三歩の観光スポット解説が四回を数えた頃のことだった。
を迎えに行くと、はて、あれは大学生だろうか。バックパックを背負った若者たちが観光センターの前で4、5人の輪を作っていた。その足の間から山らしからぬ華奢な靴が見えた。
突然、三歩の脇腹が小突かれる。

「要救じゃないか?」
「正人」

幼馴染で県警の野田正人が河童橋を背に、三歩のすぐ横に立っていた。
オレンジのベストと帽子をかぶっているから、どこかへ出動して帰ってきたところなのだろう。

「要救って?」

野田はあごで大学生に取り囲まれたをさして、行けと三歩に指示する。

「ありゃナンパだ」
「え!?」
「彼女、困ってる」

首をあちこちに伸ばしてのぞき込むと、確かに輪の中では困った苦笑いを浮かべている。
三歩はナンパを止めに入ったことなどなかったが困っているならどうにかしなくちゃととりあえず足を踏み出した、その直後、北アルプスに力強い声が響き渡った。

「この子になにかご用ですか!?」

のまえに颯爽と現れ、立ちふさがったのは椎名久美だった。
救助隊のトレードカラーであるオレンジのベストを身にまとい、長野県警察の五文字が後光を放っている。

「あなたたち大学生?登山の相談でしたら警察でも承りますよ!ぜひどうぞ!」
「い、いや、俺たちは別に」
「おい、もう行こうぜ…」

あまりの迫力に大学生たちは尻尾を巻いて逃げていき、久美はふんと鼻を鳴らした。

「大丈夫だった?

表情をパッと切り替え久美が後ろを向くとのまなざしはキラキラと輝き、白い頬がほんのりとピンク色になっていた。

「クミ、すごくかっこいい」
「…よく言われる」

そのやりとりの一部始終を見ていた三歩は野田のほうを向き

「クミちゃんかっこいいね!」

なんて元気いっぱいにいうものだから、野田は三歩の尻を蹴った。






五回目には景色を見に行く途中で雨が降り出した。
さいわい雷は遠く聞こえるくらいだったが、雨はざあざあ降りになり大きな樹のしたに隠れた。
雨が降りそうななかの装いのことも考えず連れだしてしまった申し訳なさが三歩を苛んでいた。水をバシバシはじくフード付きの服を着ていた三歩に対して、は仕立てのよさそうなブラウスとカーディガンだったのだ。
はカーディガンを脱ぐとぎゅぎゅぎゅうっと案外豪快にしぼった。

「ごめんね」

三歩の声に顔をあげたはしばらく三歩の顔をみてから、にっこり笑った。

「いいえ、全然」

その笑顔はきっと気に病む三歩を励まそうとしているものだったから三歩も少し口角をあげてこれに応えた。
が濡れた前髪を撫でつけるときれいな形のおでこが見えた。
おでこをとおり、頬を伝って、水滴がの首筋からブラウスの襟の中へ滑り込むのをこっそり追っていたら、その視線の先で三歩ははっとした。
の白いブラウスは濡れて体に張りつき、肌の色や下着の線が見えてしまっていたのだ。

「ち、ちょっと待ってね…、はい!」

三歩は荷物の中から、つぶせば缶詰ほどまで小さくなるダウンジャケットをすばやく取り出し、の方をできるだけ見ないようにして肩からかけた。

「ありが…」

お礼を言う途中でも自分の姿に気がついて慌てて襟元を手でつかみ、前を閉じた。

「ぁりがとうございます。すみません…」
「や、さんはなにも悪くないし!…ご、ごめん」
「…」
「…」

気まずい沈黙の帳がおり、しばらくあたりは雨音だけになった。
暗くなってきたのは雰囲気のせいでも雨雲のせいばかりでもなかった。
もうすぐ日が落ちる。
はやくをホテルまで返さないといけない。
しかし雨はやまない。
もう少しして雨が弱まらなければ自分が来ているゴアテックス素材の上着をに着せて自分は濡れてでも帰らせる。そう思っていたとき、が一瞬三歩の顔をうかがったような気がした。

「…三歩さん、見てください」
「え?」
「私の足跡!」

が片足をそうっと上げると、たしかに靴底の模様までくっきりとぬかるんだ地面に足跡がついている。きれいな靴も白い足も泥で汚れているというのに、は地面についた靴跡に子供のように喜んでいた。

「肩をぐうっと上から押してくれませんか。もっと跡がつくように!」

雨の上高地はまだ寒く、街灯もない場所で夜が迫るなかで、のこの天真爛漫な振る舞いは少し無理をして、三歩にまとわりついていた暗い雰囲気を打ち壊そうとしていたのに違いなかった。
その心意気にあてられて、三歩も笑い、ひときわ元気に腕をまくった。

「よぉーし!任せて!」






六回目、数日前行けなかった場所へ連れて行こうとを迎えに行く途中、あの大きな樹のそばをとおりかかって気がついた。
上からぐうっと押した甲斐あって、今もまだ地面にの足跡のふちが残っている。

それから三歩は、を迎えにその大きな樹の横を通り過ぎるたび、まだ残る足跡に、歯を見せて笑ったを思い出して早足になった。



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