日経ってもそのことを覚えていた。
あとから椎名久美から聞いた話によると、村雨はここに運動靴を持ってきていないらしい。上高地で働くことを認めるかわりに、危険な場所へ行かないことを父と兄と約束し、その証としてそうしたのだという。
そういえば、と三歩はロープウェイの頂上駅を思い出す。
ほとんど人がいないのに、村雨は手すりのそばには立たず展望台の真ん中にじっと立っていた。
山の上には連れていけないし、わきまえた村雨自身も行く気がないと知ると、山は下のほうを歩くだけだってすごく心地がいいんだと、そう伝えたい思いが増した。
心を晴らそうとテントから這い出して夜空を見上げ、二杯目のコーヒーに口をつける。
あいにく、山頂から下りてきたガスがかかり、あたりの景色は見えなかった。
夜の北アルプスの風はまだ刺すように冷たい。
その冷たい空気を胸いっぱいに満たすと心は冷たく鎮まった。
熱いコーヒーがただおいしかった。

静まりかえった夜をわって救助要請の無線が三ノ沢に鳴り響いた。



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