明け方になっても視界不良が続き、ヘリは飛ばなかった。
もやの中からヘッドライトが2つかすかに見えると、県警山岳救助隊の椎名と阿久津は走り出していた。
要救助者をかついで暗闇から現れた三歩は、朝つゆというよりは大雨に降られたようなありさまだった。三歩のフードの端から、宮川の顎の下から、背負われた男性の力ない手から、ぼたぼたと絶えず水滴が滴っている。
椎名と阿久津が要救助者の体を支え、受け取った。

「三歩さん、宮さん、あとは私たちが」
「頼んだ、クミちゃん、阿久津くん」

三歩から数分遅れて現場に駆けつけた岳天山荘の宮川が無線で伝えたとおり、60代男性の要救助者は発見時にはまだ息があったが、山頂付近はほとんど視界がなく、夜ということもありヘリコプターは飛ばなかった。気温1度、湿ったロープや道具が凍ってしまいそうな気温の中、三歩が背負い、宮川がサポートにまわった。俺が俺がで目立ちたがる宮川がめずらしく文句も言わずにサポートにまわったのは、それほどに状況が切迫していたからだった。
発見から2時間後、下にたどり着く前に三歩の背中で男性は息をひきとった。
待っていた救急車に遺体と、布でくるんだ右肘から先を預けて扉が閉められた。



朝早くに目が覚めてしまい、もやがかるなかホテルのまわりへ散歩にでた道では救急車を見た。
サイレンのないまま遠ざかって行ったそれが山で助けられなかった人を乗せたものであったとは、観光センターの朝礼で遭難死亡事故があったことを聞かされるまで気づかなかった。






松本の病院で遺族に発見当時の状況を説明する役目を終えると、野田が上高地まで車に同乗させてくれた。
徒歩で三ノ沢まで戻る途中に観光センターの前を通りかかったことに意図はなく、ただ単にセンターは河童橋のすぐそばで山へのとおり道だった。
ゴールデンウィークもだいぶ過ぎて梅雨が近づくと、平日の上高地はだいぶ静かになる。
だからなのか休憩時間中なのかわからないが、センターの前に設置されたベンチにその人は座っていた。
こんな時、三歩ならば「大きな声で挨拶する」の一択だが、今日は声をかけずに少し離れたところで立ち止まっただけだった。

「…」

は膝の上に本をひろげ、時折顔をあげてはうつくしい山々を見渡していた。
雨上がりの北アルプスを愛おしそうに見つめている人に声をかけるなんて真似は、ちょっと無粋だ。
そう思って、 三歩はの視界に入らないようにそうっと河童橋を超えて行った。
山のひと、島崎三歩といっても食事は必要だ。
いい季節には山菜を採ることはあるが、山にいるウサギや鳥を狩って食べるなんてことはしない。だから食料が無くなれば安売りのころに大きなスーパーのある街まで出て買いだめをしてくる。それになにより三歩の大好きなあのコーヒー豆は山では採れないから、たまには街に行く必要があった。
街に行くときの道はいろいろあるが、ここ最近は上高地からバスを使っていた。
その道筋で観光センターの前を通るのだが、バスの数はそう多くないから行きの時間と帰りの時間を計算すると必然的に同じような時間に観光センターの前を通りかかることになり、その時間はちょうどの休憩時間らしかった。
その時々でいる場所は微妙に違っているが、は決まって観光センターの近くのベンチに腰掛けて膝の上に本をひろげ、視界いっぱいの景色をじっと見つめていて、三歩は話しかけられずにさっと通り過ぎる。
それが三回目を数えると、三歩は戻ったテントできつくしぼっていた腕を組み解いて両膝を強く打った。

「よし!決めた!」






「こんにちは!」

山を見つめるの横顔をこちらへ向けさせるのは忍びなかったが、三歩はついに休憩時間中のに声をかけた。

「三歩さん、こんにちは。どこかへ配達ですか」
「ううん、さんに用事があって」
「私に?」
「向こうにいい景色の場所があるんだ」

三歩がまっすぐに指さした方向へ一度顔を向けてから、の顔がゆっくり三歩のところへ戻ってきた。
不思議そうだった。
三歩はニカっとわらう。

「平坦で道も整っているから、もしよかったら行ってみよう!」

三歩の言葉の意味を理解すると、の表情はみるみるうちに嬉しそうになった。



の仕事が終わってから夕暮れに映える北アルプスや梓川を臨む場所へ案内して、そのあとをホテルまで送るのを三回も繰り返すと、三歩は上高地に詰めている救助隊員に突然尻を蹴られるようになった。
彼らは一様に泣いているような、歯を食いしばっているような表情だった。
三歩にだってが美人であることはわかっていたから彼らがくやしがるのも理解できたが、当の三歩にはたいした下心はない。ただ山を好きになってもらいたいと、その思いばかりであった。
聞けば、ベンチのうえでが膝の上にひろげていた本は、上高地の観光ガイド雑誌や北アルプスの山岳ガイド本だった。三歩が見せてもらうと、ページのあちこちにきれいな文字で書き込みがあった。松尾や久美に聞いて教えてもらった追加情報を書きつけて休憩時間や仕事が休みの日に、実際にそれがある方角を見ながら、山道のまわりの景色や行き方、注意点をシミュレートしていたらしい。
そう遠くまでは連れていけないが、三歩は立ちどまった場所からできる限り遠くを指さして、向こうにはいつ頃になるとこういう形をしたこういう色の花が咲いて、と説明し、は熱心にそれを書きつけていく。
あっというまにガイド本は書き込みでびっしりと埋まっていった。

観光案内で使えるような三歩のプチ情報のほかにも、行きの道と帰りの道でいろいろな話をしたが、とりわけが興味深そうに聞くのはやはり三歩の山での体験談だった。山で猛吹雪に見舞われたときに「こんなのは俺があった21回の吹雪のうち19番目に弱い」とうそを言って励ましたキャプテンの話や、かわいいアライグマの話、父親を山で失ったナオタという強い少年の話、三歩が死にかけたときに出会った巨大なヘラジカの話。
しゃべり方のせいか大人っぽく思っていたが、三歩の話を聞いている間、は三歩が思っていたよりもずっと表情豊かだった。



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