「やい!四歩の分際で」
「ん?」

乱暴な呼びかけに三歩はぽかんとした顔を向けた。
中年の登山パーティーの一部がはぐれて道に迷ったという通報があって急行したものの、その後はぐれた数名の自力での下山が確認できた。出動が無事空振りに終わり、遭対協の面々は近くの岳天山荘にいったん引き上げた。その岳天山荘のオーナーこそがこの宮川三郎という男だ。
ずんぐりむっくりの見てくれだが、力強い眉毛と髭をたくわえていて、知らない人から見たらいつも怒っているようだった。こう見えて、遭対協の副隊長でもある。

「俺はお前のことなんか嫌いだがなあ!」

ドン!とジョッキを卓にたたきつけ、前置きしてから宮川はいった。

「ヘラヘラしててもチャラチャラしてねえ男だとは思ってやってたんだ。それがなんだ、外人のねーちゃんと下でイチャイチャイチャイチャしてるってはなしは!」
「外人?あ、さんのこと?」
「そうそう、観光センターのちゃん。なんだ、サブよ、おまえまだ見てないのか?」

得意げにフランスワインのグラスを揺らしたのは遭対協の隊長、山口だ。

「俺はそういうチャラチャラしたのは大ぇっ嫌えなんだ!」
「うっそだー、女の子大好きじゃろ」
「山さん、俺はこのバカとしゃべってんだ。邪魔しないでくれ!やい四歩!その女をいますぐここに連れてこい。俺が見極めてやる」
さんは連れてこれないよ」
「もったいつけるってのか!四歩の分際でえっ」
「もったいつけてるわけじゃ…、その、今は観光センターもすっごく忙しいし」

襟首をつかまれて揺すぶられるが、連れてくるよとは間違っても言えない。
三歩が首を縦に振らないとわかると、宮川はやおら立ち上がりこぶしを握った。

「じゃあ俺が行く!」

これを聞いてため息をついたのはこの山荘の従業員、松川だ。

「オーナー。この繁忙期にいなくなるとかゼッタイだめですからね」

宮川はぎくりとなって鼻水を垂らした。
松川の言うとおり、今は山のハイシーズン、七月だ。基本的に少人数で切り盛りをしている山荘はどこも大わらわになる。それを言い出すと涸沢でヒュッテ山じいを営む「山じい」こと、山口がここにいて自分の店を手伝っていないのは、あわれ従業員としかいいようがない。こう見えて、山口は遭対協の隊長だ。

「三歩よ、おまえせめて写真くらいないのか?」
「お!そうだ、そうだ、この際写真でいい」
「写真は撮ってないよ。俺カメラ持ってないもん」
「そうだった。おまえに文明の利器を求めたわしがばかだった」

「そうだ!」と突然声をあげて三歩はバックパックをさぐりだした。ずいぶん奥まで手を突っ込んでいるからいったい何を探しているのかしらと宮川と山口が首を伸ばすと、出てきたのは密封パックに入った大きめの写真だった。

「見せろ!」
「あっ」

宮川は素早く写真を奪いとり、顔を近づけた。
それは、新穂高ロープウェイで撮ってもらった一枚だった。
雪洞からテントへ住居を切り替えたときにバックパックに詰めたきりになっていたのを思い出したのだ。
山口ものぞき込みついでに三歩ものぞき込む。
改めて見てみると、今のほうがやわらかい表情をしてくれるようになった気がした。

「か、かわいい…」

宮川が思わずうなった。
写真を持つ手がぶるぶると震えている。

「じゃろ?」

まるで自分の持ち物みたいに山口がいやらしい顔をした。

「…よし決めた。俺は下へ行く、誰がなんと言おうと行くぞ!」
「オーナー!」



宮川の逃避行の試みはあっけなくついえて、岳天山荘から三歩は三ノ沢へ、山口は涸沢へ晴天のもとそれぞれ別々のルートへ別れた。
その途中たくさんのクライマーと元気な声であいさつをしてすれ違ったが、三歩のすみかである三ノ沢へ近づけば近づくほど人は少なくなっていく。三歩がテントを張っている場所まで来ると周辺に人の気配は立ち消えて、山のハイシーズンとは思えないほど静かだった。
と思いきや、今日は思いがけず客人がいた。
三歩のテントの前に座っている老紳士に三歩は見覚えがあった。



「お嬢様と親しくしている男性がどんな生活をしているのか見に来たのです」
との用向きで松尾は一人でここまで登ってきたという。
あからさまな嫌味のこもった口調と視線をものともせずに三歩はテントの入り口を大きくひらいた。

「いらっしゃい!大変だったでしょ、よかったら泊まって行ってよ!」

そう簡単に気を許すと、このじじいをあなどりなさいますな!とは、こうもあけすけに歓迎されると言いづらい。三歩を待っている間に西の空が赤くなりはじめてしまったうえ、三ノ沢までたどり着くのは老いた体には相当こたえていたので、松尾は一晩泊まっていくことにした。

夏でも3000メートル級の山の夜は冷えた。
人の作り出すもののにおいがしない風に、やがてミネストローネのいい匂いがまじってきて、松尾はありがたくこれをいただき疲れた体をあたためた。

「ご家族は?」
「うちはね、親は小諸っていうところでリンゴ農家やってて、姉ちゃんがひとりいるよ」

一宿一飯の恩義をうけても、松尾は三歩のひととなりの調査に手を抜くことはなかった。

「お休みの日はなにを?」
「山に登るなあ。あとは本を読んだり、コーヒーを飲んだり、冬は雪崩の場所を記録したり、救助要請があればいくよ。あ、お休みの日っていうか、いつもお休みなんだけどね!」
「…それは“無職“ということですか」
「うん」

三歩はなにを悪いとも感じない様子で、「熱いから気をつけて」と食後のコーヒーをさしだした。
松尾はコーヒーを受けとってテントの中をこっそり見渡した。
あるのは、使い込まれているがきれいに手入れされた山の道具ばかり。
ぜいたく品や娯楽品は、袋いっぱいのコーヒー豆以外にはなに一つ見当たらなかった。



「お風呂もあるよ」と案内された先には驚いたことに自然の温泉が湧いていた。

「さいっこーでしょ!」
「…むむ」

疲れた体で適温の湯につかっても、最後の意地で松尾は三歩に同意しなかった。
懐柔されてなるものかと、三歩とは目を合わせてやらずにつんと上を向いた。
星がうつくしかった。
光がはしって「あっ」と声をあげた。流れ星だ。

「いまっ、…」

思わず三歩の方を振り返ってしまったが、三歩は、気持ちよさそうに目を細めて夜空を見上げていた。

「…どうしてこんな場所で、救助を」

この場所はたしかに美しいが、大きな流れ星を見たって誰ともそのうれしさを分かち合えない。病気をしたって誰も心配しないし、死んでいたって誰ひとり気づかないだろう。

「山が好きだからだよ」
「…」
「山に来る人も好きだし、山に来る人に山を好きになってもらいたい」
「そうはいっても山で事故に遭って助けられずに亡くなる人はあるでしょう。毎年たくさんニュースになる」
「助けられないのは悲しいよ」

また一つ星が流れた。

「とても悲しい」

松尾はなにも持たないこの男を不思議とうらやましいと感じていた。






寝袋を借りて朝になり、ひとりで山をおりるという松尾に三歩もついてきた。
長野出身で学生時代はワンダーフォーゲル部に所属していた松尾に対して 「このあたりは浮き石が多いから気を付けて」なんておせっかいをいう。
ついてこなくていいと言ったが「これからさんと会う約束だから」なんて三歩がいうものだから、松尾は警戒心を再燃させ、はや足に山をくだりだした。
踏んだ石が大きく動き、足をすべらせたのはその直後だった。



「申し訳ない…」
「いいっていいって。軽い捻挫でよかったよ。でもさんは驚いちゃうかもなあ」

人一人を背負っているというのに三歩は黒い岩肌がむき出しの山をずんずん歩いていく。
の名前が出ると松尾は三歩の広い背中ですっかり小さくなり、観念したようだった。

「…お嬢様は大変に努力家で、優秀なお方で」
「うん!そう思う」
「あの容姿で気の優しい方であられますから、たいそう人気もおありでして」
「うんうん」
「寄りつく悪い虫は海外でのお仕事が多い旦那様のかわりに、僭越ながらこのじじいめと、お嬢様とほぼ同じお顔立ちの二人のぼっちゃまとで追い払ってまいりました」
「俺も追い払われそう?」
「それはまあ…最初は追い払おうとしておりましたが、私めはこのていたらくですから、もう追い払えませんね」
「わお、ナイスレスキュー!」
「…三歩さん」
「うん!」
「お嬢様は来年東京で大きな手術を受けるんですよ」
「…」

三歩は走るように進んでいた足を緩めた。

「脳外科の手術です。それで今の症状が完全に治るという保証はありませんし脳の組織の一部を切除することで術後しばらくはご家族のサポートも必要になりますがそれでも。…前触れなく倒れる人が長く就ける仕事というのはあまりないでしょう。お嬢様は藁にもすがる思いでおられる」

三歩はメモで埋まったの本のことを思い出していた。
たった6か月働くためだけにあそこまで熱心に取り組むひとが、ずっとやりたかった仕事に就いていたとき、どんなふうに臨み、どんな思いでやめていったのか。

「私は昨日あなたを見て思ったのです。お嬢様はそうも思い詰めることはない。人間というものはもっと自由にものを見れば、豊かに生きる道がほかにあると。特に、当家は金持ちですので」

松尾は冗談めかした声を聞かせたが、三歩には彼が笑っているようには思えなかった。
案の定、松尾の笑い声は長くはもたず、次に聞いた声はひどく落ち着いたものだった。

「ですがあの子にはきっと、すがった藁の先にたどり着きたい場所があるのです」



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